彼に会う時はいつだって、白いワンピースと決めている。ゆっくりと袖を通しながらカーテンの隙間から溢れる夕日に目を細めて、幸せを噛みしめる。床に転がった鞄を掴んで、サンダルに爪先をねじ込んだ。

「どこ行くの、もう夕方よ」
「ちょっとそこまで」

お母さんの声だけの制止を振りほどいて、玄関の扉をぴしゃりと閉める。まったく、いつまでも子ども扱いするんだから。駆け出しそうになるのを抑えながら、堤防の脇を慎重に歩く。夕日はすでに半分海に溶け出していて、夜の手を引いて連れ出そうとしている。日が沈めば、代わりに街に灯がともる。静かな眠りにつく人たちと、騒がずにいられない人たちが共存できるのだから、この街は狭いくせになかなかに優しい。

早く帰らないと怒られるのか、すぐそばを子供達が脇目も振らず、駆けていく。いくら急いだって、もう間に合わないだろうに。子どもの頃の自分を重ねて、少しだけ笑ってしまう。

港の端にようやくたどり着き、灯台を見上げる。昼間はくすんだ灰色をしているが、夜になれば真っ黒で心なしかひとまわり大きく見える。上を向いたまま歩を進めると、舗装された道を踏み外して砂浜に踵が沈んだ。灯台元暗しの使い方は違うけど、意味はそう変わらないな。そんなことを思いながら灯台の壁を撫で、感触だけでドアノブを探す。明かりを持って来ればいいのだけど、私がここに来るのは秘密だから。誰に言い訳をするでもなく、探し当てたノブを捻る。開いたドアの中に続く螺旋階段が、うっすらと月の明かりに照らされていることを確認して、後ろ手に扉を閉めた。

「また来たのですか、貴女も懲りませんね」
「うん、何度だって来るよ。異三郎が私を思い出すまで」

返事はため息、ひとつきりだった。
灯台の最上階にある小部屋に、彼はいる。灯台守のための住処として作られたこの部屋は、灯台が本来の役目を果たしていない今、誰の部屋でもない。そこに彼が、異三郎が居ると知っているのは、この街でいや、きっと世界中で私だけ。そんな都合の良い現実に自分が身を置いている、我ながら信じられないけれど本当の話だから受け入れるより他にない。

「自分のことすら思い出せないというのに、貴女を思い出せる訳がないでしょう」
「そんなの、わかんないよ。私とこうして話してたら、子どもの頃の記憶が刺激されて、全部思い出すとか」

口元だけで笑ってみせる彼に、思わず顔が熱くなる。

夏のほんの数日間だけ、この街の外れにある豪邸に、幕府のお偉いさんが家族で訪れる。狭い上に隠し事なんてできやしないこの小さな街中に、異三郎とその家族の来訪という事件はあっという間に広がった。しかし根も葉もない噂が散々囁かれたものの、彼らと話したことがあるものは1人もいなかった。

「私は異三郎の友達だったの。本当よ、他でもない異三郎がそう言ったんだから」
「はあ、」
「その反応はなに?」
「佐々木異三郎は、夏の間だけ訪れるこの街で出会った貴女と親しくなるが、貴女が中学校に上がる年からこの街を訪れなくなる。そうして何年も経った後に、佐々木異三郎は警察庁長官となるが、先の戦いで亡き者となった。何度も聞いていますからね、もう流石に覚えました」
「思い出したんじゃなくて、覚えたのね」
「はい」
「それじゃ、ダメだわ」

窓から月の明かりが眩しいくらいに差し込んで、私と異三郎の膝を白く浮かび上がらせた。目の前にいる異三郎は、幼い頃焦がれた面影を濃く残したまま大人になっていて、間違いなくテレビで何度も見た顔貌だった。昼間は街に降りることもあるというが、どうして街の人は皆気付かないのか。生活に入り込む余所者とテレビの中の出来事に、異常なほど敏感だというのは思い込みだったのかもしれない。ニュースや新聞で三天の怪物と謳われた彼が、この街を再び訪れるなど、想像もつかないのだろうか。
現に私がそうだったように。
あの夜、浜辺で立ち尽くす異三郎を見た時、心臓が押し潰されそうになりながら、名前を呼んだ。しかし、かえってきたのは、彼の「誰ですか?」という問いだった。名前を呼んだ私、それから私に呼ばれた「異三郎」という名前に対して、彼は「誰ですか?」と問うたのだ。

新聞の記事曰く、異三郎の遺体は上がっていないという。当然だ、だって彼はここに、私の隣にいるのだから。記憶も名前も何もかもを失って、灯台に根付く植物のように暮らす男が、佐々木異三郎だと知っているのは、私だけ。
それ以上に、私は何を望むのだろう?

「貴女は、私に全てを思い出して欲しいのですか?」
「当たり前でしょ。そのために、こうして異三郎に会いに来てるんだから」
「本当に?」

疑いを孕んだ指先が、するりとスカートの中に潜り込んだ。内腿を滑る感触に思わず震える私を、受け止めるように背中に手が回る。そのまま抱き寄せられてしまえば、もう答えられないのに。さりげなく敏感な所に触れて、そのまま服の下を這い上がるように腰を、腹を、それから胸を撫でられる。唇を重ねて欲しいと視線でねだってはみるものの、どうしてかその願いは聞いてもらえない。代わりに首元に顔を埋められ、彼の息がかかる度に情けない嬌声をあげてしまう。

「貴女が教えてくれるんでしょう? 私が何者なのか。口を塞いでしまったら、聞けないじゃないですか」

まるで捕食者の目だ。覗き込まれた目を見て思った瞬間に、体を易々と持ち上げられる。自慢ではないが、体重はそう軽くはないはずなのに、どこにこんな力を隠しているのだろう。そのまま自分の膝に座らせたかと思うと、後ろから好きなように私の体を弄ぶ。私の身体に知らない所は無いと、彼の指の動きは雄弁に物語っていた。浜辺で幼い頃の友人である彼を見つけ、この灯台に匿った。彼の記憶を思い出させるために、彼の元へ訪れるために、大切に守らないといけない自分の幼い頃の記憶も、面倒な田舎のしがらみも全て放り投げて、彼の腕の中では、私はただの女でいられる。
私、でいられる。

「異三郎、」
「さあ、今日も教えてもらいますよ。貴女のことを、たっぷりと」

記憶を無くした優しい怪物が喉に噛み付いた。そのまま私の記憶ごと食いちぎってほしいのに。祈るように目を閉じる。この街の白い月は、私達だけを照らすのだ。



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