ぼくの両手の先が彼女に触れた直後、眩いばかりの光はすうっと引いていった。未だに網膜が焼き付いたようになっているのを堪えながら、薄目を開ける。見ると半身を起こした彼女が、こちらを向いていた。なんだ無事なのか、だったら返事くらいしろよな。不服に思いながらも徐々に正常になりゆく視界が再び彼女を捉え、ようやくそこで、異変に気が付いたのだった。

「…………君、名字なまえか」
「何言ってんですか、そうですよ。こんな目に合わせといて、はじめましてからやり直せる訳ないでしょ」
「そうか、君はまだ気付いてないようだが、落ち着いてぼくの話を聞いてくれよ。この水槽が突然揺れて光った時に、なにか異変を感じたか? たとえば痛みや、体の違和感だとか」
「いいえ何にも、ただ誰かに足を触られたくらいで他には…………あれ?」

話しながら、彼女の視線が自分の足に向いた。正しくは、少し前まで足があったところへ。

「足…………私の足、無いんですけど」
「ああ、そうだな」
「無いっていうか、えっ、夢? これ夢ですよね? なんか足が魚みたいになってません?」
「この場合、魚というより人魚の方が正しいんじゃあないか?」

制服のスカートから伸びるのは薄い青色の鱗に包まれた魚の下半身で、更にその先端は二つに分かれた大きな尾びれがついている。想像上の生き物であるはずの人魚が、岸辺露伴の前にいるのだ。こんな素晴らしいことがあるだろうか? 骨董品屋のオヤジにこの水槽を買わされた時は、半信半疑の疑の方が大きかったが、とんでもない大当たりだ。仕組みはまったくわからない上に、人魚といっても上半身はぶどうヶ丘高等学校の制服に身を包んだ名字なまえのままなのが、残念ではあるが。

「つまりは成功したんだ!! やったぞ!! この曰くってのは、水槽の中に入った処女を人魚にするってことだったんだな!! お手柄だ、名字なまえッ!!」
「あ、あはは、なるほどー」
「何だよその棒読みは。人魚になったんだぜ? 君の平凡極まりない人生における、一番の大事件じゃあないか! 早速スケッチを……いや写真も撮らなくっちゃあな。クソ、水槽に入れる前にも撮っておくんだった」
「…………」
「気のせいか、顔色が悪くなっているようだが大丈夫なのか?」
「…………なんか……干からびそうで…………あと、暑いです……猛烈に……」
「干からびる? 魚じゃああるまいし」

ぐったりと水槽の縁に凭れたまま、女の顔から赤みがみるみる失せていく。浅い呼吸を繰り返し、まるで湯船でのぼせてしまった風な彼女を見て、これはもしかしてマズイのか?とようやく思考が動き始める。そして、もう一度頭から爪先(のあった場所)までをよくよく見て、「…………いや、半分は魚なのか」自分の発言を冷静に訂正する。おそらく、彼女の耳には届いていないだろう。

「仕方ない、ちょっと失礼するよ」

彼女を読むのは、これで三度目だ。彼女の本はすっかり読み切っていたはずだが、いつのまにか新たな頁が増えておりその見出しにはでかでかと「岸辺露伴の不思議な水槽によって、人魚になってしまった!!」と記されていた。なにか有益な情報はないかと、さらに頁を捲る。そこには様々な人魚の生態と、身体の構造が書かれている。現時点で彼女が理解しているかどうかに関わらず、実際に体に起きたことと起きてはいけないことが羅列されているという感じだ。それ以外に知りたかった情報、例えばこうなった原因や仕組み、人間への戻り方などの項目にはには不明の二文字がずらりと並んでいる。どうやらスタンドによる変化ではないようだし、現時点での彼女の状態もとりあえずは、わかった。なかなかに危険な状態にいる、ということも。

「人魚は水棲動物です。水が無い場所では生きていけません……。なるほど、取り敢えず干からびる前に水を足してやるか。写真はその後だな」

バケツを両手に抱えて部屋から出る前に、チラリと振り返り名字なまえの姿を確認する。いつのまにか水槽の底に丸まっており、頬を水につけて浅い呼吸を繰り返している。制服は背中に張り付き、スカートから覗く偽物にしてはリアル過ぎる魚の下半身は、肩と同じく彼女の呼吸に合わせて上下しているようだった。考えなければいけないことは山積みだが、胸の中に湧いている興味と興奮を抑えることはどうしてもできない。人魚を手に入れたとすれば、どんな漫画が描けるだろう? ぬらぬらと夕日に照らされている鱗を眺めるうちに、このまま彼女が死んでしまったら漫画を描く以前にぼくの立場が色々危ないと、急に現実ヘ引き戻され、勢いそのままに慌てて階段を駆け下りた。



「死ぬかと思った…… 」
「フン、ぼくの迅速な対応に感謝するんだな。ほら、次はこっちだ、腕はこう後ろに」

シャッターを切る音が何度か二人の会話の間に挟まれ、やがて会話の方は途切れた。彼女は未だに赤い顔をしたままだが、どうやら元気にはなったらしく水槽に満たされた水の中で、自分の尾鰭をじいっと見たり動かしたりしている。彼女が水中でくるりと向きを変えるたびに水滴が跳ねて床に散ったが、それに関しては目をつむってやることにする。

「これから……どうなるんですか私は」
「おっ、その物憂げな表情はなかなかいいぞ。そのままキープだ」
「こうなるって知らなかったってことは、戻る方法も知らないんですよね? うーん、どうしよう……」
「意外と冷静だな。もっと大騒ぎするかと思っていたが、」
「騒ぎたいのはやまやまなんですけど、さっき死にかけたせいで体力が限界で」

気付けば外はすっかり日が落ちていて、彼女は門限があるからと親に連絡し「春休みは友達の別荘で勉強合宿をすることになったから当分帰れない」という下手くそな嘘をついていたが、特に問題ないようだった。夏休みも同じ理由で、実際に山岸由花子の別荘で何日も連泊していたからだという。親に許されなければ、この状態のコイツを家まで連れていって経緯を説明する必要があるのではと、少しだけヒヤリとしていたことはどうやら悟られていないらしい。子供はいつだって自分の行動に無責任だが、それが少なくとも今回はいいように働いた。しかし同時に、大人の行動の責任がこれから問われることに、薄々、僕だって勘付いている。思うままに筆を走らせたスケッチブックを膝に置き、水中に何秒潜水できるかにチャレンジし始めた名字なまえをぼんやりと眺める。

「…………とりあえず食事か」

人魚って何食べるんだ。人間だった時と見た目以外に変わっている、本人も気付いていない何かがあるかもしれない。水が無ければ干からびてしまうように、彼女にぼくの常識は届かないのだから。魚は共喰いとかになっちまうのか、まあ適当にキッチンに何かあるだろう。無ければ、出前を取ってもいい。疲労からか少しだけふらつく足を踏ん張って立ち上がり、出口へ向かうと大きめの水音が鳴った。

「岸辺露伴さん」
「なんだ」
「私が水槽に入ったら、何でもいうこと聞くって言ってましたよね。忘れないうちに聞いてもらっていいですか」
「………………仕方ない、約束だからな」
「よかったあ」
「ぼくにだって無理なこと……たとえば今すぐ人間に戻せとか、そういうのでなければ聞いてやるさ」

それは大丈夫だと思いますと小声で返し、尾鰭がぴちゃんと水面を打った。波紋の広がる水の上に顔だけ出している姿はまるで水族館のアザラシみたいだ。そんなことを考えながら、もったいぶって片眉を上げ、命令を促してやる。

「私の春休みを貰ってくれませんか? こんなことになったし、お願いするまでも無いかもですけど……」
「春休みを貰うだと? 貰うというとつまり、ぼくの好きに使ってもいいってことか? 言っておくが、ぼくはそこまで良い人間じゃあない。君のいう通り貰うとすれば、家の掃除をさせたり料理を作らせたり……これは君が人間に戻れたらの話だが、そういうことにつかうぞぼくは」
「まあ別に、いいですよ何でも。別に家に置いてくれなくてもいいんですけど、受け取ったからには使い切ってくださいね。じゃないとせっかくの暇潰しが……あ、いや、お願いが」

なるほど、そういうことか。少しだけ考えた後、仕事の邪魔にさえならなければどうでもいいという結論に落ち着き、そう伝える。安心したように笑う彼女に、どうしてこんなくだらないことを頼むのかと疑問に思う。最近の高校生の思考は、なんとも不思議だ。自分にだけは、時間が無限に与えられているとでも思っているんだろうか?

「私、春が嫌いなんです。希望とか溢れてる感じがして」
「だからって、ぼくに押し付けるのか」
「他にお願いが思い浮かばなかったんですもん。こういうのはさっさと決める方が得でしょ?」
「君、好きなものから食べるタイプだろ」
「当たり前です」

欲しい服とか靴とか? 行きたい所とか食べたい物とか、女子高生のお願いなんてそんなものだと思っていた。やはり安請合いなんてするもんじゃあないな。そもそも人付き合いが煩わしくてこんな暮らしをしているのに。といっても、今の彼女が人と言ってもいいのかは知らないが。ごちゃごちゃと考えながらも、部屋を出ようとした当初の目的を思い出して水槽と女に背中を向けて扉を開ける。暗い廊下に出た瞬間、もう一度、彼女の尾鰭が水面を打つ音がした。


ALICE+