それは夜風の如く

日の入りが早まる冬の中でも此処は特に、時刻表記以上に『夜』を感じられる場所だ。辺りを照らす松明の火でさえも容易く呑み込んでしまう北海道の暗さと冷たさは今日も変わらず静かで、だというのに確かな存在感を持って僕たちに降りかかる。そして静かさを補うかのように強い冷気を含んだ夜風が兵舎の窓ガラスを喧しく騒がせると、呼応するように火鉢の中で炭が爆ぜた。それらの音に耳を傾けながら、普段よりも少し長い瞬きで暇を潰していたところで「これで何度目だ?」という声が聞こえた。

「覚えておりません」

上官からの問い掛けにもかかわらず逡巡することなく打ち返したのは、この時間が一刻も早く終わることを心から願っているからだ。目の前の椅子に座っている鶴見中尉が何を考えているのかなんて分からない、いや、分かりたくもない。寒さでかじかんだ体が震えていることに気付いても、意識をしたところで止められないのと同じだ。取り繕った言葉が聞こえる度に体が拒否反応を示すのにどうして受け入れられるだろうか。

「なら教えてやろう。これで十回目だ、今月だけでな」

それから鶴見中尉は「じゅう」「じゅう」と繰り返し始めた。そのおかしな鳴き声に合わせながら“十”という漢字を書くように、僕の額に押し付けた人差し指を何度も動かして。到底理解出来ないその行為をたっぷり数秒も続けてから、漸く本題に入る気になったようで「悲しい出来事とは連鎖するのだな」と溜息を吐いた声が聞こえた。

「行方不明だった猪又伍長らが、先ほど遺体で発見された」
「動物に食い荒されていたようで損壊が激しいが、まず間違いないとのことだ」

次いで「どうなっていたか教えてやろうか?」と言うが早いか、熊手のように曲げた両の指で僕の体をなぞってきた。動物に食い荒らされたにしては弱く、体の痒みを静めるにしては強い力で、全身を隈無く且つ丁寧に。だが教えられたとて。そんなにも食い散らかされた死体の様子を想像して、僕になんの得があるというのだろうか。

「口煩いが面倒見の良い面々だったそうだな。特に猪又伍長には、第七師団に転属してきた時からかわいがって・・・・・・もらったとか――」

わざとらしく含みのある言い方に舌打ちをこぼしてしまいそうになったものの、腫れあがった唇がじわりと痛んだことでそうせずに済んだ。わざわざ僕を営倉から連れ出した魂胆を突き止めるまでは、反応を返さない方がいいだろう。「さぞ悔しいだろうが気持ちを切り替えて聞くように」と言いながら僕を見下ろしている鶴見中尉に抗うように、その視線を打ち返すことにした。

それにしても。普段からああも威張り散らしていたくせに、こうも呆気ない終わりを選ぶとは。簡単に死んでくれるなと願っていたが、果たしてそれは叶ったのだろうか。何にせよ、これから顔を見ずに済むことを喜ぶべきか、この手で始末を付けられなかったことを悲しむべきか、今はまだ分からない。
ああいや待てよ。そういえば鶴見中尉は、僕が猪又伍長やつらをブン殴っている現場に居合わせたんだったか。あの時の詳細はよく覚えていないが「楽に死ねると思うな」と吐き捨てた記憶は薄ぼんやりとある。もし鶴見中尉がそれを覚えていたとすれば、この報せは「お前が暴れる理由は死んだのだから大人しくしろ」という意味なのかもしれない。

「――……というのに。いい加減、その悪癖は収まらないものか」

僕が思考にかまけている間に、大きすぎる独り言で僕の軍歴を振り返っていたのだろう。鶴見中尉は左右に首を振ってから「なあ、相浦二等卒」と締め括った。かと思えば「痛むかね?」と腫れあがった僕の頬に手を添えて気遣う素振りまで付け足した。この場には二人しか居ないというのに、心を痛めていると言いたげな表情で。それに対して「問題ありません」と答えながら、この場から逃げ出したい気持ちをぐっと堪えた。

「今回も『気に入らなかった』のか」
「はい、間違いありません」

答え終わるのと同時に「ベシィッ」と小気味好い音がして視界が真横にズレた。だが悲しいかな。何も感じないということは、これは致し方ないことだと認識したのだろう。そうでなければ今のを切っ掛けにしてブン殴ってやることも出来たのに。残念に思いながら顔を正面に戻すと、自らの顔の横に来るほどに手を大きく振り切った姿の鶴見中尉が見えた。

「誰からも教わらなかったのか?『嘘を吐くのは悪いことだ』と」
「教わりました」
「では聞こう。どうして二階堂を殴った?」

この質問に対する正しい答えは「互いに納得した上で『気晴らし』と称して戯れているだけ」なのだが、馬鹿正直に答えたところで損をするだけだと分かっている。だからこそ「気に入らなかったからであります」と気持ちを込めて答えてやれば、鶴見中尉が珍しく満足げに“ウンウン”と頷いた。かと思えば直後に「ベシィッ」という音がして、またしても視界が真横にズレた。

「今のは『本心から言え』と言ったわけではない。そういうところだぞ相浦」

先ほどとは反対の頬に走った鈍い感覚にも何も感じなかったことを腹立たしく思いながら、先ほどと同じく前を向き直す。再び視界の中心に来た鶴見中尉が文字通り打って変わった・・・・・・・表情をしていたことがせめてもの救いだろうか。何か良からぬことを企んでいると分かる、いつも通りの目付きだったことも相俟って今度こそ本題に移る気になったのだと悟った僕は口の中に溜まっていた血と共に苛立ちもそっと飲み下した。