「竜胆くん会いたかった」

顔を合わせ数秒後には首に腕を回すツラのいい女。頭の先から足の指先まで完璧な彼女は、いわゆる灰谷竜胆の女である。そこまで深く知りはしないが初めて出会ったのは先月の頭。見た目もさることながら教養もあり側に置いていても不快ではない。そんな理由で空いた時間でディナーへと誘ったのだ。

「私ね、竜胆くんと出会うきっかけをくれたネイリストに感謝しているの」

何杯目かも分からないシャンパンに手を伸ばす女は、酔いも回ってきたのかいつもより上機嫌だ。楽しそうに声を弾ませ竜胆と出会う前の話を話し出した。

地元に新しく出来たサロンは知人の間でイケメン兄弟の店と軽く話題になっており、興味本位で入店した。明るく茶目っ気のある美容師の兄と、落ち着いた雰囲気のネイリストの弟。弟の方は随分と若いのに彼に恋愛相談をすると道が開ける者が多かった。
彼女はその時期からホステスをしていた。当時付き合っていた男との関係をそれとなく弟に話したのだ。弟は嫌な顔一つせず、黙々と施術しながら答えた。

「これはあくまで自分の意見ですが、馬鹿なふりをしないと上手くいかない男とは別れた方が良いですよ。馬鹿な男に合わせるのは疲れるだけ。敵わない素敵な女性だと思わせた方が男が調子乗らないから楽じゃないかな。自分と同等かそれ以上の男を選んで。馬鹿なふりをするよりも、本でも読んで資格でも取った方がよほど有益かと」

脳天に一撃食らったような衝撃だった。可愛らしい女を演じ、馬鹿なふりをし、男の横にいた自分が全否定された。考えればそうなのだ。知ってる事も知らないふり。何か話せば凄いと褒める事に疲れていた。その男の事をちゃんと好きだったのかも不明だ。

「彼が居なかったら今のは私は居ないの」

「そいつが居なければ俺はお前を側に置く事もなかったな」

でしょうねと笑う女に竜胆もつられて笑った。色々と話を聞くと兄に苦労する弟のようで少しばかり自分と重ねる。予想外にも興味が湧き、気が付けばちゃっかりサロンの所在地まで聞き出していた。



定期的にサロンの掃除に来ていた名前は遠くから女性の叫び声の様なものが聞こえた気がした。玄関前の掃き掃除の手を止め、握る箒を壁へたてかけると、何かから逃げる様に走る女と目が合った。

「待ちやがれ。クソ女」

追いかけていたのは男で、名前の目の前で女に追いついた。女は暴れて抵抗するが男が押さえつけ足を止めた。

「ごめんなさい。お金は返しますから、もう殴らないで…」

よく見ると女の頬は腫れ、髪は掴まれたのか乱れている。拳を振り上げる男に名前は思わず足を進めた。

「お兄さん落ち着いて」

怯える女と男の間に割って入ると、男は更に怒りを露わにした。静止の声も届かず、むしろヒートアップする男は名前めがけて拳を振り下ろした。

「危なっ」

危機一髪で避けた拳は空を切った。まあまあとなだめる様にあげた手を男はがしりと掴み、すごい力で引っ張り上げた。そのままくるりと踵を返した男に名前は投げられると察知した。スローモーションで変わる景色を眺めながら、まさか背負い投げされるとはと名前は笑った。
受け身を取らねばアスファルトへ打ち付けられる。男は黒服で投げた反動で宙を舞うネクタイを名前は掴んだ。

「ぐえっ…」

前屈みになり苦しそうにもがく男の下には名前が居る。その背中はアスファルトに付く事はなく、足の裏のみ着地している。男のネクタイを掴み全体重をかけ、天を見上げる体勢で名前は苦笑した。

「すごい格好だな」

聞き慣れない声が聞こえたと思えば、鈍い音と共に上に居た男は横へ吹き飛んで消えた。するりと手からネクタイが抜け、名前の背中はそのままアスファルトへと着地した。

「オマエが名字弟か」

側には黒服の男を蹴り飛ばしたであろうウルフカットの男が立っている。寝そべる名前は見上げる様にその男に答えた。

「営業は未定です」

弟かどうか聞いたのに店の話をしだした事に竜胆は笑った。想像していたよりも面白い奴だと。

「女がオマエをえらく褒めるもんで、ツラでも拝んでやろうかと思ってな」

男は竜胆と名乗った。名前と黒服のやり取りは初めから見ていた。見た感じ筋肉も付いていなさそうな細身の身体。まんまと投げ飛ばされるかと思いきや黒服のネクタイを掴み踏ん張り首を締め上げる反撃。パーカーが捲れ上がり見えた腹は細く、縦に薄く線が入っているくらいだ。
起こしてやろうと差し出した手を握った手は竜胆のものよりはるかに小さかった。

「あの…ありがとうございます…」

落ち着きを取り戻した女は名前と竜胆に恐る恐る頭を下げた。地面に転がった男は気を失っている。がさがさと小さな鞄から封筒を出した女は男のポケットに封筒を押し込んだ。
見たところ帯2本分ほどの厚みだ。何か事情があり店の金に手をつけたのだろう。長さを出してある爪は抵抗した際に折れている。

「爪、痛かったでしょう。オフもリペアも引き受けますよ。連絡貰えれば」

労わるように肩を抱いて名刺を渡す名前を見て意外と女誑しだと竜胆は笑った。

「俺の爪も黒くしてくれよ」

「うちは完全予約制ですし営業再開未定です」

優しいのは女にだけだった。そんな態度にますます竜胆は名前を気に入った。


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