1


 
 今日という一日は俺にとってボーダーの正式入隊日という意味と共に"今の俺"の新しい人生の始まりであり、"昔の俺"の人生が終わるという境界の意味を持つ一日であった。
といっても、引率のA級隊員の方々に合同訓練だのC級ランク戦だの得点だの色々な説明を聞くだけの一日のつもりだった俺は"たった今"、恒例だという仮想戦場モードでの訓練を行うという情報を知ってしまい、思わず本部長の話の最中だというのに自分の住んでいる孤児院に電話をしたくて堪らなくなってしまっている。

「(これが新人隊員の登竜門ってか?)」

今日は説明だけで早く帰れると思っていた手前、自分の住居でもある孤児院のこどもたちと『お菓子を作る』という約束を安易に取り付けてしまっていた。間に合わないとなると帰った途端何を言われるかわかったもんじゃない。
いやもちろん今もその約束を果たしたい気持ちは変わらないけれど、それでも今の優先順位として自分がボーダー関連で手を抜くことは許されないし自分自身許さない。なので、顔に不満を出さないよう気を付けながらその不意打ちのような訓練に臨むことを本部長の声を聞きながら決心する。仕方ないんだ、終わったらすぐ帰るから許して。

「これからの入隊指導の進行は嵐山隊に一任させてもらう」

いつのまにか本部長の話が終わり、もうすでに嵐山隊の方々がステージの壇上に上がりマイクを持っていたことに多少驚きながら視線をそちらに向けるとたまにテレビで見たような見てないような顔ぶれの人が前に出て周りを見回した。

「今から進行を務める嵐山隊の嵐山だ、よかったら顔を覚えて行ってくれ!」

マイクを片手に明るく話す同い年くらいの彼にずいぶん眩しい人だな、と感じながら彼のセリフにざわめく周囲の訓練生たちの言葉に耳を傾ける。どれもこれも「あの人が言うんだ」とか「知ってるに決まってるじゃん」というツッコミばかりだったが、確かに、テレビに出て広報の仕事をしている人間がボーダーの人間に向けて言う言葉ではないかもしれないと思い直す。謙虚なのか、ただ台本通りにはなしているだけなのか、知る方法はあるけれどまた面倒なことを"読み取ってしまいそう"なので黙って話を聞くことにする。

「さてさっそくだが、ここからは狙撃手志望と攻撃手、銃手志望に分かれて行動してもらう! 狙撃手志望は佐鳥に、攻撃手、銃手志望は俺についてくるように!」

ざわめきの渦中である嵐山さんはそのことを知ってか知らずかそのざわめきをそのままに話を進め、締めるように簡潔に言うとマイクを持ったまま壇上から飛び降りた。それに続くように赤い隊服を着た嵐山隊の人が何人か降りるが、他の何人かはきちんと脇にハケてから正しく壇上から降りた。それを見ながら飛び降りたうちの佐鳥と呼ばれた人はぴしっと手を挙げ「狙撃手志望はこっちー」と誘導し、嵐山さんも同じく手を掲げて「攻撃手と銃手はこちらに来てくれ!」と誘導を始めるので、俺は内心で広報ってこういう仕事もさせられ慣れてるのかなと少し不憫に思った。どんまい。けれど誘導している二人がソレを微塵も感じさせていないので俺はその思考をストップさせる。
というか、集まる前から既に分かっていることだけれど佐鳥さんの方へ向かう狙撃手よりはるかに嵐山さんの方へ向かう人数の方が多いのは、近距離攻撃手や中距離の銃手と射手といった系統の豊富さからだろうな。
ボーダーの知識に疎い俺でもさっき読み取った際に知ったことぐらいは把握出来ているようで、自分の知識が状況に応じて活用できている自分自身に少し安心する。予習を込めて初歩の知識を頭に浮かべながら嵐山さんの近くに行こうとするけれど、俺が鈍かったからか周囲の人たちの方が行動が早かったのか、出遅れた俺は大人しく集団の後ろについた。ほとんど見えない。俺のとなりでピョンピョンと跳び跳ねて見ている人もいるし。
そしてだいたい集まったと判断したらしい嵐山さんは、躍動感のある髪を揺らし通る声で説明を始める。

「攻撃手として志願した君たちには『地形踏破』・『隠密訓練』・『探知追跡』・『対近界民戦闘訓練』の四つの訓練が与えられる」

そうなのかあ、とその意外と多い訓練の数に俺はひとつ頷く。

「毎週二回行われる合同訓練全てでトップをとれば各二十点ポイントが付加され、また君たちC級にはC級ランク戦というものが存在するぞ」

嵐山さんの説明にあったC級ランク戦とやらは主に基本的に仮想戦場での個人ランク戦で、専用のブースに入って勝敗でポイントの移動を行うものらしい。また、ポイントが高い相手に勝つほど点がたくさんもらえるが逆に自分よりポイントが低い相手に勝ってもあまりもらえず、負ければたくさん取られてしまうらしいが、難しく考えなくても分かるような設定だなあと天の邪鬼にも思った。

「そして、その合同訓練とC級ランク戦で稼いだ個人ポイントが4000点になると、B級になる権利が与えられることになる」

右手で指を四本立てながら大勢の前で説明する嵐山さんの言葉に俺は静かに「へえー」と相槌をうつと嵐山さんの隣にいる嵐山隊の男の人がこっち見ていたような気がしたけれど、見なかったことにした。

「また元々1000ポイントを所持している筈だが、それより多い人も中にはいると思う。つまり、その数が大きいほど期待されているということらしいが……そこはあまり気にせず精進しよう!」
「なんて精神論…………」

『対近界民戦闘訓練』の説明をするということで、俺達攻撃手組は訓練室のあるC級ブースにぞろぞろと移動していく。その道中俺は自分の個人ポイントが表示されているという手の甲を見て、予想もしていなかったボーダー側の期待に眉を寄せてから、その手で左胸を軽く押さえる。
なんてこった、
俺は"C級でないといけないのに"。
たとえボーダー本部がほんの少し俺に期待してこの数字を俺に与えたのだとしても、今日新たな人生を幕開けた俺にとってソレは申し訳ないが厄介なものでしかないし、きっと時がたつにつれてボーダー側もこの数字を与えたことを後悔することになるのに。

「さて、着いたぞ」

俺達を先導するように前を歩いていた嵐山さんは立ち止まると下の方に視線を向けた。それに続くように攻撃手集団が下に視線を向けるのを見ながら俺は自分の手の甲を隠すようにして腕を組み、倣うようにして下にある大きな仮想空間を見つめる。するとタイミングを見計らったようにその仮想空間にトリオン兵が現れ、見たことのあるソイツがその空間内をウロウロと動き始めた。うわ。

「あれは大型トリオン兵と呼ばれる本物のバムスターより一回り小さい、が装甲が固いし攻撃力より防御に趣をおいた所謂訓練用のトリオン兵だ」
「へえー…………」

例に漏れず俺が小さく相槌をうつと、またさっきと同じ嵐山隊の子と目が合いそうになったのでソレを予測して視線を逸らした。

「そして、この仮想戦闘モードを体験してもらう!」

その嵐山さんの大きな声量の言葉に周りがざわめくのを聞きながら「あ、これのことか」と、先ほど自分の"サイドエフェクト"を活用し、本部長の話を犠牲にしてまで得た情報に一人で納得する。

「制限時間は五分! 倒すのが早ければ早いほど評価点が高くなる仕組みとなっている」

この『戦闘』訓練もほかの訓練と同様に高い成績を取ることによって、より20点に近い点数が得られるということだろう。
まあ、勿論C級に留まっていたい俺にはソレをしない事が求められる。つまり、訓練結果に対しては点数の上がらない努力をする必要があるということだけれど、こんな天邪鬼のような自分の作戦に嫌気がさしているのも事実。でもそれと同時にその努力が自分にとってどうしても必要なんだということも重々承知しているので、俺は心で言い聞かせながら静かに近くの座席に座って自分の番を待つ。
すぐに俺の隣に誰かが座ったのを感じたがまあ、ずっと立って自分の番を待つのもだるいもんな、なんて思うことにした。
というか、それにしても広い部屋だ。ボーダー内の割合としてA級やB級よりC級隊員が多いのは知っているが、規格外の大きさに少し驚く。
この壁にたくさん見える扉が個人ブースというやつでポイントの奪い合いをするときなんかはこの大きなスクリーンみたいなところに映し出される仕組みなんだろうか、と自分より前にバムスターと戦っている奴を見て予想を立ててみた。適当。

「、ん?」

最初はスルーしていたが、俺の隣に誰かが腰を下ろした瞬間からやたら俺に向けられる周囲の視線が多くなり始めたのが今更気になって、何となく横に視線を移すと、さっきから何度も目が合っていた嵐山隊の子が座っていた。
俺は思わず「あ、」と小さく声を出すけれど、隣に座るその相手がただじっと眠そうな目で俺を見つめてくるので、わかりやすく相手に小首を傾げてみるとその子は瞬きを数回繰り返してから手を差し出した。

「はじめまして、嵐山隊の時枝です」

そう言って名乗る時枝さんに俺はいきなりの事態についていけていないなりにも表情を取り繕い、時枝さんの手を握り返して「……よろしく?」と曖昧に言葉を紡ぐ。時枝さんは俺の顔をじっと見てから視線を下ろすと俺の手を掴んでる手の方向をくるっとひっくり返して手の甲を上に向けた。おっと。

「2900ポイント」
「……え、うん」
「なぜ隠したんですか?」
「、見られてました?」

時枝さんは俺の手の甲のポイントを読み上げると感情の抑揚のない瞳で俺を射抜き、しかも目ざとく俺が腕を組んでポイントを隠したところまで指摘してくるもんだから最近の子ってこわいなあと思う、たぶん年下だよな時枝さん。
視線から逃げるようにさりげなく手を引いて頭をかけば、時枝さんは何かを察したように俺から視線を逸らして「すいません」と一つ呟いて立ち上がろうとしたので、慌てて時枝さんの腕を引いて座らせる。
確かに、俺が自分の手の甲に2900の文字が浮かび上がっていたのを見たときに期待されているという嬉しさと同じくらい、迂闊にいい点数が取れないという焦りの気持ちが浮上した理由は言えないし、この訓練も『手を抜かないように手を抜く』必要がある理由も言えないけれど…………それでも自分より年下の子に気を遣われるのを俺はあまり得意としないし、そういう顔をされるのはたまらなく嫌なので嘘を吐かずになるだけ誤魔化す。

「俺、人よりトリオンが多いらしいんですよ」
「……そうなんですか」

俺が入隊時の面接で勝手に読み取った内容を話し出したのをきっかけにして時枝さんはもう一度俺の隣に腰を下ろし直すと、行儀よく俺の顔をじっと見つめる。

「だから多分ポイントが高いんだと思うんですけど、それって実力とは違いますよね?」
「そうですか?」
「……俺、あいつポイント高いのに弱っ、とか言われたら傷つきます」

わざとらしく演技するように俺が言えば、時枝さんはほんの少し笑って「そうかもしれないですね」と合わせるように会話を続けた。

「というか、どうして年下の俺にさん付けするんです?」
「んー、時枝さんいくつですか?」
「今年中三です」
「俺は今年高校三年」
「やっぱり年上じゃないですか」
「でもボーダーの先輩だから………じゃあほら敬語はやめるから」

俺の言葉に納得がいかないように「そうですけど」と言って視線を落とす時枝さんに、結果的には納得してくれたんだろうと自分の良いように事実を改変しながら、さっきから痛いほど俺に浴びせられている同じ訓練生からの視線へ"サイドエフェクト"を意識的に使う。


『嵐山隊の人と話している』『バカそう』『2900』『イケメンだ』


そして、俺はサイドエフェクトを使って無作為に読み取った四つの情報に眉を寄せる。
これはなんというか"失敗"の方だな。四つのうち三つ……いや二つの情報が俺にもわかるような状況の情報だし『バカそう』とか意味わかんない。なんで初めて会ったっぽい奴らにバカ扱いされなきゃならないんだよ、俺は認めないぞバカだなんて。一応こちとら進学校通ってんだよ。
けれどただ一つ有益な情報としては時枝さん以外の人間が俺に対して『2900』という視線を俺に向けていたということは、つまるところ俺と時枝さんの会話は俺が思っていたよりも筒抜けだったということになる。自分の番になるまでの暇つぶし程度に思っていた会話も、俺の個人ポイントの情報が漏れてしまったとなると少し後悔の念を抱かざるを得ない。

「んじゃあ時枝さん、俺順番もう少しみたいだから前の方行ってくるね」
「あ、はい」

時枝さんとの会話に少しでも後悔してしまった自分に罪悪感を抱きながらあまり進んではやりたくはない戦闘訓練に向かうべく重い腰をあげれば、時枝さんはそんな俺を目で追って見送る。
そんな時枝さんの視線を受けながら隊服のポケットに手を突っ込み階段を降りると、訓練室の前で順番通りに訓練生を呼んでいた嵐山さんが此方へちらりと視線を寄越してから、俺のひとつ前の訓練生を呼んだ。
イケメンって少し目が合うだけでこんなにときめかせてくれる存在なのか、なんて今更知りたくもなかったイケメンの偉大さに気づかされつつ、その動揺を隠すため一番下の段に座り込んで周りを見渡してみる。今期の訓練生の半分が既に仮想戦闘モードでの戦闘訓練を終えているらしく、ホッとした表情半分と緊張した表情半分と、余裕そうな表情少しといった状況となっていた。
確かに、俺のように事前情報があったわけでもないのに入隊初日でこんな戦闘訓練を強制されたら緊張せざるを得ないだろう。
けれど、まず俺が念頭に置くべきことは、どの訓練でも半分から下の順位の結果をおさめるということだ。
電子掲示板のようなものを確認すると、今期の訓練生のなかで今のところ『戦闘』訓練の一位のタイムは53秒、また一番多いタイムは見たところ一、二分台。つまり今回の『戦闘』の合同訓練において俺が狙うのは二分台が妥当で、それ以上は上位に食い込みそうで危ういということ。まだ半分の人が終わってないから、まだまだ記録が更新されるだろうけど。

また、俺の訓練用トリガーはスコーピオンというものだ。初期設定が弧月とかいうのじゃなくてよかったと安心している。そして俺の今の手持ちの個人ポイントは2900、あと1100ポイントでB級隊員に昇格してしまう事態に発展するため、いくらこれが合同訓練といえどあまり目立ったことは出来ないというのが現状であり、それと同時に嵐山隊には手を抜くことを悟られてはいけないし気を抜いてもいけない。
不安ではあるけど、新しい俺は、確実に、堅実に、誰かのために。
うん大丈夫、ちゃんと理解してる。

『3号室終了、記録二分十五秒』

俯き気味に考えていた俺が自分の一つ前の訓練生が出したタイムをアナウンスが読み上げる声で顔を上げると、嵐山さんは訓練室から訓練を終えた奴を待ちながら俺に視線を向けて声をかけた。俺も嵐山さんの手を煩わせないよう軽く返事をしてから立ち上がり、訓練室の出入口近くにいる嵐山さんと反対の位置で扉が開くのを待つ。
するとなぜか目の前の人物からの視線を感じた。

「…………?」

ゆっくり顔を上げて視線の主っぽい嵐山さんを見ると、何故か俺の顔を見て人のいい笑みを浮かべていたのに少し戸惑いながら興味本意で口を開こうと思ったが、先に嵐山さんが開こうとしていたのを察して口を閉じる。

「ウチの隊員と知り合いだったのか?」
「…………あぁ、いえ」
「? そうか」

左胸に手を当てている俺の様子が緊張しているように見えたのか、嵐山さんは自分の腰に腕を当てながら優しく俺に笑いかける。その嵐山さんの姿が眩しくて思わず俺は薄目になりながらも、失礼にあたらないようにと慣れない反応を返すが、結果的に微妙なものとなってしまったので個人的に少しへこむ。
ウチの隊員と称された時枝さんとは初対面でそもそも初対面の人に話しかけてくるような人にも見えなかったんで、なんで俺に話しかけてきたのか謎なんですよね…………なんて返したらこの人どんな反応するんだろう。そんな返事しないけど。

「緊張しているのか?」
「えっと…………、少し」
「心配するようなことはないさ。まあ、微々たるものたが応援させてもらうぞ」
「、はい……ありがうございます?」

その意味が分かるようで分からない返答に嵐山さんが根からのイイ人の匂いがすることに気付きながら、俺は自分の番が迫るにつれてジクジクと湧いて出てきそうな罪悪感を押し殺す。
こんなにイイ人な嵐山さんに激励されてボーダーの先輩である後輩の時枝さんに期待されて、でも俺にはやらなきゃいけないことがあるからそれに応えられない。

「君の番だ」

悶々といつまでも考えていたせいで部屋が空いたことに気づかないでいると、気を利かせて嵐山さんが俺を呼ぶ。
しっかりしろ、昨日までの俺はもういない。
今日から俺は"あの人"の代わりに役割を果たすんだから。
そんなことを胸に抱きつつ訓練室に足を踏み入れると、後ろで勝手に扉が閉まった音がした。それを切っ掛けに俺が無意識に入っていた身体の力を抜くように息を一つ吐くと、見計らったようなタイミングで大型近界民のバムスターが俺の前に現れる。

「たしかに、少し小さいのかもな」

目の前というには少し離れた距離に現れたバムスターと、記憶の中に潜んでいるバムスターの大きさを比較して小さく感想を呟き、訓練室内に響く『用意、始め』という男の声を耳にいれる。
その始まりの声と共に五分ある制限時間が一秒減ったのを視界の端で確認してから、取り敢えず間合いを広くとるために後ろへ飛ぶと、ぎょろっとバムスターの丸い目みたいなやつが俺の移動したところを追うように動いた。前の訓練生たちを観察していたら殆どの訓練生がまず始めに距離をとっていたので、今すぐ突っ込んであの目んたまみたいなヤツを切りつけたい思いを押さえ込んで上手いこと時間を稼いでみる。
けどあせる必要も無く、さっきから見ていると、こいつは攻撃方法が単純でほぼ頭から突っ込んでくるだけのパターンのため避けるにしても予測がしやすい。反撃のチャンスはいくらでもあることは観察していたから把握している。あまり離れ過ぎると良くないみたいだけど。
俺が壁ギリギリまで引き寄せてから攻撃を避ける度に、身体やら頭やらをぶつけるバムスターを見つめていると、頭の横についているヒョコヒョコした耳が鬱陶しくなってきて、何となく、ほんとに何となく鬱憤晴らしと確認のために攻撃を避けるがてら、右足の爪先から出したスコーピオンでバムスターの耳を切り落とす。

「ふーん、わからん」

嵐山さんが言っていた通り小さく迫力はないが、甲装が固いというのはわからなかった。
単に覚えていないだけだろう。
なんて二年前の記憶を遡りながら地面に転がり落ちたバムスターの耳を見てまた逃げ回る。
そういえば、あのときの出来事で俺は近界民に恨みを抱いていてもおかしくないのに、こうやって疑似の近界民と向かい合っても特にどす黒い感情が涌いてこないのは何故なんだろう。
目の前で自分の大切な人が傷を負わされたのに。
俺って意外と薄情なんだろうか。
ついでに、見た目のバランスが悪かったのでもうひとつのバムスターの耳を切り落としたりなどしながら体感的には一分ほど走っては跳んだりとピョンピョンと逃げ回っていたつもりだけれど、ちらりと残りのタイムを確認したところ実際には三十秒ほどしか経っていないようだった。まじか。
逃げたままだとさすがに手を抜いていると嵐山隊には怪しまれるに違いないと思い、俺は逃げの体勢から一瞬だけ攻撃体勢に移るため、壁に向かうスピードを落とす。

「よーし」

そして、思い通りバムスターが後ろから突進するように近付いてきたのを顔だけ振り返りながら確認し、スピードを今の倍くらいに上げて走り出す。
そして、目の前まで壁が来た瞬間、壁を蹴って宙返りし、俺のいた所へ突っ込んできたバムスターへ足を二、三本切り落とすくらいの勢いでスコーピオンを振ると、トリオンとかいう成分の配分がよくわからなくて、思っていたより大きめの刀身が現れてバムスターへ攻撃をした。

「あ、切りすぎたっ!?」

ボタボタボタッ! とバムスターの足が地面に落ちる音に少し冷や汗をかきながら空中で身体の向きをバムスターに向け状況を視認すると、予想よりもはるかに大きなレベルの攻撃を与えてしまっていたらしく、バムスターの身体半分の足が全て切り落とされてしまっていた。
トリガーの扱いに慣れていないし、自分のトリオン能力も出力も大して知らないのに安易にも攻撃してしまったのが仇となったのかもしれない。いや、普通ならラッキーとか思うんだろうけど。

「やば………」

地面に着地し、半分の足を失ったバムスターがもう半分の足のみで立ち上がろうと必死にもがくが結局ただ地面の上で円を書くように這いずり回っているだけの憐れな行動を俺はじっと眺める。
ど、どうする、まだ始まってから四十五秒しかたってないのに、なのに、あとはとどめさすだけになってしまった。

「…………い、いやまだまだ」

俺は焦りで回らなくなってきていた頭をブンブンと振ってから気を取り直すように自分を鼓舞する言葉を呟く。
まだ大丈夫まだバムスターは死んでないし動いてるしまだ大丈夫、と心のなかで状況を確認しながらクルクルと地面に這いずり回ってトリオンを漏出させているバムスターに出来る限り遅いスピード且つ端から見て不自然じゃないように近付く。
バムスターが俺の存在をぎょろっとした目んたまみたいなヤツで確認し、頑張って俺のもとにたどり着こうとする姿を見ていると少し可哀想に見えてくるが、俺としてはそれどころではない。両耳と半分の足を切り取られたところからトリオンが煙のように漏れていき、そこ一帯の視界が悪くなるのを感じながら目を細め、改めて制限時間を確認しまだ一分も経っていないことを知った俺は決心と共にため息を吐く。
仕方ない、もう、うん


"バレてもいいや"と吹っ切れることにしよう。


優先順位を考えろ。
俺のボーダーとしての評判よりもC級に留まることの方がずっとずっと大事なことだ、とその二つを天秤にかけてたどり着いたら結果に俺は一つ頷くことで強制的に納得する。嵐山隊やチラホラと見えるB級の方々などの先輩には申し訳ないけど、俺がボーダーに入った理由にも繋がることだからこればかりは仕方ない。
いや極論を言えば上手いこと出来なかった自分が悪いんだけど。
そうと決まれば俺はただバムスターが近くに来るまで立ち尽くし、近付いてきたら逃げ、時間が三分を切った辺りであの目んたまにスコーピオンをぶっ刺す、これだけを実行しよう。


          ◆◇


 それから順調に全ての訓練を終え、合計55ポイントを得た俺は自分の手の甲に並ぶ2955の数字を見て妥当な結果だと満足気に一つ頷き、最初の時のように並ぶ訓練生に混じって嵐山隊の嵐山さんの話を聞く。どうやら子供たちとの約束には間に合いそうだ。

「以上、質問がなければここで解散となるが…………ないらしいので解散! ある人は残ってこちらに随時来てくれ!」

俺たちの顔を見回してから解散の声を高らかにかける嵐山さんの声を聞き、その足でランク戦に向かう意欲たっぷりの訓練生を目で追いながら、その波と反対方向にある本部出入口へと俺は歩み出す。
頭のなかに嵐山さんと時枝さんが浮かばなかったと言えば嘘になるが、嵐山隊と何となく気まずいということもあって、その気持ちを孤児院の皆との約束でソレを塗り潰すしかなかった。

「……ひろっ」

初めて見るボーダー本部内に少しワクワクしながら一番近い出入り口へ歩みを進めると、その出入口の方から誰かが入ってきた。その男の人は青色のジャケットを羽織って首に紫外線から目を守る時のメガネのような形状のものをひっかけている人で、どことなく髪型がさっきの嵐山さんと似ている気がするなあ、なんて思った。
その人の風貌を観察していると、さっきまでバラバラだった視線がその人に集中したのが分かったので、ラウンジ内の空気が瞬時に動いたことをサイドエフェクトで察する。
俺と同い年くらいのその男は道ですれ違う知り合いと思わしき隊員にちょっかいをかけているらしく、何となく気になった俺はこの異様な状況を把握するために歩くスピードを緩めて意識的にあの男の人へ向けられている視線に対してサイドエフェクトを使ってみた。


『迅さん』『S級』『未来視の人』『お尻触る変態』


…………お、おう。わからん。
また今回も失敗のようで、とりとめもない単語ばかり拾い集めてしまい、俺が分かることは取り敢えずあの人物が迅という名前だということと、変態という情報が女の人から得られたものだということだけだった。男が男の尻を触るとかないでしょ、多分。
S級という単語は俺自身聞いたことはなかったしソレに関してさっき嵐山さんからも説明されていなかった。ボーダーに関して無知な俺にはS級という単語が何の意味を示すのか分からなかったが、多分A級より特別な何かなのかなとは予想できる。ただ、未来視という単語も真偽が計り知れないしどういった意味で『未来視』という単語があの人に関係するのか分からないため自分にとって不要な情報として処理しようとしていた矢先、タイミング良くラウンジのソファに座る男二人の会話を耳に入れた。

「未来視?」
「そういう"サイドエフェクト"だってよ、あの人のは」

サイドエフェクト。
高いトリオン能力を持つ人間が稀に発現する超感覚の総称で、俺自身も今使ったばかりだ。
ある人からサイドエフェクトの大枠は聞いていたので何となく理解は出来るからか、今の二人の会話で『迅という人のサイドエフェクトが未来視である』という有益な情報へと変化した。てか、ここまでタイミングよく情報を取り入れられるとなんだか運命のような気さえしてきてしまう。
なんの運命かは知らないけれど。
そして俺も同じくサイドエフェクトを所持しているという事実から、多分あの変態さんも苦労してるんだろうなと軽く同情する。いや、変態さんからしたら勝手に変態扱いされてるし勝手に同情されるしで散々ではあるんだろうけど。
なんて、自分のサイドエフェクトで得た情報を吟味しながら歩みを止めることなくずんずんと本部の出入口に向かい、この異様な空気の理由を視ることが出来なかったことに少し不満を抱きながらその渦中にいる迅さんの横を通りすぎようとした




その瞬間、

一瞬だけバチッとその迅さんと目が合った。


だが、俺は不自然にならないよう何事もないように視線を逸らす。
目が合ったのは多分俺が迅さんを見ていたからで特に視線に意味はなかったけど、ちょっと驚いたなあ、なんて思いながら少し高鳴った左胸を押さえながら足を進めていると、いきなり後ろから「ねぇ、そこの訓練生くん」と声が聞こえた。
周りに訓練生は目に見えて沢山いたので、ボーダーに知り合いの居ない俺だとは思わずそのまま歩みを進めていると、その俺の歩みを止めるように肩に手が置かれた。

「ごめんごめん、きみのこと」

肩に置かれた手と何故か謝る声を聞き、歩みを止めて後ろを振り向くと、そこには未来視出来る変態こと迅さんがよっ、と軽く片手を上げていて、俺はまさか先ほどサイドエフェクトを使った相手が話し掛けてくるとは思わなかったため少し驚く。

「……………何ですか、迅さん」
「おおっと、おれの名前を知ってるとは、おれって有名人?」
「いやまあ、俺エスパーなんで」

俺は自分のサイドエフェクトで得た情報は隠したり隠さなかったり、その時々に応じて話す。そうすることで俺がサイドエフェクトを持っていると知っている相手には「サイドエフェクトの情報を全て言うヤツ」だと思わせることが出来るからだ。だけどサイドエフェクトの存在を知らない人には、本当にエスパーだと思われている……孤児院の子供たちとか。

「ふーん、"やっぱり"そうなのか」
「…………やっぱり?」

けれどこの迅さんはソレのどれとも当てはまらない反応で不思議そうに俺を見ると、俺の肩から手を離してから「何て言えばいいかねー」と上手く言う言葉を探すように頭を掻く。

「…………それって、俺の何処まで視て言ってます?」
「うわ……きみ、ホントにエスパーなの?」

俺の、のあとに続く『未来』という言葉をわざと省略して迅さんに問えば、その本人は少し驚いたように目を見開く。

「、迅さんと同じですって」
「…………あぁ、うん、なるほどなるほど」
「迅さんよりは、まあ、万能じゃないですけど」
「いや、おれだって万能じゃない」

サイドエフェクトだというネタバレは別にしても構わなかったので支障はないが、内容までは言うつもりは今のところない。俺だって迅さんのサイドエフェクトも大枠だけ知っていても中身は知らないし。けど、迅さんのサイドエフェクトを聞いたら教えてくれそうなのは多分、こっちが聞いてもどうにもできないからだろう。
俺の場合は、相手が意識して俺のサイドエフェクトを予防すれば簡単に避けられてしまう訳だからあんまり詳しく言えないんだよなーなんて考える。そしてふと、今の状況を思い出すと、結構俺たちに視線が集まっていた。

「場所変えましょうか」
「そうだな、その…………"左胸にあるトリガー"についても聞きたいし?」
「…………そうですか」

意味深に俺の左胸を指差す迅さんに俺は鼻で笑うようにして返事を返し、歩きだした迅さんの後を追うように周囲の視線を受けながら場所を移動した。

TOP