吾輩は猫である。名前はまだ無い。
ひょんな事から猫になった私を、保護してくれた飼い主の七海健人は、たまに猫さんと呼ぶ。
猫になり数ヶ月。だいぶ慣れ、私は最初から猫だったのかもしれないと思う。冗談だけれど。
ちりんと首に付いた淡い寒色系の首輪から可愛らしい音が響く。七海の趣味であろう首輪はセンスが良く、とても似合っていると我ながら思う。
乾いた洗濯物を取り込む七海が視界に入り、手伝わねばとフローリングを蹴った。
「手伝ってくれるのですか」
時間はかかるだろうけれど任せなさい。口と短い手足を使ってタオルに手をつける。付けっぱなしのテレビからは『うちの子が凄い』と興奮気味に話す飼い主の映像が流れていた。
タオルを畳み終えるまでに七海は全ての洗濯物を畳んでいた。もっと早く畳めたらと後悔していると、優しく両手で包まれた。
「うちの子の方が凄い」
同じ目線で七海の顔がよく見える。猫になった私の瞳よりも遥かに美しい瞳に、綺麗にブラッシングされ、ふわふわの顔が映り込んでいる。キスする距離だと思った時には、恥ずかしさで目を合わせられず、目を細めた。
「猫吸いって知っていますか」
でれでれに甘やかされ、ごろごろと喉を鳴らして仰向けになっていると、七海から聞き慣れない言葉が降ってきた。猫吸いとは。そんなに汚れていたのか。気が付かなかった。吸うのだから掃除機でも使い、綺麗にする事を指すのだろうか。
「失礼します」
ぽふっとお腹の辺りに感じる重さに、天井を眺めたままフリーズする。七海がお腹に顔を埋めている。生暖かい感覚から呼吸しているのが分かった。
お風呂に入っていないから嫌なんだけど。訴えた言葉は歯切れの悪い鳴き声に終わる。
もう勘弁してと七海の頭をぺしぺしすると、なんだか満足そうな顔に見えた。
「悪くないですね」
あまりにもいい顔で笑うものだから、次から拒否するのが躊躇われる。せめてお風呂の後にお願いしたい。
就寝時間になり、七海にひょいと抱えられベッドへ向かう。ソファで寝ても良いのだけれど、別々に寝る選択肢は無いらしく、当たり前の様にベッドに下ろされた。照明に照らされ、サイドテーブルに置かれたサングラスが静かに輝いている。
ぽんぽんと優しく撫で、いつものように照明を消して七海はベッドに潜り込む。
「おやすみなさい」
優しい声と温もりが心地よく、押し寄せる眠気に素直に従った。
♢♢♢
あの日の化け物が目の前に居る。けれど、あの時と姿が少し違う。負傷しているのかボロボロの姿で更に不気味さが際立っている。
ふと、身体に異変を感じた。一気に現実世界へ引き戻され、嫌な夢を見ていた事を気付かされる。後味が悪い。猫の特権を利用して七海に甘えてしまおうと手を伸ばした。
「ななみ」
視界に入るのは肌色の腕。鼓膜に響くのは聞き慣れた懐かしい自分の声だ。辺りを見渡すと、ベッドも天井も何もかも、物のサイズが丁度いい。戻った。人間に戻った。
ばさりと飛び起き、険しい顔をした七海と目が合った。
「何者ですか」
ぴりっと張り詰めた空気を肌に感じる。見た事のない七海の姿に戸惑い言葉が上手く出てこない。
「……猫でした」
もっと他に言う事は無かったのか。絞り出した言葉はあまりにも粗末だ。
七海の視線はぐるりと一周し、私を捉える。視線が首の辺りで留まっているのを感じ、首元に手をやると可愛らしい音でちりんとなった。
「とりあえず服を着ましょう」
慌ててシーツを掴み身体に巻き付ける。七海の言っていた通り、何も身に付けていなかった。全裸だ。頭を抱えると、手にもふもふした存在を感じた。
改めて恐る恐る触れると、頭には猫の耳の様なものが着いている。まさかと腰に手を伸ばすと、しゅるりと尻尾を感じた。
「意味が分からないよ」
「それはこちらの台詞です。知らない女性が猫耳と首輪を付けて全裸で居るんですよ」
チェストを物色する七海の言葉に、また羞恥心が込み上げる。信じられない話だが、信じて欲しい。なにか話さなければと焦るばかりで言葉は出てこない。
「落ち着いて」
ぽんぽんと優しく頭を撫でる感覚が全く同じで鼻の奥がつんと痛くなる。
「穴があったら入りたい」
やはり、出た言葉は相変わらずだ。そもそもこの状況を的確に説明する語彙力は持ち合わせていない。数ヶ月一緒に過ごしてきた感だけれど、七海はきっと信じてくれる。
「同じく。猫が貴女だと知っていれば……」
途中で話すのを辞めてしまった七海に、猫吸いですかと言ってみたくなる。もちろん自分も恥ずかしいのだけれど、好奇心は込み上げる。
「悪い顔をしている。躾も飼い主の役目です」
脱兎のごとく部屋を飛び出たつもりだった。
イメージ通りにはいかず、がしりと手首を掴まれている。
「どこに行くのですか。貴女の家はここでしょう」
にゃあ。
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