春は好きじゃない。何かが始まりそうで、何も始まらない思わせぶりなところが特に。薄手のコートを選んだことを後悔しつつ、マフラーに鼻の頭まで埋めて歩く。仲良しの由花子は修了式終わりのホームルームの後すぐに、教室から姿を消してしまった。理由は知らないけど康一くん絡みなのは間違いない、いつものことだ。春休みに会う予定を決めるのはまたにしようかな。同じ色の制服の隙間をすり抜けるように歩いていると、まだ冬をたっぷり残したつむじ風が吹いていき、思わず身震いする。そうだ、コンビニで肉まん買って帰ろう。自分の思いつきでテンションを無理やり上げ、方向転換する。やっぱり肉まんはオーソンでしょ、と目の前にある緑色のコンビニにくるりと背中を向けた。



寒さから逃げるように駆け込んだコンビニの店まで見ることなく、一目散にレジへ並ぶ。次の方どうぞと店員のお姉さんに呼ばれ、「肉まんください」の「に」と言いかけたところで、もうひとつあるレジの店員さんが、最後の一個だった肉まんをトングで引っ張り出しているのを目撃した。私の視線に気付いたのか、お姉さんは「すみません、肉まんはあれでラストなんです」と申し訳なさそうに小声で教えてくれた。正しくは肉まん"も"な気がするけど。じゃあもう、いいです。と小声で告げた後、温めるもののなくなった肉まんの棚をうらめしげに横目で見て、コンビニから出た。こうなったら変なこだわりなんて捨てて、思い立ってすぐのコンビニで買えばよかった!なんだか肉まんを無性に食べたかった気持ちまで萎んできた気がする。仕方なくいつもの道へ戻ろうと、出たばかりのコンビニの前を横切った。

「やあ」

誰宛かもわからない呼びかけに、思わず振り向いてしまった。声の主は、コンビニの軒先に立っている不思議な格好をした男の人。どういうことか分からないが、その人の視線はまっすぐ私に向いていた。しかし私の視線はというと彼自身より、彼が胸元に持っている剥き出しの肉まんの方に向いてしまっている。というかもう、釘付けだ。

「君、最近康一くんとよく一緒にいるよな。たまに見かけるよ」
「わたし、のことですよね? えーっと」
「ぼくは岸辺露伴、康一くんの友人だ」
「岸辺露伴って……あ! え? あなたが!?」
「なんだよその反応は」
「いや、想像していたのとだいぶ違ったので、驚いてしまって。すみません……は、はじめまして」

私の反応が気に入らなかったのか、やけに綺麗な顔立ちが不機嫌そうに歪んだ。それを見て、心臓が更に縮こまってしまった気がする。そもそも彼の名前を聞いての反応には理由があるのだ。

彼の言う通り、私は康一くんからその名前を聞いていた。もちろん親しい友人としてではない。あの器の大きさでいえば並ぶものがいなさそうな康一くんが「この漫画の作者は杜王町に住んでるんだけど、悪いことは言わないから、絶対に関わらないほうがいいよ」と、ピンクダークの少年を借りた時に親切にも忠告してくれたのだ。しかも、何か嫌なことでも思い出したような暗い顔付きで。

「そ、それじゃあ、あの、失礼しますね」
「オイオイ、この岸辺露伴がわざわざ君なんかに話しかけてやってるってのに、その態度は無いんじゃあないか?」
「……何かご用ですか?」
「ああ、君、ちょっとぼくのウチまで来てくれよ。どうせヒマだろ? 頼むよ、この肉まんあげるからさ」

岸辺露伴は先程の高圧的な態度から一変して少し優しい声で喋りつつ、私の目の前まで近付いてきた。警戒心を解こうとしているのか、それとも何か企んでいるのか、まるでわからないところが恐ろしい。康一くんの忠告通り、彼と関わったら本当にろくでもないことが起きそうだ。細い顎に指を添えて、何か考えているようなポーズを取った人気漫画家をじいっと見つめながら、頭の中で慎重に言葉を選ぶ。

「肉まん……ほんとにくれるんですか?」
「もちろんだとも、ほら」

あっさり手渡された肉まんは、未だホカホカとあたたかく、これこそが求めていた温もりだと嬉しくなる。目の前の欲に眩んでしまった私の肩を、岸辺露伴は上機嫌に叩く。さあ、ぼくの家はこっちだ。とつま先の方向を私の家と真逆の方向へむけさせられ、軽い足取りで前を歩く背中に肉まんを頬張りながらついていく。知らない人について行ってはいけませんとは言われるけど、どうせ変わり映えしない季節なんだ。少しくらいなら危ない橋を渡ってしまうのも、良いかもしれない。肉まんも美味しいし。

「そういえば岸辺露伴さんは肉まん、いらないんですか? もうもらっちゃいましたけど」
「もともとその肉まんは、ぼくが自分で食べるために買ったんだが?」
「じゃあ、半分こしますか? どうぞ」
「…………美味いな」


***


一足先に家の中に入っていった岸辺露伴に続くことなく、ぼんやりと豪邸の外観を眺める。人気漫画家ともなると、こんな大きくて立派な家にひとりで住めるもんなのか。緑の屋根に白い壁、女の子なら誰だって一度は夢に見そうな家だ。そこに、なぜ私が今から足を踏み入れようとしているのだろう。

「いつまでそうして突っ立ってるつもりだ。とっとと中に入れよ」
「あ、ハイ、お邪魔します」

一度閉まった扉が開いて、漫画家先生が顔だけ出して急かしてくる。それにしても、出会ってからずっとこの人のペースだ。ドアが閉まる寸前に、隙間へ体を滑りこませる。外見の派手さと比べると、中もまた立派ではあるがどことなくガランとしている印象を受けた。こういうのを生活感がないって言うんだろう。階段を一段ずつついて上がり、手摺の上で掌をつるつるとすべらせる。やっぱり、ひんやりと冷たかった。

仕事場らしき部屋はやはりきちんと整頓されており、几帳面なのだろうと勝手に納得する。それから控えめに部屋の中に視線をさまよわせる。壁には原画が飾ってあり、駆け寄って近くで見たい衝動にかられたが、悟られないようにおとなしく入り口付近で立っていた。

どうして部屋の中に入っていかないのか、その理由はやはり書かなければいけないだろう。仕事用らしき立派な机と扉の間には、漫画家の仕事場にふさわしいとは思えない大きな空の水槽が置いてあるから、である。まるで人ひとりなんなく入れてしまいそうな、バスタブサイズの透明な水槽を、見てみぬふりをしてこの部屋について語ることはできなかった。インテリアとしてここに設置してあるとしたら、前衛的すぎるというか、正直邪魔だ。常識的に考えて、ここで使うために一時的に置いているとしか考えられない。そして今の私には、この水槽と初対面の私が家に呼ばれた理由が無関係だといいな、と切に願うことしかできない。

「君をうちに招いた理由は他でもない、この水槽にあってね。まあそう身構えないで、とりあえず話を聞いてくれよ。実はこれ他人から譲り受けた、所謂曰くつきってやつなんだが、その曰くってのがなんとも興味深いものなんだ」
「イワクツキ……」
「聞いた話によると、このなんの変哲もなくただバカデカいだけの水槽の中に、処女を寝かせて水を入れると、不思議なことが起きるっていうんだよ。その不思議なことってのが何なのか、ぼくも結構調べてみたんだけど結局分からずじまいでね。だったら、その不思議なことってのが一体何なのか、この目で確かめる他ない。そう思わないか?」

自分だけはちゃっかり椅子に座って脚まで組んだ状態で、あろうことか私に同意を求めてくる。一秒、二秒と私がうんともすんとも答えないせいで、少し気まずい沈黙が訪れた。何か言わなければ、いやでも何を? 今の私の頭に浮かんでいる単語は、肉まんを半分くれたという恩を捨てるようで申し訳ないけれど否定的な言葉ばかりだというのに。

「その、聞きたいことは今の時点で結構あるんですけど、私じゃあなくてよくないですか? もっと他の人……女の子に頼めば」
「他に頼める女性がいないから、君に頼んでるんだろう? 名字なまえ。まあ正しくは、ぼくの知り合いや康一くんの学校の生徒もそうだが、処女で協力してくれそうな女性ってのがなかなか居なくてね。ようやく見つけたのが君って訳だ」
「そ、その、処女っていうの、は、なんで私がそうだって」
「ああそんなことか。康一くんを調べた時に君の名前があったのさ。たしか山岸由花子の友達で、彼氏はいたことがないって書かれてたかな。まあ彼氏がいないだけじゃあ処女である確信はないだろ?だから念の為、君の事も調べさせてもらった。そうしたら男性経験はない上に、ぼくのファンらしいじゃあないか! 最高だよ! 断る理由がないんだからな!」

な、何なんだこの人は。嬉々として話しているのは全体的に信じられないことばかりだ。そもそも私のことを調べたって、探偵でも雇ったんだろうか? 普通に考えるとあり得ないけど、この人なら全然あり得る。出会ってまだ1時間と経っていないが、自信を持ってそう言える。

「もしかして私に話しかけるためにオーソンの前に立ってたってわけですか?」
「その通り、よく分かったな。君が肉まん食べたそうにしてたから、ああやって話しかけたのさ。それに君の学校は、今日が修了式だ。つまり明日から春休み、君もどうせヒマを持て余してるんだろ?」
「ちっともヒマじゃないです! 由花子とも遊ぶ予定だし、その、康一くんだって……」
「ほほう、山岸由花子とは宿題を見てもらう約束を取り付けようとしたが、彼女は康一くんとデートで忙しく、断念したんじゃあなかったのか?」
「なっ、なんでそんなことまで」

もはや探偵とかいうレベルじゃない気がしてきた。ストーカー? というよりエスパーだろうか? 方法はわからないが、全てを見透かされている気になってとてつもなく恐ろしい。ニヤニヤと笑みを浮かべて私が狼狽えているのを観察しているのも気味が悪いし。何なんだ一体、というかどうなるんだ私は。

「簡単さ、顔に書いてある。ぼくに隠し事ができるとは思わない方がいい。よし、早速準備に取り掛かるとするか。君はそうだな、適当にそこら辺に座って楽にしていてくれ。くれぐれも、原稿には触るんじゃあないぞ」
「えっちょっと待って、ください」
「なんだ、まだ何かあるのかよ」
「不思議なことって、危なかったりしませんよね? し、死んじゃったりとか」
「それはまあ、やってみなくちゃあわからない」

無慈悲にドアが閉められる。緊張が解けたせいか、私はその場にへたり込む。今のうちに逃げ出したほうが良いんじゃなかろうか。康一くんや由花子に電話、いやそれより警察に通報したほうが良い? まとまらない思考のまま、目の前の水槽を半分涙目になりながら見つめる。どう見てもホームセンターに置いてある大きいだけが取り柄のような、普通の水槽だ。金持ちがアロワナとかピラニアとか飼うような。不思議なことなんて起きずに無事に家まで帰れますように、と思わず手を合わせてしまった。どうしようと迷っている内に、階段を上ってくる悪魔の足音が大きくなってくる。心なしか足取りは軽く、ご機嫌なリズムにすら聞こえてきた。ああ、お父さんお母さん、なんだか今日は無事に帰れる気が、微塵もしなくなってきました!


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