素敵な夜に


生まれ育った町を出て、南へ下る列車に乗り込んでから半年ー
新しい街でのお針子仕事はなにもかもが新鮮だった。
巻島刺繍店は親族経営だったけど、たどり着いた先で働きだした職場は、下請けをいくつも抱えるような大きな会社だった。
私はそこの刺繍部門のサブチーフとして採用された。
今まで下っ端だったのに、こんなに大きなところでそんな立場をまかされていいのかなと尻込みしたけれど、チーフ曰く「これだけ基礎がしっかりしていて速いんだもの、前のところできちんと育ててもらったのね」と言われて泣きそうになった。

私は田所さんにそのことを書いて葉書を送った。
きっと巻島さんにも伝わるだろう。新しい街でしっかり仕事をしていることが私にできる最善のお礼なんだと思う。
2度と会うことのない人だけど、同業である以上いつか間接的に仕事で恩返しができる日がくるかもしれない。その時胸を張っていられるように、新しい街で精一杯仕事に打ち込むだけ。

そんな毎日の中での大きな楽しみといえばやっぱり食事で、この港町にきてからちょくちょく市場をのぞいては珍しい魚介類を買うのがもはや趣味と化していた。

仕事終わりに駆け込む、店じまいの気配を漂わせた軒先。休日の朝、活気に溢れる屋台の並び。月に1回しか店を出さないスパイス専門商。全く愛想はないけどテキパキと魚を捌いていくお姉さん。そんなところへふらふらっと立ち寄ったらもう手ぶら立ち去ることなんてできない。
市場でも顔を覚えてもらえるお店が増えてきて、あれこれちょっとした立ち話をするのも楽しい。


買ってしまったなぁ。
今日も、仕事帰りに戦利品をぶら下げながら家へと続く坂道をのんびり登る。
後悔はしていないけど、さてこれをどうしたものかと悩みながら歩いていると向こう側から一台の自転車がものすごい勢いで坂を下ってきた。
この町に来る前からの顔見知り。

「っ、御堂筋ーー!」
自転車は私から10ヤードほど先で止まった。
「往来で人の名前大声で呼ばんといてくれる。」
駆け寄った私に、御堂筋はあいかわらず愛想のかけらもない顔でそう言った。
「だってそうでもしないと止まってくれないじゃん。」
「で、仕事中の僕を呼び止めるほどの用事でもあったん?」
「海老好き?」
「ハァ?…好きやけど。」
突然明後日の方向から飛んできた質問に、御堂筋は素直に答えた。
うんうん、そうだよね。特にこのあたりでとれる海老は身が大きくて本当に美味しいのだ。
「じゃあ今夜仕事が終わったらうちにきてよ。1キロ買っちゃったの一人じゃ食べきれないから。」
「1キロぉ?海老を?…キミ一人暮らしやんなぁ。米でもないのにほんま何してはるの。」
「だって、おじさんが早く店じまいしたいから1キロ買うなら安くするって、破格の値段だったんだよ?」
「…分かった。7時には行けると思うわ。ワインでええん?」
「うん、白でお願い。」
「ほな、あとでお邪魔さしてもらうわ。」

シャーっと小気味の良い音をすべらせて、御堂筋はあっという間に遠くへいってしまった。
メッセンジャーの仕事を始めたといっていたけれど、坂の多いこの港町ではちょっとした買い物代行もしているようだった。
仕事は順調のようで、わりとなんでもきっちりやってくれると私の職場でも良い評判を聞いたことがある。
以前からの知り合いだと言ったら、恋人だと勘違いされてしまった。なんでもかんでも恋愛につなげてしまう彼女たちには、かつて彼が私の家に無断で上がり込み、めちゃくちゃに荒らしていたことなんて想像もつかないだろう。
まあ私も、まさかこんなに頻繁に彼と家でご飯を食べることになるんて思いもしなかったけど。
仕方がない。だってここにはありとあらゆる食材が売られているのだ。そうしたら、まあ、つい買いすぎてつい作りすぎてしまうのは自然な流れだよね。

最初は牛スネ肉のシチューだった。
一晩かけてほろほろに煮込んだ自信作をひとりで食べるのが勿体なくて、ダメ元で声をかけてみたら意外にも御堂筋はちょっといい赤ワインを持ってきた。
すごく有り難がって頂戴して以来、誘うと料理にあったお酒や少し遠くにあるけど美味しいパンを買ってきてくれるようになった。


家に帰って早速支度に取り掛かろうと、私は気合いをいれながらエプロンをしめた。
最初に、豆の缶詰とあり合わせの野菜を刻んでミネストローネをさっと作る。それを煮込んでいるあいだに海老の脚をむしって殻にハサミを入れていく。1キロあるからかなりの量だ。
パプリカパウダー、あらみじん切りにしたニンニクと一緒にオリーブオイルに漬けたら、あとは仕上げに火を入れるだけ。
今日はもうひたすら海老だけを食べる会。なのでメインとスープにバゲットを用意したら、潔く前菜もデザートもなし。

ちょうどいいタイミングで、コツコツとドアがノックされた。
「はーい。」
ドアを開けるとそこに立っていたのは相変わらず愛想なしの御堂筋だった。ざっくりとした生地の、首周りのひらいた黒いカットソーに黒いパンツ姿で、私に黙って紙袋をさしだした。中には白ワインと貴腐ワインが一本ずつ。
洗い物で手が離せないかわりに、勝手知ったる我が家とばかりに冷蔵庫に入れてくれた。

御堂筋はそのまま私の隣に立つと、ボウルの中の海老を覗き込んだ。
「これだけの量一人で買うとか、正気やないわ…。」
ボソッと呟く御堂筋に「正気を失うほど安かったんだよ。」と真顔で答えたけれど、それはスルーして手を洗いに行ってしまった。

鉄のフライパンに火を入れる。
この町にきて一番最初に買った生活必需品だ。ちゃんとご飯を食べるというのが、新生活をはじめるにあたって私が唯一決めたことだった。
流れるようにたどり着いた街だから、それくらいでじゅうぶん。気負わず生きようと思っはや半年。今ではいい具合に油が馴染んで使い込まれた風合いが少し出てきたところ。

エビをぽいぽい放り込んで、揚げ焼きにしていく。ふちから鮮やかに赤くなっていく海老が、黒いフライパンにはよく映えた。
パチパチ油の爆ぜる音と、じんわり立ち上ってくる海老とニンニクの匂い。ああもう食べなくてもわかる。これは絶対飲みすぎるやつだ…。

フライパンから引き上げた海老を大皿に盛り付けたら、最後に残ったオイルをまわしかけていく。
それから温めておいたミネストローネと、軽く炙ったバゲットを並べる。
ワインの栓を開けるのはいつも御堂筋の担当で、美しい手つきでコルクを引き上げてワインを注いでくれる。それがなんだか神聖な儀式のようで、私はいつも見惚れてしまう。

「早く帰りたかったお店のおじさんに、かんぱーい!」
上機嫌でグラスをかかげる私を無視して、御堂筋は静かに「いただきます。」と手を合わせた。

席についたらもう余計な話はしないのが暗黙の了解。
私たちは黙々と海老を食べた。しっかり香りのうつったオイルにバゲットを浸すのも美味しい。カトラリーを扱う時のかすかな音、海老の殻を噛み砕いたり、剥いたりする音、グラスにワインを注ぐ音。会話も音楽も必要ない。私と御堂筋の、ささやかで幸福な晩餐がそこにあった。


「そういえば。」
あらかた海老を片付けたところで、ナフキンで手と口を拭ってワインを飲み干した御堂筋が口を開いた。
「くだらん噂があってな。ボクら駆け落ちしてきたことになっとるで。」
「ハァっ?」
突然ありえないことを言われて、思わず海老の殻が喉にはいって派手にむせた。
御堂筋が呆れた顔して空になっていた私のワイングラスに水を注いでくれる。それを一気に飲んでようやく落ち着く。
「あ、ありがと。…はぁ、びっくりしたぁ。」

大きな街にはいろんな場所から人が集まってくる。
決してよそ者が珍しいわけじゃないのに、そんな噂がたつということは、それだけ御堂筋が目立ってるということなんだろうなぁ。
「駆け落ちしたのはお姉ちゃんだし。私なんかと噂になって、アンタも可哀想にね。」
御堂筋はじっと私の顔を見てから小さく「別にィ。」とだけ返した。
「キミこそ、そないな噂流されて婚期遅れたら困るんやないのぉ?ただでさえあっちにおった時に刺繍店の跡取り息子とくっつき損のうとるもんなぁ。姉妹揃うて玉の輿逃して、残念残念、ほんま残念やわぁ。」
ものすごく失礼なことを言われているのに、以前の御堂筋の所業を思えば可愛いものだった。

「別に。結婚しないからかまわないよ。」
「はぁ?悲観しすぎやろ。こないな大きな街や。どっかに物好きの1人くらいおるんちゃうん?」
「ははっ、居たらいいけどねぇ。そっちこそどうなのよ。」
御堂筋は手酌でワインを注ぎながら声をおとした。
「そんなんせぇへんわ。結婚して子供作って家族みんなで幸せですうって?ならなんでキミは育った町から出なあかんかったん?なんで僕は孤児になったんやろか。」

意外にもボソッと吐いた本音が、御堂筋の孤独の深さを物語っていた。
「…私は、こうしてる時間は結構幸せだけどね。」
「ほんま、物好きやな、キモ。」
そっちこそ、という言葉は喉元にとどめておいた。

「ねぇ御堂筋。私たちは家族でも友人でも、まして恋人でもない…なんかよくわからない関係だけどさ。あんたとは弱った時に一番に連絡する相手でありたいと思ってるのよ。」
「連絡なんか…僕は誰にもせぇへんわ。」

御堂筋はそういって、大皿に残った海老を自分のお皿にぜんぶうつした。
ああ、最後にもう少し食べようと思ってたのにとられてしまった。
まあいいか。それだけ美味しく食べてくれたなら何よりだ。

「言うと思ったよ。」
それでも、私と一緒に来てくれたんだよね。
あの時。
ひとりぼっちで出ていかなきゃいけなかった時に、思いもかけず御堂筋がいてくれて本当はすごく嬉しかったんだよ。
返しきれない恩のようなものを、あんたはくだらないって一蹴するだろうから
感謝の気持ちを伝えるかわりに時々こうして夕食を振る舞うことしかできないけど。

御堂筋との関係に、今はまだ名前をつけたくはない。
自分の気持ちに向き合うのはもう少しだけ先延ばしにして、このふわふわとした関係を楽しんでいたい。
向こうがどう思っているかも、そんな噂話をわざわざ私に聞かせた意図もわからないけれど、悪くはない距離感だと思う。
駆け落ちしてきた噂は、だから否定も肯定もしないでおこう。

「連絡も相談もしてくれなくていいから、私がそう思ってる事だけは覚えといて。」
「さぁ、どうだか。」
御堂筋はそう言って、新しいグラスと貴腐ワインを取りにキッチンへいってしまった。その背中に、心の中で話しかける。また一緒にご飯を食べようね、
と。

きっと私が買いすぎて作りすぎてしまうのは、この街にこの距離で御堂筋がいてくれるからなのだろう。食べてくれる人がいる安心感というものを、姉と暮らしていた時には感じたことがなかった。
誰かとテーブルを囲む幸せを知ったのは、ひとりになってからだ。
それを教えてくれたのが、よりにもよってあの御堂筋だったなんてね。

不思議な星の巡り合わせにふふっと笑うと、テーブルに戻ってきた御堂筋が怪訝な顔で「なんやキモいわ。酔うたん?」と聞いてきた。
「いや、いい夜だなと思ってさ。」

うん、いい夜だ。こんなふうに、いい夜が細々と続いていくといいな。
酔いにまかせて御堂筋の顔をじっと見ながら、そんなことを切に願った。


<了>


尊敬するslow danceのゆかり様よりユニフォーム交換のような形で頂いた宝物です。この絶妙な距離感、美しい文章惚れ惚れします。本当にありがとうございました。
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