こころ








 “テメーがくたばったら墓前に花でも供えてやるよ!”

 かつてあたしが吐き捨てた呪いのような台詞を思い出して、なんて皮肉めいた話なのだろうと思った。あたしが生み出した愚蒙な言霊が、数百年の時を経て現実となって戻ってきたのだ。
 あたしは今、萎びた花束を握りしめ雷禅の墓前に立っている。かつてのケンカ仲間たちから「雷禅が死んだ」という訃報を聞かされ、遠い田舎から慌てて駆けつけてきたのだ。だがあたしは、雷禅の墓を目の前にしても未だに彼の死を実感できないでいた。
 そもそも“雷禅の墓”という表現に現実味がまるでない。勇猛果敢で、誰よりも強い雷禅が死ぬようなヘマをおかすはずがない。心のどこかでずっとそんな妄執に取りつかれていたような気がする。だが、この状況をどう説明しよう。かつては嫌でも感じた雷禅の存在感や、気配や、呼吸、その他何もかもがこの場からは微塵も感じ取れなかった。
 あたしが最後に雷禅と会話を交わしたのはいつのことだったろう。頭に靄がかかっているみたいに、ちっとも思い出すことができない。確か雷禅が「もう人間を食うのはやめて隠居する」と言い出し、猛反発した末にケンカ別れになったのではなかったか。あたしは本当は自分で吐き出した言葉が頭の片隅に引っかかっていて、雷禅に謝る機会をずっとうかがっていたのではなかったか。
 しかし、その機会を先延ばしにした結果がこれだ。覆水盆に返らずと言うが、吐き出した言葉が自分の首を絞めることになるとは思いもしなかった。

 雷禅の死因は飢餓だそうだ。そりゃあ、当然だろう。望まれもしないのに、自ら栄養源を断つような真似をしたのだから。
 雷禅は筋金入りのバカだ。バカでないのであれば、大バカ者だ。
 何百年も前に死んだ女に操を立てて、勝手に絶食をして、勝手に寿命を縮めて、挙げ句の果てには何の前触れもなく死んでしまうだなんて。大バカ以外の何者でもないだろう。
 あたしは絶対に雷禅に同情なんてしない。雷禅のために悲しんだりなんてしてやらない。
 雷禅を慕う仲間たちを、特別な想いを抱くあたしたちを置いて、何も言わず先に逝ってしまうようなバカに費やしてやる憐憫の情なんて欠片も持ち合わせていないのだ。
 雷禅のアホ、まぬけ、大バカ野郎。そう心の中でボロクソにけなしたって、やはり浮かんでくるのは雷禅との愉快な思い出ばかりで、視界の端がじわじわ滲んでいくのを止めることはできなかった。この胸に迫ってくるのは、悔悟の念ばかりだ。
 できることであれば、もう一度雷禅に会いたい。会って、かつてのように冗談を言い合って。酒を飲み交わして、たまにケンカをして。雷禅とそっくりな息子の話をたっぷりと聞きたかった。
 もはや知る術は残されていないが、最期の瞬間、雷禅は少しでも幸せを感じることができただろうか。
 墓前に手向けられた色とりどりの花束が、仲間たちの落涙が、雷禅の自慢の忘れ形見が、あいつの心を反映している気がした。

(200119)