それは、朝食で使った食器類を片付けている最中に発覚した。
「おはよ、おふたりサン」
井戸端で水を汲む原田と平助。彼らに向かって、寝間着姿の龍之介が声をかけた。
「あ、龍之介!飯の時間は終わっちまったぜ?向こうで済ませたのか?」
「んー」
彼は井戸に近付くと、
「食べてない。てか食べたくない」
水が入った桶を頭の上でひっくり返した。
「食欲不振って奴か?無理にとは言わねえが、食べなきゃ体に悪いぜ」
謎の行動に戸惑いつつ、原田は窘めた。
大抵の風邪は、体力不足が原因だ。よく食べ、よく寝る。それを蔑ろにすれば布団の上の住人となってしまう。
「厨房で何か探してきてやる。――ん?」
龍之介の頭をポンと叩き、彼の様子がいつもと違う事に気付いた。
常より潤んだ琥珀色の瞳。薄く開いた唇から漏れる呼吸音。
龍之介の額に掌で触れ、原田は結論を出す。
「風邪だな、龍之介」
龍之介は「知ってる」とのたまった。
そして原田の思考が停止した隙に、再度水を被る。
「おいおい、自覚あんなら寝てろって。余計悪くなるぞ」
「平間さんにも言われた。でも俺、そーゆーの嫌いなんだ」
「好き嫌いの問題じゃねえだろ!ほら平助も何か言え、」
助太刀を求め振り向いた先には、頬を真っ赤に染めた平助。
「ぐおっっ龍之介が龍之介に見えねえ……!左之さんオレ無理任せた!」
逃亡する後ろ姿に、原田は「若いなー」と呟いた。
確かに、今日の龍之介は少々シゲキが強い。水を浴びたせいで体の線がはっきり分かるし、潤んだ瞳は意味深な光を帯びている。熱のためか、普段の生意気な口調も何処かへ行ってしまった。
一言で表現するなら、色っぽい。
平助はきっと、龍之介の其れに理性の危機を感じたのだろう。げに恐ろしき風邪。
「片付けなら俺も手伝うぞ」
「だから寝てろって」
「いーやーだー!」
原田が溜め息をついた時、
「あれぇ?なんか面白い事になってますね」
沖田と斎藤が此方に歩み寄ってきた。
二人は龍之介の姿に目を見張りこそすれ、誰かさんのように取り乱したりはしない。
「どうしたの井吹君、その格好。だらし無いのは元からだけど、今日は輪を掛けて……」
「左之、何があった――もしや風邪か?」
原田と龍之介は同時に頷いた。前者は疲れたように、後者は無邪気に、であるが。
「ならこれを飲むといい」
斎藤は懐を探り、「石田散薬」と書かれた袋を差し出した。
「いらない。俺、コロリも自力で治したし」
拒絶の言葉とは裏腹に、龍之介はふわりと笑う。
しかし斎藤の精神は大きな痛手を受けた。
万能薬である石田散薬もコロリまでは治せない。つまり彼の脳内には、「井吹龍之介>石田散薬」という不等式が出来上がってしまったのだ。
呆然と立ち尽くす斎藤の肩を、原田は慰めるように叩いた。
「で?左之さんはこれをどうするつもりなんです?」
『これ』と称された張本人は、邪気の無い笑みを浮かべて「寝る以外なら何でもするぞー片付けだって手伝うぞー」と言った。
彼の頬は先程よりも色付いていて、熱が上がってきているのだと分かる。
「ふうん、何でもするんだ」
沖田の瞳がキラリと光ったのを見て、原田は頭を抱えた。
この表情は良くない。土方に悪戯を仕掛ける時と同じだ。
沖田は龍之介の前に立ち、額や頬に張り付いた蒼色を払った。さらにその指先は、無防備に開かれた唇に触れ――
「総司!てめえ巡察すっぽかしやがって!」
突如、雷が落ちた。
鬼副長のお出ましである。
憤然とした様子の土方に、しかし沖田はしらばくれた。
「え、そんな予定ありましたっけ」
「ある!とっとと行きやがれ!!」
彼は不満げに龍之介の頬をつついたり撫でたりしていたが、一番組組長としての責任は果たすべきと考えたのだろう、渋々立ち去った。
原田は一息ついた。
これで漸く、龍之介を寝かせる為の説得に専念できる。
「おい原田。そいつ風邪ひいてやがんのか」
「ああ。寝てろってのに聞かなくて……」
「だから俺は平気だっ!」
「原田の言う通りだ。寝てなきゃ治るモンも治らねえ」
沖田の件を引きずっているのか、土方の目付きは鋭い。そのまま龍之介を威圧して布団に押し込めてくれ、と原田は願った。
「寝てるだけって嫌なんだよ」
龍之介は俯き、小さな声で懇願する。
「移さないように距離を取るから、だから」
ちらっ、と上目遣いに土方を見て。
「此処にいたい……」
原田は己の願いが叶わない事を悟った。わざわざ土方の顔を確認する必要もない。
周囲には隠していたが、土方は小動物が好きなのだ。今の龍之介は、彼の愛護対象にばっちり当てはまっている。
「……好きにしろ」
原田は本日何度目かの溜め息をついた。
頼みの綱の土方は陥落し、自分の仕事に戻ってしまった。
斎藤も再起不能のまま。
仕方がない、と原田は覚悟を決めた。
頬の色や瞳の潤み方といい、今日の龍之介は人の理性をぐらつかせる。このままでは第二の平助が現れかねない。
殴ってでも、嫌われてでも、龍之介を寝かせなければ。
密かに拳を固めていると、
「此処にいたのか、駄犬」
低く、堂々とした声が響いた。
龍之介の主人、芹沢鴨である。
後ろに平間を連れているのは、彼が龍之介の事を知らせたからだろうか。
「あ、お帰りなさい」
龍之介の挨拶に、芹沢は水筒を投げて答えた。
「貴様が寝ようが寝まいが俺には関係無い。だが水を飲むくらいはしろ。死なれては迷惑だ」
「えーと……薬?」
「水、と言った筈だが」
龍之介は安心したように笑った。薬嫌いなのか、薬代を気にしているのか、はたまたその両方か。
受け取った水筒を傾け、ぐびぐびっと飲み干す。
次の瞬間、彼の体から力が抜けた。
原田は腕を伸ばしたが、それより先に龍之介を支えたのは芹沢だった。
彼は驚きもせず、龍之介を両腕で抱える。
「………?」
状況を把握しきれていない原田に、芹沢は一瞥を与えた。
「この犬の飼い方を、まだ理解していないようだな」
彼の満足げな顔と、平間の申し訳なさそうな顔と、
「すぅー…すぅー……」
龍之介の穏やかな顔を見て、原田は降参した。
「(眠り薬、か……)」
手段を選ばないのにも程がある。
けれど、こうまでしなければ龍之介を従えられないのも事実。
「(まあ、こいつを野放しには出来ねえからな……)」
自分もだいぶ、理性が揺らいでいた。
今回ばかりは芹沢の判断が正しい。
原田は、いっそ清々しい思いで、前川邸に戻る芹沢達を見送った。
(終)