天気が晴れだからといって、別にどうってことはない。今日は確か、海開きと川開きが両方あったはずだ。そのせいで人が町中にうじゃうじゃと溢れている。こんなにも不愉快なことがあるだろうか。よりによって今日、わざわざ外で待ち合わせを提案してきた無能な編集者と別れた後、そのまま家に帰ろうかとも思ったが、歩いているうちに気が変わった。行儀よく並んでいる街路樹の影に立ち、胸の前にカメラを構える。歩く分には邪魔で仕方がない浮かれた凡人共でも、被写体として捉えれば悪くないかもしれないと思ったからだ。ただ歩いているだけで、この岸辺露伴の漫画のモデルになる(可能性がある)のだから、奴等は相当幸運に違いない。
無心でシャッターを切るぼくの頭上で、正午を知らせる鐘が鳴り響いた。そういえば朝から何も食べていない、空腹を意識してから踏み出した一歩には力がまったく入っていなかった。恐らく暑さのせいでもあるだろう。知らない人の背中について、ただ道なりに歩いているとサンジェルメンの看板が見えてきた。今日の昼はここで買って済まそうか。導かれるように入り口へと向かった、瞬間、今まさに店から出ようとしていた女と肩が派手にぶつかった。両者どちらも視界に入っておらず、歩いていた速度のままに、だ。
「キャッ!」「うわっ!」
お互いの叫び声が同時に響き、通行人も一瞬こちらに目を向けたが、自分に関係ないとわかると途端に無視だ。もっとも声を掛けられても鬱陶しいだけだが、と思いながら尻餅をついたらしい女の方を慌てて確認する。どうやら怪我はなさそうだし、胸に抱えているパンも無事のようだ。夏場には珍しい袖の長い黒のワンピースが少しだけはだけて、白い太腿が露出している。悪いとは思いながらも、その鮮やかなコントラストに視線が釘付けになってしまう。
「すみません、私が前を見てなかったばっかりに」
「いや、謝るのはぼくの方だ。申し訳ない」
我ながら紳士らしく差し出した手の前に、女の細くて白い手が差し出された。触ってみた瞬間、まるで体温を感じない女の手の冷たさに驚き、思わず強い力で引っ張ってしまった。今考えると、だが、これがいけなかった。ぼくが手を握ろうとする直前に、女は手を引っ込めようとしていたのだ。しかし、ぼくの方が彼女の手を握る方が早かった。反射的に引っ込めようとした女の力と、ぼくの引き上げようとする力が両方かかったせいで、女の手首から先が取れた、のだ。
「……え?」
手が、取れた。
女の手首から先は確かに今、ぼくの手の中にある。しかし彼女自体はちっとも立ち上がれていない。店の入り口の前で座り込んだままだ。もしや彼女もスタンド使いか? それともドッキリだろうか? 瞬時に様々な可能性がぼくの頭の中を駆け巡るのを、女が細い声で制止した。
「ごめんなさい、それ、義手なんです。といっても飾りのようなものなので、今のようにすぐに取れてしまうんですけれど」
義手だと? 触れている感じでは、体温が無いこと以外はまったくの本物だ。こんなに精巧な偽物、なかなか拝めるものじゃあない。しげしげと食い入るように観察するぼくを女は薄く微笑みながら、もう片方の手のひらで、ぼくに「手」を返すように催促した。どうやら義手に夢中になっている間に、自力で立ち上がっていたらしい。素直に従い、義手と説明された彼女の手を差し出された掌に乗せる。こっちの掌は、本物だろうか? それとも義手なのか? 長い袖に隠れている手首から先のない腕は、一体どういう風になっているのだろう? 興味が膨らんでいくぼくに対して、彼女は一刻も早くこの場から離れたいようだった。パンと一緒に、受け取った己の手を胸に抱き、お辞儀をしてそそくさと立ち去ろうと背を向ける。慌てて呼び止めようとしたが、声をかけようにも名前だってしらない。「あの、」と後を追おうとした瞬間、彼女がくるりとこちらに振り向いた。
「驚かせてしまった上に、失礼なのは承知で聞きますが、貴方、お名前は?」
「露伴、岸辺露伴、だ」
「岸辺さん、ぶつかってしまって本当にごめんなさい。貴方のイヤリングが、さっきぶつかった拍子に片方だけ足元に落ちてしまっているわ」
「そんなこと、今はどうだっていい。ぼくは君に興味を持った。是非、ゆっくり話がしたい」
「ご縁があれば、またどこかで。それじゃあ、急いでいるの」
「待て! 君の名前はなんていうんだ? 教えてくれ、頼むよ」
せっかく彼女が教えてくれたのに、慌てて一歩踏み出したせいでイヤリングを自分で踏ん付けてしまった。しかし、そんなことは関係ない。まるでぼくたちの周りの人々から色を奪ったかのように、世界で鮮やかなのは彼女とぼくの二人きりのように思えた。パンの焼き上がりを知らせるベルが高らかに鳴り、ぼく達の周りを人は足早に通り過ぎて、サンジェルメンへ入店する。邪魔そうに横目に見ている者も、気にしていない者も全員どうだっていい。女の唇が、震える。まるで音を出すのを恐れているようだった。それでもぼくは君の名前が、君が知りたい。
「……イデア」
うつくしい微笑みひとつ残して、女は喧騒の中へとあっという間に溶け込んだ。あんなに深い黒をはためかせているのに、もう彼女を見つけることはできなかった。
彼女の名前はイデアだといった。腹の虫が思い出したように音を立てたので、本来の目的だったとおり入店する。あの女はどうやってパンを掴み、支払いをしたのだろう。どのパンを選び、どこで食べるのかと、トングを右手に掴んだまま、そんなことばかり考えてしまう。ご縁があれば、そう彼女は言ったな。次に会った時は、いっそ本にしてしまってもいい。いずれにせよ、当分は面白い漫画が描けそうだ。鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌に包まれながら「イデア」と声に、出してみる。不思議に包まれた彼女もまた、この街の住人なのだろう。彼女との出会いは紛れも無く、この岸辺露伴だけのリアル。新しい玩具を見つけたような喜びに、他の感情はすっかり平伏してしまった。ああ、なんて気分が良いんだ。右耳でひしゃげたイヤリングが少しだけ、揺れた。