「お、佑じゃん、久し振り」
久々に外に出た、といっても行き先はコンビニだが、その帰り、丁度家に入ろうとしたところで声を掛けられた。執筆中だった原稿の締切明けで徹夜明けだった私はまさか誰かから話し掛けられるなんて思ってもおらず、暫く反応出来ずにその場に固まっていた。働かない頭で声の聞こえた方向を思い返して、そちらを向く。そうして声の主を改めて認識して、ああと小さく声を上げた。
「薬研」
私よりいくつか…確か高校三年生くらいだった気がするので、私よりも四つ年下の、隣の家に住む粟田口薬研は、かなり遅い私の反応にからからと笑った。「眠そうだな」と、高校生とは思えない低く深みのある声に問われて、私は小さく頷いた。「徹夜明けだから」と、今が夜で、周りがこうして静まり返っていなければ掻き消されてしまいそうな小さな声でそう返すと、薬研が少し、困ったような顔をした。
「仕事、忙しいのは分かるが、もうちっと寝たらどうだ」
「これから寝るから大丈夫」
「いや、そういう事じゃなくてな、あー、生活リズムってものを」
薬研はそこまで言って、言葉を止めた。少し、何かを考える素振りを見せて、小さく首を横に振った。
「…いや、まあ、ちゃんと寝るんだぞ」
「分かってるよ」
諦めたような、でもまだ納得のいってないような顔の薬研の言葉に、私は軽く頷いた。薬研は昔から医者になりたいと言っていたから、私の不摂生な生活ぶりに口を出さずに居られないのだろう。だがまあ、仕事柄直そうにも中々上手く行かない部分もあるので、薬研も目を瞑らざるを得ない。
「で? 今回のはどんな話なんだ?」
顔を合わせた以上、何か話さなければならないと思ったのか、薬研がそんな話を振ってきた。今回のは――と、その質問の意味を考えて、私の書いていた小説の内容のことだと思い至った。私は家の柵を開けようと掛けていた手を下ろして、それに答えた。
「普通に、男女の恋愛話だけど」
「もっと自分の小説PRしようぜ…」
「そう言われても。ナンパ男に絡まれて困ってるところを助けられて恋に落ちて、紆余曲折ありつつ告白して付き合うことになりました、っていう」
「あーそりゃめでたいなー」
まるで宣伝する気のない私の説明に、薬研は軽く呆れた様子でそう相槌を打った。まあこの説明だけだと読む気なんか起きないだろう。実際はもうちょっと色々複雑な伏線を絡めつつの青春ストーリーなのだが、今の説明では全く伝わっていないことも分かっている。しかし薬研に読んでもらおうという気もさらさらないので言い直す気はない。というか知り合いに読まれるのは照れくさくて嫌だ。
もう十分話しただろうと、さっさと家の中へ入ろうと再度柵に手を掛けた時、薬研がふと、思い出したように口を開いた。
「あ、そういやいち兄、帰ってきてるぞ」
ヒュ、と、息を呑んだ。薬研を振り返ると、突然振り返った私に少し驚いたような、不思議そうな顔をしていた。何の気なしに出した話題だったのだろう。私は暫く黙り込んで、ようやく「へえ、」と絞り出すように返してから、家の中へと入った。「おやすみ!」とその声に手を上げて返して、バタンと扉を閉める。ズルズルと、扉の前にしゃがみこんだ。大きな音を立てて心臓が波打っていた。小さく、名前を呼んだ。
「…いち、ご」
今更、どんな顔をして会えばいいというんだろう。
私の隣の家に住む粟田口一期は、まるで絵本から出てきた王子様のような男だ。甘いマスクと柔らかい物腰。弟思いで真面目な、絵に描いたような優等生で、周りからの信頼も厚い。優しくて、格好良くて、頭も良くて運動神経も良い、女の子の理想の王子様。粟田口一期は、幼馴染でずっと一緒にいる私から見ても、完璧で隙のない王子様だった。
一期と出会ったのがいつだったかなんて、もう覚えていない。物心つく頃にはすでに私達は出会っていて、いつのまにか、隣に立っていた。一期はいつだって優しくて、穏やかで、笑顔が暖かくて、私の大好きな王子様だった。大きくなったら結婚しようね、と、子供らしい約束もした。子供らしくて、儚い、決して叶うことのない約束。私が一期の隣にずっと立っていられるなんて、そんなわけなかったのに。幼い私には、そんなことすら分からなかった。
成長するにつれて、私は周りから浮いてしまうようになった。人と話すことが苦手で、中々友達も作れない。自然と暗い性格になっていく私と比べ、一期は皆の人気者としていつも輪の中心にいた。優しい一期は暗い私にも変わらず幼馴染として接してくれたし、私も一期相手なら気兼ねせず話すことが出来た。一期は私の言葉を最後まで真剣に聞いてくれる。まとまらない話の内容をしっかりと咀嚼して、問い返して、理解しようとしてくれる。私はそんな一期に甘えて、他人と話す努力もせずに、その心地のいい場所へ居座っていた。私はそんな自分の甘さが大嫌いで、だけどそこから動くことはなく、高校三年生の、あの日の冬まで、胡座をかいて座っていた。
一期は優しかった。私はそんな一期が恋愛感情とは別のところで大好きだった。それこそ一期の大切な弟達のように、私も一期のことを兄のように思い慕っていた。そのはずだった。
部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。連日徹夜明けの身体は疲れきっていて、そのまま指一本動かせなくなった私は、そっと目を閉じた。目を閉じた瞬間、携帯の着信音が耳に届いた。恐らく原稿を受け取った担当さんからの電話か、メールかのどちらかだろう。二回バイブが鳴ってすぐに切れたのでメールだと思う。担当さんもきっと「起きたら見てね」くらいの気持ちで送ったのだと思うので、このまま寝てしまおうと思う。
目を閉じたまま、微睡みの中、私は一期のことを考えた。「一期が帰ってきている」薬研は確かにそういった。この時期に帰ってくるということは、このままずっとこっちにいるということだろうか。高校三年生の冬、県外の大学に行くからと家を出た一期とは、この四年間、何度か帰ってきてはいたようだが、私は入れ違いだったり色々あって一度も会えていない。お互いに――まあ少なくとも私は――意図していたわけではなく、本当にちょっとだけ、タイミングがずれてしまうことが多かった。何度か薬研に「いち兄が久々に顔見たがってたぜ」と言われたので、本当にタイミングが合わなかったのだと思う。だけど私は、一期に会いたいとは思わなかった。会ったところで、どんな顔をすればいいのか分からない。
私はいつまでも、あの高校三年生の、最後に一期に会ったあの冬の日から抜け出せないでいる。
▽
「佑」
お母さんに、締切も終わったのならと庭の花への水遣りを押し付けられ、面倒に思いながらもホースで水を撒いていると、ふと、懐かしい声に名前を呼ばれた。ふ、と顔を上げると、さらさらの、真昼の空色の髪。私は眩しさに目を細めた。
「…一期」
小さく、名前を呼んだ。家の敷地を隔てる塀の向こうに立つ一期は薄く微笑んで、「久し振りですな」と手を上げてきた。私はそれに小さな頷きで返して、撒いていた水を止めた。平静を装ってはいるものの、心臓はバクバクと爆発しそうなくらい暴れているし、頭の中はパニックになってぐちゃぐちゃだ。とても一期と対峙できるコンディションではなかった。踵を返して家に入ろうとすると、また名前を呼ばれて、呼び止められた。
「待ってください」
「ごめん、打ち合わせあるから」
「佑」
「ごめん」
「あの時のことは」
「ごめん」
それ以上先を言われたくなくて、強く、言葉を発した。相変わらず心臓は壊れそうなくらい早鐘を打っていて、頭の中はぐちゃぐちゃで整理がつかない。だけどはっきりと、これから一期と付き合っていく上で言わなければならない言葉を、口にした。
「忘れて、ください。お願いだから」
一期の金の瞳が、大きく見開かれた。私はそれを直視出来ずに、ふい、と顔を逸らした。家の中に入る。ああ、ホースを片付けるのを忘れてしまった。まあ今日は平日でお母さんは仕事だから、また後で、一期がいなくなったあとで片付けにくればいい。
「……っはー、」
大きく、息を吐き出した。
一期は、覚えていた。あの時のことを。カタカタと、手が震えていた。泣きたくなった。
私は、一期に最後に会ったあの冬の日、一期に告白をした。
▽
「もうすぐ卒業ですな」
高校三年生の、寒い冬の日、少し借りたいものがあって一期の部屋にやってきていた私に、一期は感慨深げにそう呟いた。それと同時に渡された電子辞書を受け取る。一期と私の学校は違っていたが、二月に入ってどちらの学校も自由登校になっていたので、お互いに暇を持て余していた。軽い世間話だろうと「ああそうだね」と短く返して、辞書の動作を簡単に確認してから、一期のほうを見た。
「佑は、近くの短大に行くんでしたか」
「ああうん。えっと、その。二年間、もう少し好きに勉強してから、夢を叶えるのもいいかなって」
「夢……ですか」
「うん。一期は?」
夢に関しての問いは一切受け付けないというように、私は一期に問い返した。その頃の私の夢は当然というか小説家になることなのだが、なんだか気恥ずかしくて、一期にはその夢を知られたくなかった。
一期は少し困ったように笑って、私の問いに答えた。
「私は県外の大学に行くんです」
「……え」
「どうしても勉強したいことがありましてな」
「県外」
「はい」
知らなかった。目の前が真っ暗になっていくようだった。
心のどこかで、一期は離れていかないと、ずっと一緒だと思っていたのかもしれない。そんなわけなかったのに。一期だって自分の将来進みたい道があって、その先には誰か素敵な人と結ばれる未来も待っているかもしれない。ただの幼馴染の私が、一期とこれからずっと一緒だなんて、ありえないことなのに。
いつもなら、こんなこと思わなかった。だけどこの日ばかりは、つい、考えてしまった。どうしたら、一期は私から離れていかないだろう、なんて。
「…き」
「、え?」
「す、き」
自分の発した言葉の意味も分からないまま、私は一期に向かってそう言っていた。いつもだったら、考えて考えて、沢山考えた末に、ようやく少ない言葉を声にするのに。なんの考えもないまま、こうして言葉を発したのは、初めての事だった。
一期の驚いたような顔を見て、ハッと我に返った。私は何を言っているんだろう。何を、馬鹿なことを。
「…佑、」
「ちが、ちがう」
「え、」
「ちがう、今のは、ちがくて」
泣きそうな頭で必死に考えて、訳が分からなくなった私は、ついにその場から逃げ出した。一期の私の名前を呼ぶ声が聞こえた。一期の焦ったような声は新鮮だ。だけどそんな感慨に浸る余裕もなく、私は一期の家を出て、隣の自分の家へ走った。私が家に入る直前、一期が隣の家から出てきた。また大きな声で名前を呼ばれたけど、無視した。
家に入って、自分の部屋へ駆け込んだ。その場にしゃがみ込む。ああ、気持ち悪い。込み上げてくる嗚咽と吐き気。涙が溢れた。
「っちがう…」
誰に言うわけでもなく、呟いた。
一期のことを恋愛対象として見たことは、なかったはずだった。一期は隣の家の王子様で、年は一緒だけど兄みたいな存在で、大切で大好きな幼馴染で。一度だって一期のことを、恋愛対象だと思ったことなど、ないはずだった。のに。
「ちがう、ちがう…」
ちがう。言い訳なんて誰も求めていないのに、只管にその言葉を繰り返した。だって、ちがうんだ。私は一期のことをそんな目で見たことなんてなくて、ただ、大好きな兄のような幼馴染に、明確な言葉でその気持ちを伝えただけだ。そう、それだけ。逃げる必要なんかなかった。
なのに、なんで私は逃げてしまったんだろう。
答えの分かりきった疑問を頭に浮かべる。そう、答えは分かっていた。認めたくないだけだ。その事実を、辛い現実を。
「…っ、はは…」
涙でぐしゃぐしゃの顔に、笑みを浮かべた。知っていた答えだ。相変わらず、認めたくはないけど。
私は四年前のあの日、一期に告白して、一期のことを好きだと気づいた。
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