吾輩は猫である。名前はまだない。このフレーズが頭を過ぎる。
化け物の様な怪物の様なこの世のものではない異質なものに出会した。
霊感なく生きてきたけれど、その化け物が見えた時には、この世の全てを知った様な気がした。五感で感じる世界の異変を。
為す術もなく、化け物に後悔だらけで死を覚悟した時には、恐怖のあまり意識を手放した。
気がつけば見慣れたはずの通路はやけに大きく、杖を着いて散歩する老人は巨人の様に規格外のサイズ。じりっと後退りすれば背後に石垣を感じた。
「可愛い猫ちゃんね」
こちらを微笑ましく見つめる老人の言葉に戸惑う。猫とは何だ。『またね』と背を向け歩き出した老人を引き止めようと声を掛けた。
「にゃあ」
視界に入ったのは、もふもふとしたクリームパンの様な手。『すみません』と言ったはずの声は可愛らしい鳴き声だった。
そして冒頭に戻る。
有名な小説の書き出しが脳内をループする。
信じ難い話だが、私は猫になったのだ。住んでいたアパートに戻っても鍵は無く入る事は出来ない。窓の一つでも空いていれば良かったものの、過去の私はしっかりと戸締りをしていた。正しい事をしていたはずの自分を責めたくなった。
ぽつぽつと冷たい雫が降り注ぐ。雨が降り出した。雨をしのげる場所と食料を確保したいところだ。屋根になるものも無いこの場所を足早に後にした。
どのくらい歩いただろうか。短い手足では限界がある。バスや電車、車に乗りたい。お腹も空いた。キャットフードって美味しいのかな。なんて思いながら丸くなる。こうすると暖かい。寒いのには変わりないのだけれど、ましな気がする。
急に雨が止んだ気がして見上げると、スーツ姿の男が傘をさして立っていた。
「どこの子ですか」
家はあるけど帰れません。お願いだから拾って下さい。私を飼ってと熱弁しても、にゃあにゃあと声が出るだけだ。なんて不便なんだ。
傘をこちらに立て掛け、ポケットからハンカチを取り出し、ごしごしと優しく身体を拭く。優しい人だ。けれど、これでは彼が濡れてしまう。
「早く飼い主が迎えに来るといいですね」
連れて帰ってはくれない。飼い主なんて居ないのに。よしよしと頭を撫で、雨に濡れながら消える背中に叫んだ。助けてと。
もう鳴くのも疲れた。なかなか人通りもなく、あれから誰にも出会っていない。あの人がラストチャンスだったのではと考える度に身の毛がよだつ。
足音がこちらに近付いて来るのを感じて、今から現れる人に全力で賭けようと決意した。
「にゃあ」
現れたのは、傘を差し出してくれたあの人だった。違う色の傘をさして、スーツはラフな格好に変わっている。
「まだ居たのですか」
「にゃあにゃあ」
どうにかして伝わらないものかと鳴いてみるも、声は掠れて上手く出ない。抱っこをせがむ様に両手を広げて彼の足にしがみついた。
「うちの子になりますか」
勢い良く返事をすると優しく抱き抱えられた。これでもかと甘える様にすりすりと頭を胸に押し付けると、優しく撫でられる。暖かくて気持ちがいい。だんだん重くなる瞼に逆らえずそのまま微睡んだ。
「お風呂にしましょう」
嗅ぎ慣れない部屋の匂いと共に優しい声が聞こえた。『お風呂が沸きました』と機械音声がした。この人はお風呂に入るのだろうか。まさか猫の為だけに沸かしたのだろうか。
抱き抱えられバスルームに移動すると、目の前に洗面器を置かれた。これで洗ってくれるのだろう。寒かったし、身体の芯から温まりたい。自ら洗面器に入ると『少し待っていて下さいね』と聞こえた。
がちゃりと扉の開く音がして、彼がやって来た。恐る恐る見上げると、肌色の面積がやけに多く、ああ、やっぱりかと苦笑する。
出会ったばかりの人とお風呂を共にするとは、人生でそうそうない。向こうは猫だと思っているから、気まずいのはこちらだけ。目を閉じて温まろう。目のやり場に困る。
「珍しいですね。お風呂好きとは」
膝の上に乗せられ、お風呂を満喫する。見下ろされていた時は顔は良く見えなかったけれど、サングラスを取った彼は整った顔をしている。俗に言うイケメンだ。
イケメンと入浴していると自覚した途端、顔から火が出そうになる。恥ずかしさしかない。早く上がりたい。それしか思えなくなった。
「逆上せるので上がりましょう」
♢♢♢
鶏肉をボイルする香りが広がる。とりあえず今日は家にあるものでご飯を作ってくれるらしい。
お行儀が悪いけれどテーブルにお邪魔すると、猫の手作りご飯と検索されたページが見える。スマホって肉球でも反応するのかと画面を触ってみると、スクロールされた。
急に鳴る着信音に身体がびくりと震え、画面に乗せていた前足を退かそうと動かすと、応答してしまった。
「七海?」
応答の無い事を不思議に思った相手が呼びかける。彼の名前は七海と言うらしい。
「電話に出たのですか」
キッチンから戻ってきた七海は、少し驚いた顔をして、頭を数回撫で電話に出た。
通話が終わるのを大人しく待っていようとソファで丸くなると、少し弾んだ七海の声が聞こえた。
「可愛い家族が増えました」
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