急な話だが信じて欲しい。私は今、過去にいる。
いつものように玄関の扉を開けると世界が変わっていた。家の近くにあった珈琲店は十年前の記憶に残るクリーニング店になっている。
道行く人もどこか懐かしい装いだ。ショーウィンドウに映る姿を確認すると、私は昨日と一緒のまま何一つ変わらない。
身体も十年前になっていたなら、あの頃の若さを全力で堪能する事が出来たのに。
行きつけのお気に入りのパン屋を見かけ、何一つ変わらないその光景に心が躍り、誘い込まれるように入店した。
「いらっしゃいませ」
店内は混雑はしておらず、自分を含め数人がパンを吟味している。昔から味の変わらない人気のパンも健在だ。隣の棚のカスクートが視界に入り七海の事を思い出した。
彼はよく昼食にこれを食べていた。
「すみません」
とんと肩に衝撃を感じ、誰かとぶつかったのが分かった。そこまで力は強くないものの、自分も謝らねばと頭を上げる。
「こちらこそすみません」
隣にはすらりとした長身の金髪が似合う青年が立っていた。学生なのか真っ黒な不思議な制服に身を包んでいる。目鼻立ちのはっきりとしたこの顔に激しく見覚えがある。
この青年は恋人の七海健人に酷似している。
きっと彼は七海で間違いない。説明しろと言われれば出来ないけれど、本能的にそうだとしか思えない。
元々整った美しい顔をしているが、学生時代は大人の時とは違う美しさがある。
商社マンの七海しか知らない私は、貴重な彼の学生時代に酷く興味をそそられる。
「その、なにか……」
この時代の七海に夢中になり、気が付けばずっと見つめていた。気まずそうに眉間にしわを寄せる顔は少し幼さ残るが、私が知っているものと全く一緒だ。
「ごめんなさい。知り合いに似ていたもので」
最後の一つのカスクートをトングで掴み、七海の持っているトレーへ乗せる。きっと彼は私に気を使って譲るつもりで取らなかったのだろう。
「えっ」
驚いた七海はカスクートと私の顔を交互に見る。どの表情も新鮮で可愛らしい。
「幸せそうに頬張る姿が目に浮かんで」
がしりと手首を掴まれた。七海は特に何か言うわけでもなく、その視線は定まらず宙を泳いでいる。どことなく耳が赤く染まっているようにも見える。
「ゆっくり話をしませんか」
たどたどしい精一杯の誘い文句に自然と頬が緩む。
「よろこんで」
♢♢♢
「本当ですか」
小洒落たカフェのオープンテラスで七海は疑いの眼差しを向ける。
嘘偽り無く、私は未来の恋人だと伝えたのだけれど七海はなかなか納得出来ない様子だ。
「用心深いところも変わらないね」
「呪いの類でしょうか」
「そんなところも好きだけど」
我ながら大胆な事を言ったもんだ。これが大人の七海なら私は同じように言えただろうか。
多分、無理だ。
いつも一枚上手の七海にささやかな反抗をしてみたかった。学生相手に大人気ないけれど。
ぼんと音を立てるように赤面した七海が愛しくて、その頭に手を伸ばした。指に当たる髪の毛は絹の様に滑らかで、一束すくえばさらさらと指の間から零れ落ちる。
「人前で何してるんですか」
消え入りそうな声で訴える七海に、また頬の筋肉は緩む。可愛すぎる。天使だろうかこの子は。
「十年前に来れて良かったかも」
「覚悟しておくように。十年後の私に何されても文句は言えませんからね」
嬉しいような、怖いような。
どんな七海でも好きな事には変わり無いのだけれど。
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