夜闇を暴け


 かつてこの地に「白豹」と呼ばれる妖怪がいた。伝承の中で、その妖怪についてこう記述がなされている。
 蒼白色の毛並みに、熊のような胴体、虎の四肢を持ち、尾はまるで牛のようである。目はさいのように窪んでおり、猪のように鋭い牙を有す。特筆すべきはその鼻の形であり、象のように細長く尖っている。歯、骨は極めて堅固であり、銅鉄や竹骨を舐めるように食す。
 「白豹」は怪力で、強靭な幻獣である。鉄を食べ、更なる鉄を生み出す。また「白豹」の毛皮や画図は疫病や邪気を払うとされていたため、戦の絶えなかった自由狼藉の時代、人々は「白豹」を聖獣として祀り上げていた。
 しかし、幾ばくかの時代の流れと共に「白豹」は世の中から忘れ去られ、やがて呆気なく姿を消した。

 ◇

「それで、“バク喰らえ”と3回唱えればうちのヒロシちゃんは助かるんですね?」
「ええ、その通りです。と、言いたいところなんですが、それだけだと効力がやや足りない」
「そんな……。だったら、一体どうしたら……」

 女はしわの刻まれた目蓋を歪ませ、悲哀に満ちた表情でしおしおとテーブルの上に崩れ落ちた。女の来訪を迎え入れた際に淹れた紅茶はすっかりぬるくなっている。
 女の話は無駄に長く、耳を傾けているだけでひどくくたびれた。それでも話を聞き始めた当初は「それは大変ですねー!」と熱心に相槌を打っていたものの、今では「あー、はい、そうですかー」のトリプルコンボでしか口を動かしていない。これはあたしの職務上の怠慢である。
 ……が、正直に吐露しよう。だりい。しんどい。めんどくさい。あたしは今、精神的な疲労を全身全霊で感じている。
 こういう時はアレだ。危険薬物の出番だ。煙草だ。今すぐにでも煙草を吸いたい。しかし依頼人の手前、無防備に煙草を咥えるわけにもいかない。何故ならあたしの今後のビジネスイメージに関わるからだ。人間は話をやたらと脚色する生き物だ。あたしがただの健康優良児であったとしても、たかだか喫煙者というだけで柄の悪い連中との付き合いを勝手に連想される可能性も否めない。「あそこの事務所、金バッジの出入りもあるらしいわよ。例の依頼に行きたいけど、危険な場所はごめんよね」と話に尾ひれが付いてしまうかもしれない。食い扶持に困って路上死体まっしぐらはごめんだ。だったら早い話が、喫煙を我慢するしかない。けれど困憊した身体が猛烈に煙草を欲している。ギブ・ミー・シガレット! とデモを起こした細胞達が抗議のプレートを高々と掲げている気分だ。このまま悠長に構えていると体内戦争が勃発する恐れもある。現にコントロール不能となった足先が貧乏ゆすりを始めたではないか。
 汝に問う。このままだらだらと膠着状態を続けて良いのか? いや、良くない。礼金にもニコチンにもありつくために、ここいらで勝負を仕掛けるしかない。

 ところで3時間かけてくどくど説明された女の話を要約すると、以下の通りだ。
 会社の金を横領したことがバレたヒロシちゃん(29歳児/独身)が その“悪夢”を薙ぎ払うためにパチンコに通い詰め、自宅にあった金という金をパチスロ代につぎ込み、それでも金が足りなくなって終いにはサラ金や闇金にまで手を伸ばし、無職のプータローには返済できないほどあっさりと膨れあがった莫大な借金に頭を抱え、先日ついに自殺にまで追い込まれた、とのことだ。(ここまで聞いていると完全にヒロシちゃんの自業自得と言わざるを得ないが。)
 そのヒロシちゃんを溺愛しているであろう母親から「ヒロシちゃんが毎晩夢でうなされているんです。あんな悲しい目にあったんですもの。せめて夢の中だけでも幸福を感じていて欲しいのに」とこれまた頭の沸いた依頼があたしの元に舞い込んだのが今日の昼下がりのことだった。時計を見ると既に18時を回っている。Shit! 煙草どころじゃねえ! 約束の時間に遅れるじゃねえか!
 こちとらフリーダイヤルでお悩み相談室を開いてるわけじゃねえんだわ。これから起こる一大事に向けて着々と準備を進めないといけねえんだわ。えーと、まず一服して、着替えて、化粧直して、髪巻いて、電車乗って……うん、今から頑張ればギリで間に合うな。こんな無意義な時間を過ごしている場合じゃない。仕事よりプライベートが大事だ。いや、プライベートを楽しむためにも仕事は必要か。所詮、世の中金だ。食い扶持は自分自身の手で稼ぐしかない。言いたい事も言えないこんな不景気な世の中なんですけど。
 しかし、実に好都合だったのは請負人のあたしですら「こんな迷信めいたことを信じるバカがいるのか? ここは良識溢れる日本ぞ?」と己の事業に不信感を抱いているというのに、こうやって嘆願してくるほど切羽詰まっているバカ・・が意外と思えるほど存在している、という点だ。
「ひっ、うぐぇっ……ヒロシちゃん、かわいそうなヒロシちゃん……」
 どこか芝居がかった彼女の声音に「このババア自分に酔ってんな……」と内心呆れかえったが、ここで忘れてはいけないのが彼女は大事な顧客という事実だ。
 ババアの年季の入った香水臭さに吐き気を催しつつ、「大丈夫、何とかしましょう」とあたしは渾身の営業スマイルを作った。極めつけに懐に仕込んでおいたブツを泣き崩れた女の前に差し出す。その一瞬、女の瞳がすかさず光ったのは見逃さなかった。

「そこでこの“バクバクくん”ポストカードを枕の下に入れて頂ければ、“バク喰らえ”と合わせて実に30倍の効果が期待できます。この有難いポストカード、メーカー希望小売価格が5万円のところ……なんと、今なら! 特別価格の1万5千円でご提供させて頂きます。どうですか? お買い得でしょう?
 買うなら絶対に今がおすすめです。あなたの大切なヒロシちゃんを救うためですもの。こちらの誓約書にサインを頂けますよね? ね?」

 ◇

「かー! 仕事の後の酒はうめえなー!」

 大振りのジョッキを傾けると、喉の奥にキンキンに冷えたビールが流れ込んでくる。うまい。おっと、これも忘れちゃいけない。百円ライターで煙草に火をつけ、口に咥えると思いきり煙を吸い込む。無論うまい。これは疲弊した五臓六腑に染み渡りまくりですよ。
 そんなあたしの様子をしげしげと眺めていた幽助は「けけけ」と茶々を入れてきた。

「どーせまた阿漕な商売して来たんだろ」
「それはお互いさまでしょー」

 酒と煙草。両手に花だ。身体中に巡るアルコールとニコチンが最高に気持ちよくてすっかり気分はゴキゲンである。
 幽助のラーメン屋の顔馴染みとなって、早一月。先の魔界統一トーナメントで幽助と知り合い、何故か妙に気が合って頻繁に飲みに行くようになり、どうしたことか今じゃこの店の常連だ。都合がつけば毎晩のようにここに足を運んでいる。同じく常連客のおじさん達とも仲良くなって一緒に競馬に行ったりと、それなりに日々楽しく過ごしている。
 しかし、今日は一味違った使命があるのだ。

「お、そろそろ蔵馬も来るってよ」
「マジか、めっちゃ緊張してきた」

 余談だが、あたしは面食いだ。とにもかくにも男前が好きだ。そしてここ数百年、あたしにはまともに彼氏がいない。
 そこで今日は幽助に良い男を紹介してもらおうという目論見だ。“蔵馬”のことはぼんやりと知っている。と言ってもその容姿だけ、だけど。やたらと線が細くて、所謂“王子様”とでも呼ばれそうな優男だった気がする。あたしの好みはどちらかと言えば筋骨隆々のたくましい男なのだけれど、しかし顔が良ければ一向に構わないのだ、顔が。
 それからほどなくして蔵馬はやって来た。高架下の屋台では蔵馬の存在は非常に異端だった。綺麗で、清廉されていて、なんだか西洋のお城の中でローズヒップティーでも飲んでいそうな、そんな雰囲気がした。
 かたやあたしの装備品はビールと煙草とこの間買った馬券だ。どこの親父だよ。

「どうも、遅くなってすみません」
「よお、蔵馬」

 しかし、あれこれ考えたところで仕方がない。女は見た目ではなくハートで勝負なのだ。
 思っていた通り蔵馬は容姿端麗だし、物腰柔らかいし、中々良い物件を紹介してくれんじゃねえか不動産屋さんよ、と幽助のことを手放しで褒めてやりたい気分だ。
 幽助にお互いのことを簡単に紹介され、これまた簡単に挨拶を交わす。こういう時はファーストインプレッションが最も大切なので、あたしはできるだけにこにことして蔵馬と相対した。蔵馬もごく穏やかにあたしに向き合う。自然と世間話にも花が咲く。あ、これはなかなか好感触かも。

「茂一は何の仕事をされてるんです?」
「あたしはね、人の“夢を喰う”のよ」
「“夢を喰う”。茂一の正体は“ばく”ですか」
「お、当ったり〜!」

 ビールをぐびぐび飲みながら、アルコールで調子づいたあたしは得意気に身の上話をはじめた。

「大概の獏族はね、悪夢だけを喰らうんだけど、あたしは良い夢でも悪い夢でも、夢と名の付くものなら何でも食べちゃうの」
「そんで依頼人から散々金をむしり取ってるんだよな」
「違うわよ、人聞きの悪い。それ相応の報酬を頂いているだけよ。それに案外需要があるのよ、これがまた」

 “ヒロシちゃん”の例も言わずもがなだけど、毎晩夢見が悪くて眠れないからその根源の悪夢を喰ってくれだの、他人の抱えているとても叶いやしないどでかい夢を消してくれだの、子供や夫の無謀な夢を諦めさせてくれだの、などと仕事の依頼はまずまず入ってくる。
 あたしは対象者の夢枕に立って依頼された“夢”を食べるだけ。腹は膨れるし、賃金は貰えるし、依頼人には感謝されるしで良いこと尽くめなのだ。
 蔵馬は「へぇ、そうなんですか」と実に色のない返事を寄越した。自ら話題を振ってきた割には、つれない態度である。いや……と、言うよりも、どことなく蔵馬の醸し出す空気が先ほどまでとは変わった気がする。

「ところで幽助、“白豹”という妖怪を知っていますか?」
「白豹? さあ、聞いたことねえな」

 話を振られた幽助はまるで見当がつかない様子で首を傾げている。当然だ。「白豹」は何百年も前に姿を消した妖怪なのだから。一般的に知名度があるわけもない。しかし、蔵馬が突然何故そんな話を?

「“白豹”とは軽く因縁があるんです。その昔、オレが盗賊の駆け出しだった頃、白豹は圧倒的な強さでいつもオレの前に立ちはだかった」
「へー、そんなに強えヤツがいたのか」
「幽助で例えるなら戸愚呂や仙水のような存在でしょうか。銅鉄を頑丈な歯で噛み砕く、屈強な妖怪。“白豹”は正に畏怖と恐怖の対象でした」

 背中にだらだらと厭な汗が伝う。アルコールの酔いも、ニコチンの快楽もどこかへ消え去ってしまったようだ。幽助は「そんな強えヤツがいるなら、手合わせしてみてえな」と至極能天気なことを言っているが、そんな脳筋みたいな感想を述べている場合ではない。
 蔵馬はあたしのことを見据えつつ、こう続けた。

 ―― 白豹にはもう一つ名前がある。いや、こう言い換えた方がいいか。

「“獏”の異名は“白豹”だ」

 まるで獲物でも捕らえたかのように、蔵馬は鋭い視線をあたしへと向けた。
 ……あ。もしかしなくても、これって大ピンチ?

(200131)続くかも続かないかも