日常

「ん、ぅ……」

窓から射し込む光で、京華はゆっくりと目を覚ました。
寝起きでぼんやりとする視界の中、明るさに目を慣らすように京華は数回瞬きをすると、左を向いて寝ていた体をごろりと転がし、仰向けになった。
木目調が美しい自室の天井が見え、京華はそのままぼーっとしていた。
だが、いつまでもそうしている訳にはいかない。もう一度体を転がして、京華はベッドの右側に置かれたサイドテーブルの上にある時計を見た。

(5時42分、か…)

時刻を確認し、カチリとスイッチを切って6時に鳴るはずの目覚まし機能をオフにする。
そしてそのまま上体を起こすと、京華はベッドの右側へ寄り、サイドテーブルの上にあった花瓶に立てかけてある小さなカードを手に取った。

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本日の花『コデマリ』
コデマリの花言葉 努力、友情、伸びゆく姿など
本日から新学期でございます。気持ちを新たにし、一層勉学に励まれて下さい。
霧子
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相変わらずの達筆な文字で、カードにはそう書かれていた。
見ると、サイドテーブル白い細口の華奢な花瓶には、確かに小さく可憐な花が生けられている。
京華は穏やかに微笑むと、サイドテーブルの引き出しからファイルを取り出した。
ちょうど名刺サイズのそのカードをいつものようにファイルに仕舞ってから、背の低いベッドからひんやりと気持ちいい木目の床板に脚を下ろした。

今日は9月1日。
夏休みが終わり、鳳凰では今日から2学期が始まる。
京華はそのままゆっくりと立ち上がると、洗面台の方へ歩いて行き、冷たい水で顔を洗い、簡単に歯を磨いた。
京華の住む家の水道は京都の清流から引いているため、ひんやりと冷たい水に触れ、京華はさっぱりして部屋に戻った。
京華は学校の制服が入った籐かごの置いてあるベッド近くの台まで歩きながら、上に羽織っていた長作務衣を脱ぎ、空の籠に入れる。
そのまま柔らかな布地のショートパンツとキャミソールも脱いで籠に入れ、下着姿になった。
そして、制服の入った籠からブラジャーと太ももまである長いニーハイソックスを履いた。
このニーハイには、白いラインが横に2本入っている。このラインは、プリーツスカートの下部とセーラー服の襟と袖の部分にも入っていて、これは高等科特有のデザインだ。ちなみに中等科はラインが1本で、初等科の制服にはラインは入っていない。
京華はそのままプリーツスカート、セーラー服の順に身につけていき、セーラーの襟には朱雀寮であることを示す茜色のスカーフをふわりと結んだ。
そうして、上下漆黒の中で白のラインと茜色が際立つ制服に着替え終わると、京華はベッドとはちょうど反対側に位置する化粧台の前に座った。
普通の女子高校生ならば、高校には軽いメイクぐらいはしていくものなのだろうが、京華にそれは必要なかった。
京華の曾祖母は、美しい女性の姿をしていることで有名な妖怪、雪女であり、京華はその特徴を色濃く受け継いでいた。常に低めの体温、白く滑らかな肌、艶やかな漆黒の髪、整った美しい顔立ち。どれも雪女の特徴である。
母や、母の妹である叔母の二葉は祖父に似てどこか西洋人に似た顔立ちをしているというのに、どういう訳か京華には祖母にも母にも出なかった曾祖母の特徴が受け継がれていた。
椿油を塗った手触りの良い檜の櫛を使い、京華は腰まで届く長い黒髪をするするとといていく。
元々癖の少ない京華の髪は、京華がゆっくりとといていくとみるみる内に真っ直ぐに整った。
そして同じように前髪を整え、今度は制服と同じように黒に白のラインが2本入った幅広のリボンを手に取る。
このリボンは学校指定のもので、使い方まで縛りがある訳ではないが、髪を纏めたりする時にはこのリボンも使うようにという校則がある。京華は普段、このリボンをヘアバンドのようにして頭に巻いていた。
つい昨日まで夏休みであり、久しぶりにこのリボンを使うのに手間取っていると、ドアが控えめにノックされた。

「お嬢様、おはようございます、霧子です。入ってもよろしいでしょうか?」
「大丈夫よ、入って」

失礼します、という控えめに発せられた言葉と共に、無地の薄紫の着物を着た女性が京華の部屋に入ってきた。

「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、霧子さん。あ、これやってもらえる?久しぶりで何だか手間取ってしまって……」
「分かりました」

霧子は、京華が物心ついた時から自分の世話をしてくれている専属の使用人だ。何でも、父親がロシア人だそうで、父親の影響でその名の通り霧のように美しい銀白の髪と眼を持っている。顔立ちは東洋人そのものなのだが、銀色の眼と髪は霧子によく似合っていた。京華が小さい時は、よくそのすべすべの銀髪を触らせてもらったものだ。
京華が長い後ろ髪を持ち上げ、その間に霧子が手際よくリボンを頭に巻き、髪で隠れるように頭の後ろの生え際の所で結んだ。

「ありがとう」
「いいえ、とんでもございません」

霧子はいつでも無口で冷静だ。小学生の頃は、他の使用人と同じように堅苦しい言葉遣いは辞めてくれと頼んだのだが「私は一介の使用人ですので」の一点張りで、そのうち京華も説得するのを諦めてしまった。
京華はそのまま、朝食を食べるために霧子と連れ立って部屋を出た。
廊下や階段ですれ違う使用人達に朝の挨拶をしながら、京華は一礼して居間へと入った。

「おはようございます」
「おはよう、京華」
「おはよう。今日は随分と早いなあ」
「京華ちゃん、おはようございます」
「キョウカ、おはよう!」

既に自分以外の家族は殆どが席についていた。

「あれ、清史郎は?」
「まあ、あの子が遅いのはいつものことよ。京華と違って寝起きが悪いもの、清史郎は」

一葉はそう言いながら、眉を下げて微笑んだ。

「全く、今日はあまり長く居られないんだがなあ」

雪人は読んでいた新聞から顔を上げ、困ったように笑った。

「そうなの?」
「ああ。政府で少々トラブルがあってな。あまり大きな事じゃないんだが」
「そう……。じゃあ、私起こしてくるよ?」
「お願いしてもいい?」
「うん、大丈夫だよ」

一葉の問いに京華は笑顔で答えると、居間と一続きになっている食堂を出て、また階段を上り、自分の隣の部屋のドアをノックした。

「清史郎?起きてる?もう皆待ってるよ!」
「お嬢様、私がやりますから、」
「いいんですよ、佳苗さんはお食事の準備お願いします」

代わろうとやってきた使用人を断って、京華は再び目の前のドアに向き直る。

「清史郎ー?」
「ちょっと待って、すぐ行くから先食べてて!」
「無理だよ、全員揃わないとお父さんが食べ始めないの知ってるでしょ?」
「分かったって!ちょっと待って……よし、出来た!」

そう言うと、京華の5つ下の弟、初等科6年生の清史郎がドアを開けてようやく部屋から出てきた。

「お待たせ、姉ちゃん」
「はいはい、じゃあ早く!」

清史郎を急かし、京華は再び食堂に入り席についた。

「おっ、やっと来たか!」
「セイシロウは寝ぼすけだなあ」
「五月蝿いなあ!ごめんって!別にまだ平気でしょ」

雪人とジムに言葉を返してから、清史郎も京華の向かい側の席に座った。
席順は、食堂に入って縦に置かれたテーブルに、向かって右列に奥から雪人、一葉、京華。向かって左には、奥からジム、絹江、清史郎という並びだ。

「よし。では皆揃ったところで」

雪人が読んでいた『不知火新聞』の朝刊を畳み、(側に立っていた執事の磯貝が素早く受け取った)姿勢を正した。

「では皆さん、手を合わせて!」
「「「いただきます!」」」

6人で同時に言うと、各々箸を取って朝食を食べ始めた。

「今日から学校かあ〜…」清史郎がげんなりした顔で言った。
「はーあ、夏休みあと1週間増えないかなあ」
「どっちみち、清史郎は夏休みが1週間増えたところでまた同じこと言うでしょ?」

京華は笑いながら言った。

「確かにそうね」
「まあ、新学期初日の子供なら誰もが思うことよ」

一葉と絹江も微笑みながら言う。

「でも、これからまた暫くの間2人とご飯を食べられないと思うと寂しいよ。なんで鳳凰は全寮制なんだい?」
「あなた、またそんなこと言って!」

はあ、と肩を落とすジムを、笑いながら絹江が宥めた。そんな光景を見ながら、京華はぱくりとご飯を口に運ぶ。
ちなみに今日の献立は、京都丹後産のコシヒカリ、鮭の塩焼きと卵焼き、付け合わせに大根おろし。鰹節と醤油を垂らした冷や奴。豆の煮物、きんぴらごぼう、長芋の梅和えの3種の小鉢。そして、三ツ葉とわかめ、お麩の入ったお吸い物。
まあ、極々スタンダードな日本の朝食である。

「そう言えば、キョウカは今日始業式の時にスピーチをするんだよね?」

ジムがお吸い物を音を立てずに啜ってから言った。
ジムはバリバリの英国紳士なのだが、まだ土御門家がかなり厳しかった頃、絹江との結婚を許してもらうために日本の文化を猛勉強したのだそうだ。そこいらの日本人よりもよほど日本のマナーを熟知していると間違いなく断言できるだろう。

「うん、まあ…。でもスピーチって程じゃないよ。生徒会長として挨拶するだけだし」
「そうか。まあでも、全校生徒の前に立って話す訳だからね。頑張るんだよ」
「うん。ありがとう、お祖父ちゃん」

今日は夏休み明け、新学期初日だ。普通の生徒なら、始業式に出席して提出期限が今日までの課題を提出したら、後はもう寮に戻っていい。
だが、京華は生徒会長だ。特に大型連休明けのこの時期は、生徒間の意識が緩み、1年の中でも問題が多発する時期でもある。そのため京華は、他の生徒が寮に戻った後も生徒会の本部役員と各委員会の委員長と共に今後の対策について話し合わねばならない。暫くはまた忙しくなるだろうな、と京華が考えていた時、朝食を食べ終わったのか雪人が立ち上がった。

「あれ、早いね」と清史郎がオレンジジュースを飲みながら言った。
「ああ、政府の方でちょっとトラブルがあってな。ご馳走さまでした」
「もう行くのね、気をつけて!」

妻の一葉は、玄関で見送るために箸を置いて立ち上がる。

「行ってらっしゃい、雪人さん」
「行ってらっしゃい、ユキヒトくん」
「行ってらっしゃーい」
「行ってらっしゃい。気をつけてね!」

向こうの方で、雪人が「行ってきます」と言う声と、ガラガラと戸が閉まる音が聞こえた。
一葉が食堂に戻ってから数分後、京華も料理を完食し、ご馳走さまでしたと手を合わせた。
居間を抜けて廊下に出ると、京華は1度自室に戻り、再び歯を磨いた。
始業式で生徒会長としての挨拶を控えているため、京華は他の生徒より早く講堂に行って打ち合わせをしなくてはならない。壁にかかった時計を見ると、ちょうどいい時間だった。
京華はソファーに置いていた学校指定の鞄を手に取ると、部屋を出て階段を下り、居間の入口から顔を出した。

「じゃあごめん、私もう行くね」
「生徒会長だから打ち合わせ?」
「うん、そうなの」
「行ってらっしゃーい」
「じゃあ、私もそろそろ行きましょうかね」

そう言うと、牡丹鼠色に金糸で美しい刺繍を施した着物を着た絹江が立ち上がった。着物には魔法がかかっており、金糸がまるで流れる河のように揺らめいていた。
京華は、背筋のしゃんと伸びた絹江と連れ立って玄関まで歩いた。自分のお婆ちゃんはいつも穏やかで優しいが、近くにいると何となく姿勢を正さなければならないように感じて、京華もまた背筋を伸ばしていた。
絹江は下駄を、京華はローファーを履き、トントンと爪先を床に叩いて合わせる。
2人はそれぞれ使用人から荷物を受け取り、行ってきますと挨拶をして家を出た。
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