
それでも抱えて旅をした
内定をもらった時、真っ先に子の胸に沸いたのはは「勝った」という一言だった。
大きくはないけれど、歴史と実績のある医療メーカー。
生まれ育った場所がずっとしっくりこなくて、親の意向で地元の大学に入らざるを得なかったけれど、そんな我慢も卒業までだった。
入社6年目で倒産するなんて思わなかった。7月も8月も忙しかったし、これを乗り切ればなんとか安泰だと誰もが思っていた。まさかメインバンクに切られるなんて。
そんな囁きも、私物を片付ける社員や派遣先に電話する非正規スタッフたちのざわめきに消えた。
就職することで勝ったのなら、今の私は負けたのだ。
あの時繋心を捨てたように、今度は自分が捨てられたのだと、そう思った。
くたびれ果てて地元へ帰ってきた未婚の20代に、周囲の既婚者たちは限りなく優しい。
その優しさの底にあるのは労いや思いやりなんかではなく、ただの縁談なのだけど。
都内のマンションも解約しようかとも思ったけれど、こうなることを予測して少し長めの帰省ということにしておいてよかったと心底思う。
かつての同級生は今やだれかの妻となり母となり、すっかり「地元の大人」になっていた。
同じ環境で10代という貴重な時代を3年もともにしたというのに、私たちはすでに全く違う世界に生きている。りょうちゃんもそのうちの一人で、けれど彼女はたった3年で舞い戻ってきた私を笑うでもなく諭すでも縁談を差し出すでもなく、ただ「大変だったね」と言ってくれた。だから、今は同窓会の副会長をしているという彼女からの提案を疑うことなく受け入れてしまったのだ。
「1年の時に担任だったK 先生、今教頭になって烏野に戻ってきたんだよ。よかったら今度一緒に行ってみない?私も名簿の管理でちょうど週末あたり行こうかと思ってたんだ。」
「懐かしいなぁ。うん、行くよ。」
そうしてやってきた母校は、あの頃と変わらないままだった。
「ちょっと事務室によっていくからこのへんで待ってて。」
懐かしさに判断力が鈍り、私は何も考えることなく素直に体育館へ続く渡り廊下から外を見ていた。
「…名前?」
私を呼ぶ、少しかすれたしゃがれ声に一瞬心臓が止まるかと思った。まさか、ねぇ。ゆっくり振り向くと、そこにはジャージ姿の繋心がいた。
「繋心、なんでここに?」
「あーっと…今、バレー部の監督やってて。」
「そうなんだ。」
世襲制?一瞬そんなことを考えて、やけにそわそわしていたりょうちゃんの顔を思い出した。
彼女がここで待っててといった理由。そういえばあの子おせっかいだったわということをぼんやりと思い出していた。
「つかそっちだよ。いつ戻ってきたんだ。」
「先週。」
「…結婚でもするのか?」
首を横にふる。
「勤務先が倒産して、母も入院も重なって、で。一時的に戻ってきただけ。」
「大丈夫か?」
あれだけ嫌だった地元を離れて東京に行ったのに、会社が潰れて戻って来ざるとえなかったことのなにを大丈夫だといえばいいのだろう。
だけどそこに深い意味はない。私と繋心はとっくの昔に終わったのだし、これはただの社交辞令だ。だから私も他意なく笑う。
「うん。大丈夫。」
繋心はしばらく私の顔を見つめたあとでぼそりといった。
「いや、大丈夫なわけねぇか。すまん。」
ああ、昔だったらこんなこと言わなかったのに。大人になったんだなぁなんて思う。
「じゃあね。」
「待ってくれ!連絡先、教えてくれないか。」
「…変わってないよ。」
「そうか。じゃあ、連絡する。」
その一言で、繋心が連絡先を残していたことに少し安堵する自分が嫌だった。
私は消したのにな。東京に行くときに何もかも捨てたのに、今更なにをほっとしているんだ。
「いいよ、無理しなくて。」
私はあなたを捨てたでしょう?逃げるように仙台を離れた報いを、今受けなければいけないような気がして踵を返した。
「無理じゃねぇし、連絡すっからな!」
繋心の声が、背中に刺さった。
市民病院は、数年前に建て替えたらしくすっかり綺麗になっていた。仕事柄病院にはよく出入りしていたけれど、都内と比べても見劣りしないくらい立派でなんとなく嬉しくなる。
子供の頃、夜間救急でここに連れてこられたことがあったけど、あの時のおどろおどろしい面影はもうどこにも残っていなかった。
母がリハビリから戻ってくる頃合いを見計らって病院へ着替えを届けに行くと、叔母さんも着ていたのか二人で仲良くお茶を飲んでいた。
「お久しぶりです。」
「あら名前ちゃん、すっかり綺麗になってまあ。お仕事大変だったんでしょう。ねぇいつまでこっちにいるの?もう帰ってきちゃいなさいよ、ねぇ?」
母のもの言いたげな目くばせと、叔母さんのマシンガントークには愛想笑いを浮かべるしかなかった。叔母さん、いい人なんだけど古き良き時代のマダムというか、昔から思い込んだらこれと突き抜けるというか…つまり、この流れは。
「ところで名前ちゃん、あなた今お付き合いしてる人はいないんでしょう?」
そうなりますよね。
「ねぇ、ちょっと紹介したい方がいるのよ。こっちに戻ってきてお友達でも作ると思って、ね?」
「いえ、今は仕事を見つけるのに精一杯で、そのうち東京に戻りますから。」
私のやんわりしたお断りなど、地元コミュニティを牛耳っている叔母さんに太刀打ちできるはずもなく、いつの間にかお見合いの日程を決めるところまで仕切られていた。
母が倒れた時に叔母さんがつきっきりでいてくれたという負い目もあって、私はそのお見合いを受けざるを得なかった。
「はぁ。」
本当に何をやっているんだろう。叔母さんから解放されて、院内にある喫茶スペースで温かいレモネードを飲みながら、ふと思い浮かんだのは繋心のことだった。
あの日、烏野で再会した夜に繋心は約束通り私に電話をしてきた。
繋心がバレー部のことを本当に楽しそうに話すから、ぎこちなかった会話は錆を落としたようによどみなく広がり、付き合う前に戻ったようだった。
別れた日のことを、別れてからのことを、私たちは臆病な獣のように避け続けた。まるでずっとただの友達だったといわんばかりに。それはとっても楽だけど、心の奥がざらりざらりと粗くさざめいた。
ぼんやりと携帯をいじる。繋心に今どこにいるのかと聞かれて、つい素直に市民病院だよと返してしまった。
ー迎えにいく、そのまま待っててくれ。
いいよと断る気力も、「迎えにきてもらうような関係じゃないし」なんて強がる元気もなかった。私はただただ「ありがとう。」とだけ返した。
「お店とか部活とか大丈夫だったの?」
繋心の車の助手席にまた乗るだなんて思っていなかったから、いったい今はいつなのだろうかと軽いめまいがした。そんな動揺を押しとどめるように聞けば、「今日はじいさんとこに様子見にいってこいって言われて。部活は連絡入れてあるから大丈夫だ。」
「そう。」
思わずこぼれたため息に、繋心が私を見た。
「おばさん、悪いのか?」
「あ、ううん。母はリハビリが順調にいけば月末には退院できるんだけど。今日は親戚も来てて、お見合いごり押しされちゃってさ。なんか圧倒されて疲れちゃった。」
自虐気味に笑う私から視線を前方に戻して運転する繋心の声が翳る。
「行くのか?」
「んー。お世話になった手前、断れなくて。」
「別に名前が世話になったわけじゃねぇだろ。」
「そうなんだけどさぁ。そう言えない空気が嫌で東京行ったんだ、私。」
私は事のあらましとお見合いの日時や場所まで、聞かれるままに繋心に話した。
元恋人にこんな話をするのもどうなのだろうと思いつつ、それでも今は他人なのだとわりきって聞いてもらったら少しだけすっきりした。
車は静かに路地へと入り、私の家の手前で止まる。
「送ってくれてありがとう。」
「いや。大した距離じゃねぇし、ついでだついで。それより。」
深い夕暮れが、車内を影で染めていった。私たちは暗がりのなかでお互いを探すようにじっと顔を合わせていた。
「見合い受けるってことは、付き合ってる奴はいないんだな。」
「うん。」
「見合い、本当は行きたくないんだろ。」
「うん。」
繋心は少しの間考えこむように黙ると「そうか。」とだけ言って帰っていった。
お見合い当日は、憎たらしくなるほどの晴天だった。
絶対に着物なんか着ないという私の意地で、ネイビーのワンピースに低めのヒールというお見合いルックでホテルに向かった。案の定叔母さんには「あらぁ、お振袖着なかったの?」とつっこまれたけれど、毛先を巻いた髪はハーフアップにしたし、清潔感のあるお嬢様風は演出してきたおかげで深い追及は免れた。
写真と簡単な経歴だけを知らされていたお見合い相手は、市内で司法書士をしているという。
お酒も飲まないしタバコも吸わない。スポーツはオリンピックを見る程度で両親との同居なし。繋心とは大違いの、いわゆる「優良案件」だった。
ホテルのティーラウンジに二人置き去りにされて仕方なく始まったのは、会話というよりも一方的な面談だった。
「東京で医療メーカー勤務だって聞いたんで、仕事どうするのかなって思ってたんですけど、お話聞く限り今は全くの無職ですよね。これからどうされるか具体的にどうお考えで?」
「えっと、いえ、まだ失業手当をもらったばかりなので少しゆっくり考えようかと。」
「ゆっくり、ねぇ。こっちで同じ職種で再就職探すにしても営業ですよね?勤務時間が不規則になるんじゃないですか。それにさ、土日も仕事の場合子供は誰が面倒みるんですか?」
完全に女を上から見下ろすタイプのエリートは、活き活きと私の「指導」に入った。結婚相手は見栄と体裁を兼ね備えたお手伝いかなにかだと思っていそうな匂いが充満していた。
そんな男を頼りがいがあるし高収入で素敵だと思う人もいるのだろう。
あともう少しで「うるせーーー!」と心のハリセンを持ち出すところだった。
そうならなかったのはハリセン以上の破壊力が襲ったからだった。
ダン!
私たちのテーブルに右手を強く叩きつけて乱入した男は、低いしゃがれ声でお見合い相手を睨みつけた。
「ちょっっっといいですか?」と
金髪にスーツにピアスって、どこからどうみても夜の仕事かヤのつく人にしか見えないのに、ものすごくかっこよかった。
「一体なんなんですか?」
「あーっと。すいません。ちっとばかし行き違いがあったみたいで。」
「はァ?」
「彼女は俺と付き合ってるんで。」
「え…。」
「そういうことなんで、連れていきます。ほら名前、行くぞ。」
「まって、繋心、ちょっ…!」
繋心は、私の手首をしっかりとつかんだままお見合い相手に深々と頭を下げてホテルを出た。
「なんてことするのよ!」
駐車場まで引っ張られて、助手席のドアを開けた繋心の手を振り払った。
「お前が胸張って見合いしてたらこっちだってんな真似しねぇよ。泣きそうな顔してんじゃねぇ。」
「こんなとこ胸張っていられるわけないでしょ!」
こんなところじゃなくても、生まれ育った町に、私が胸を張れる場所はない。
繋心はふーっと息を吐くと私の背中をポンと叩いた。
なんだか監督っぽいな、と場違いなことを思ってしまった。
「だったら尚のこと、もうちっと考えて動け。」
「繋心はどうなのよ。」
「あのなぁ。俺がどんな思いでこんな格好してるか分からないか?再会したのは偶然だったにしても、同情とか面白半分でここに来たわけじゃねぇ。」
「なによそれ…。」
「かっこよく攫えりゃ良かったんだがな。ま、現実は映画のようにゃいかねぇか。」
「待って、繋心あれから誰かと付き合ったりしたでしょう。」
「してねぇよ。つか、できなかった。」
10月の風が、沈黙をはらんで私たちの間を流れていった。
ー今更。
私に言えるのはそれだけだった。
だけどそれを口にしようと思った瞬間、繋心は私の手をそっと掴んだ。
こんな風に、今にも喰い殺されそうな瞳をしているのに、優しく触れられるのがすごく好きだったな、と思い出してしまった。
だめだ、長くはここにはいられない。
「あの、繋心。そろそろ離して。これ以上つかまれてると、私東京に戻れなくなっちゃう。」
ちゃんと離れるから。帰る場所はもう東京だって決めたから。繋心に会うのはこれで最後。
だけど私の決意はもろもろと崩れ、繋心に抱きしめられた。
こんな風に強く抱きしめられたことは久しくなくて、体から力が抜けた。
「戻るなよ。」
「無理だよ。」
「頼む。」
「だって…。」
「お前にとってここが居心地の良い場所じゃねぇのは知ってる。けど、俺にとってバレー部がもう苦しいだけの場所じゃなくなったように、お前にもここにいて良かったって、いつか少しは思って欲しい。俺にできることがあるならなんだってやる。だから、傍にいてくれ。」
滅びの言葉を恐れる悪役のように、繋心の口から紡がれるそれを、私は防ぎたかった。
言われたら終わってしまう、けど、言われたい。
「好きだ。」
その一言ですべてが溶けた。
それから後の話は、長いこと嶋田くんと滝ノ上くんの酒の肴にされることになった。
私たちはお見合いボイコットからそのまま叔母さんの家に向かった。
「まずはラスボス攻略といくか。」
悪い顔をして笑った繋心は、それでもさわやかな好青年風の対応で叔母さんに頭を下げた。
そして、私がお見合いをはっきり断れなかったのは、付き合っていたのに結婚を切り出せずにいた自分のせいだと謝りたおした。
面食いの叔母さんは、真摯に謝る青年があの春高全国大会へ行った烏野高校バレー部の監督だと知ると手のひらを返したように「こんなに素敵な彼がいたならはっきり言ってくれればよかったのに。」と上機嫌で、婦人会でバレー部への募金をつのると約束してくれた。
「繋心、スーツ似合わないね。」
「お前こそ。」
帰り道に寄った定食屋のカウンターで、早めの夕食を食べながら私たちは笑いあった。
不思議と、もう東京に戻りたいともこの町にいたくないとも思わなかった。
どこにいるかじゃなくて、鵜養繋心という人の隣が私の居場所だった。そう思ったらひどくほっとした。
たどり着くのに長い時間を要した。ここでひとつの旅が終わったような気がした。
終
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