「それは一体なんの真似だ、肉まんか? 結構似てるな」
「……お腹痛くなってきたんで帰って良いですか」
「構わないが、帰るのはこの水槽に入ってからにしてくれないか」

どうせ原稿の盗み見か、無様に逃げ出そうとでもしているんだろうと思っていたが、水をバケツに汲んで戻った部屋の扉を開けると意外にもすぐに彼女の姿が目に入った。出て行った時と全く同じ場所に居るのは変わらないが、なにやら床の上で丸まっている。一瞬、水槽へ向かって土下座でもしているのかと驚いたがそうではなく、頭を腕で覆ってただじいっとしているだけだったのだ。よく他人の家の床に這いつくばれるなと思いながら、バケツを水槽の真横に置く。その音に一瞬ビクッと体を揺らし、恐る恐る指の隙間からこちらを覗いているようだった。この際、多少の奇行は目をつむるとして、水槽に付属していた古びた紙切れを確認しよう。なるほど、女を横たえた後に水を注ぐんだな。他には何も書いていないから、とにかくこの女を水槽に入れなければ話は始まらない。

「さあ、あとは君が水槽に入るだけだな。とっとと入ってくれ」
「……いやです」
「この期に及んで抵抗するのか? ったく面倒だなァ……。わかった、だったら取引しよう。もしぼくのいう通りに君がこの中に入るなら、なんでもひとつ、君のいうことを聞いてやろう。君はただ水槽に入るだけで、この岸辺露伴に命令する権利が与えられるって訳だ 」
「でもそんな約束、私が死んだら意味ないですよね」
「水槽に入ったくらいで、人が死ぬわけないだろ。悪く考え過ぎなんだよ」

頭を覆っていた腕がススッとずれて、目だけで納得できないと訴えかけてくる。ただぼくはこの水槽の謎が知りたいだけなのに、どうしてこうも面倒で苛つく女の相手なんてしなきゃあいけないんだ。いっそヘブンズドアーで、言うことを聞くように書き込むか。 読んだばかりで閉じ損ねていた左腕の頁が、ぴらりと誘うように揺れた。

「……ほんとに、なんでも言うこと聞いてくれるんですか。なんでも、ですよ?」
「ああ、なんでもだ。さあ、早く立ち上がってくれ。それとも丸まったまま、水槽に投げ入れられたいのか君は?」

ようやく脅しに屈したのか、女は渋々その場で立ち上がる。剥き出しの膝は、床の木目がしっかりと刻まれた上に赤くなっていた。嬉しそうに肉まんを食べていた表情は一体どこへ行ったのか、不満なのを顔全体から滲み出させながらぼくを一瞥し、それから恐る恐る水槽の縁を片足で跨いだ。

「そういえば私、制服ですけど、このまま水をかけられるんです?」
「ウチに女物の洋服があると思ってんのか? あとでクリーニングにでも出せばいいだろ。それくらいはしてやるよ」
「それは、取引とは別でお願いしますね……」

女のもう片方の足も、水槽の中へと入っていった。硝子は意外にも頑丈で、彼女の体重がかかっても割れる気配は無い。取り敢えずなのか、水槽の中で体育座りをしている姿はなかなかに現実味がなく面白かった。硝子越しに彼女と目が合うと、不安と恐怖のせいか瞳が揺れている。なるほど、悪くない。彼女に対する評価を改めてやろうかと思った矢先、水没を恐れてかポケットに入れていたらしいスマホやハンカチなどを、突然水槽の外へと放った。それから恥ずかし気もなく靴下を脱いで、同じように床へ放るのを見て、なんて色気がなくガサツな女なんだと、上がりかけていた彼女の株がたちまち暴落した。

「準備が出来たら、横になるんだ。違う違う、仰向けに……まさか君、このまま眠るつもりじゃあないだろうな?」
「入って分かったんですけど、この中、意外と狭くて落ち着くんです。でもこれ、仰向けになるとまるで棺桶」
「面白いことを考えるなァ君は! よし、じゃあ水を注ぐぞ」

ぼく自身もまったく同じことを考えていたが、ここまで来て無駄に抵抗されるわけにはいかない。問答無用で水を流し込んで黙らせることにした。これが彼女の本当の棺桶になりませんようにと念じながら。

それにしても、水をどのくらい注げばいいのか分からない。バケツ一杯で、彼女の半身が浸るくらいだ。もう少しだろうか、ともうひとつのバケツを持ち上げ、そっと足元から注ぐ。長い髪の毛やスカートの裾が、水によって彼女の意思と無関係に広がっていく。恐ろしいのか目を閉じているため、本当に死んでしまったように見えてならない。

「おい、大丈夫か?」

ぼくの問いかけに、微かに頷いた瞬間だった。水槽が、ガタリと大きく揺れた。彼女が動いて当たったわけではない。まるで水槽が自分の意思で動いたような、そんな揺れ方だった。まさか、曰くってのは本当だったのか? 空のバケツを放り投げ、相変わらずガタガタと不規則に揺れている水槽を食い入るように見つめる。目をつむっている彼女もようやく異変に気付いたのか、そうっと片目を開けた、瞬間だった。突然、水槽が目を開けていられないほどの光に包まれたのだ。あまりの眩しさに、腕で顔を反射的に覆う。水槽は揺れるのをやめたようで、ただ微かな水音を立てながら殺人的な白い光を撒き散らしている。

「名字なまえ! 一体何が起きているんだ!! 無事か!! オイ、返事をしろ!! 聞こえてるんだろ!!」

水音は変わらず聴こえているのに、彼女の声がしない。顔を必死で背けながら、眩しさのあまり思わず離れてしまった水槽へ近付き、彼女が浮かんでいるはずの水槽の中へがむしゃらに両手を突っ込んだ。


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