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なぜか飲み会に来なくても許される人というのがどの組織にもたいてい一人はいて、うちの会社では苗字名前さんがそうだった。
ほんの気まぐれで苗字名前さんが参加する時には、いろんな人が彼女にかまった。
総務課の飲み会なのにその日ばかりは他部署の男性陣が来てはいそいそとサラダを取り分けたり、グラスが空けば即座にメニューを手渡しては店員を呼び止める。
苗字さんはいつも静かに笑って「ありがとうございます」と周囲の気遣いをゆったりと受け取る。
お金持ちか由緒ある名家の出なのかと噂になったが、ご実家は松戸にあるごく普通の家庭だそうだ。
人に傅かれることが当たり前のようでいて嫌味がない。
どこか翳のある美人で回りの男性陣やお偉方からちやほやされているとあれば、異性がらみのトラブルや同性の反感を買いそうなものだけど、今のところそういった声を聞いたことはない。
それはひとえに、苗字さんの彼氏がマジでヤバいから、という一言に尽きた。
「今日あたりふらっと来るんじゃないかと踏んできたのにぃ〜、苗字さんいないのォ?」
居酒屋の座敷席、ファジーネーブルをちびちび飲みながら白石さんはわざとらしいため息をついた。
「仮に来たとしてもあなたとじゃどうにもならないでしょ。」
「はぁ…今頃あの陰気な男とヨロシクやってんのかな。なんでよりにもよってあんな男とさぁ。」
静かにグラスの冷酒を傾ける先輩の家永さんに邪険に扱われているものの、白石さんの意見にはその場にいた全員が頷いていただろう。
うちの会社は大きな駅から伸びるコンコース沿いにあって、彼はよくそのベンチに座って待っていた。
それだけならほほえましい話なのだけど、何が怖いって昼休みにコンビニへ買い物に行った時にその人をみかけて、仕事が終わって会社を出た時同じ場所にまだいたことだ。
白シャツに黒のパンツと、普通の恰好をしているのににじみ出る定職についていない雰囲気。坊主頭のしかめっ面。
そんな男が、憩いの場としてにぎわっている緑あふれる遊歩道のようなコンコースのベンチに座って、淡々とただそこに佇んでいる。
まるで殺したい相手を待ちぶせしてるような気配に心底ぞっとした。
もしかしたらお昼を一緒に食べる約束していて、行き違いがあったのだろうかと翌日苗字さんに聞いてみたらそうじゃなかった。
「待つのが好きなんじゃない?」
となんでもないふうに笑ってみせたから、多分ああやって待たれるのは茶飯事なのだろう。
そんなわけで、はじめちゃん―と苗字さんは彼氏のことをそう呼んでいたーは社内の一部でちょっとした有名人になった。
だっている時は毎日いるのだ。しばらく見かけなくなって別れたのかと思いきや
「仕事で海外に行ってるから3か月くらいは戻らないと思う」なんて言う。
無職かフリーターだとばかり思っていたのに、突然海外に、それも中東にいく仕事っていったい何なのだろう。
「民間の軍事会社にいるって言ってましたよ。ほら、英語とロシア語がペラペラだから通訳とか?」
どこからその情報を入手したのか、そんな後輩の推測に反論したのは、海鮮チヂミにこれでもかと唐辛子をかけていた門倉部長だった。
「傭兵だろ。」
「え?」
「陸自に古い知り合いがいてな。もめ事起こして辞めたあと海外の外人部隊に入って稼ぎまくってる奴がいるって言うから。月島って名前じゃないかと聞いたら、何で知ってるんだってえらく驚かれたよ。あいつ陸自でも、一度キレると相当ヤバいって有名だったらしい。」
「うわぁ。」
「そんな男に束縛されてる苗字さんって…。」
「なんていうか、ご愁傷様。」
帰らぬ人をしのぶように、その場にいた全員が黙り込んだ。
美人で優しくて仕事もできて…だけど男運には恵まれないどころかマイナスで。
あれくらいひどい男でもないと、苗字先輩の完璧さとつり合いが取れないと神様がバランスを取ったのかもしれないなんて思えてきた。
それくらい、私はあの男の目が怖くて嫌だった。
「って言うか門倉さんどんだけ七味かけるんですか。普通自分の皿に取り分けてからかけるでしょうが!もう!」
ぷりぷりと怒る白石さんにお通夜ムードが解除されて、みんなどこかほっとしたようにグラスに口をつけだした。
「部外者のくせにうるせーな。これはもう少し総務の面々にピりっとしてもらおうと思ってのことだ。」
「部長が一番ピりっとしてくださいよ。」
そう言って、家永さんは大量に七味がかけられたチヂミを表情ひとつ変えることなく口に運ぶ。
「俺が頼んだチヂミだったのに。こんなの食べたら痔になっちゃうでしょ。門倉さん、アンタ医者にケツの穴見られる覚悟ができてのことなんでしょうねっ?」
門倉さんはそんな白石さんをスルーして、激辛チヂミを美味しそうに食べる。
家永さんといい、いつも思うけどこの人たちがたまに見せるふとした異様さはどこからくるのだろう。
「ケツの穴?美人女医に見られるなら悪くねぇな。俺は断然見るより見られる派だ。」
「そんなの、俺だってそうですよ!」
…白石さんと門倉さんの最低な会話をスルーして、私はメニューを手に取った。
◇
「そういえば、苗字さんの彼氏。」
お会計を済ませて店を出たあとで、同期が思い出したように口を開いた。
「前に大丈夫なんですかって聞いたことがあったわ、私。」
「え?」
「いやだって、どう見ても事故物件じゃん?」
否定はできなかった。
「そしたらさぁ『私が殺されたら、相手は手の付けられないくらい狂暴でおかしい男だったって面白おかしくマスコミに吹聴していいわよ。』だって。」
「なにそれ、闇深すぎるんだけど。」
一瞬衝撃を受けたけど、そう言っている彼女の姿を想像したらなぜだかすごくしっくりきた。
「なんかそういってた時の苗字さんがすごく楽しそうでさ…何も言えなかったよ。」
「そうなんだ。」
「だから案外あれはあれでお似合いっていうか、幸せなのかもね。まあ、私ら凡人には計り知れない幸せだけどさー。」
計り知れない幸せ。
少し離れた所では白石さんと門倉部長がガルバかキャバか、この後どちらにいくかでモメていた。
なんだかんだ仲いいな…と冷めた目で見ている横を
「それじゃあお疲れ様、気を付けて帰るのよ。」と家永さんが足早に過ぎていく。
来週も会社で会えるのに、今ごろ苗字さんはどうしているだろうな。
少し寂しくなって、私はビルに囲まれた夜空の断片を仰いだ。
◇
金曜日の夜。
今頃部署のみんなは居酒屋で盛り上がっている頃だろうなと携帯を手に取れば、門倉部長からなぜか半裸で土下座する白石くんの写真が送信されていた。楽しそうで何よりと、そのまま画面をオフにする。
「飲み会、本当に行かなくてよかったのか?」
「うん。」
私の足の爪一本一本に恭しくペディキュアを施していくはじめちゃんのつむじに視線を落とすと、ふとした衝動で頭を踏みつけたくなる。
もともとなんでもこなせる男なのか、最近は自分で塗るよりやってもらった方が綺麗に仕上がることが多くなった。
一度爪やすりをかけたあとで、ためらうことなく私の親指をねぶりだした時には本気で踏みつけたけれど。
そういえばあの時も表情ひとつ変えなかったのを思い出した。
「…はじめちゃんって、どうやったらその仏頂面を崩せるのかしらね。」
この男が慌てふためいたり泣いたりするところが想像つかなくて、彼の後頭部をざらりと撫でる。
はじめちゃんは答える気がないようで、無言で作業を続けた。
「たとえば私がここで他の男と寝てたら、血相のひとつくらい変えてくれるかしら。」
「その時はそのまぬけ男を殺すまでだ。」
「そんなことしたらはじめちゃん捕まって私に会えなくなるのよ。会えない男なんか捨てて、誰かつまらない男と結婚しちゃうかも。」
ここまで告げて、ようやくはじめちゃんはため息をついて顔をあげた。
「お前は俺を殺人犯にしたいのか。」
足の仕上がりを確認して、はじめちゃんはその場であぐらをかいて私を見上げ続ける。
「別に。でも、今更一人殺すくらいなんてことないでしょう?あなたは私が好きっていうことよりも、自分のものを横取りされた怒りで動くんでしょうね。」
そんなことはない、と返すべきところをおし黙ったままなのは、彼なりの抵抗なのかもしれない。
彼がこの家に転がり込んできてから3年。
海外で「仕事」をしている間は数か月家を空けるから、一緒にいるのは賞味1年くらいだろうか。
思えば体の関係になったのもなし崩し。私に付きまとう男を殴ったり投げ飛ばしたことは幾度もあったけど、付き合おうとか好きだとか、はっきり言われたことは一度もなかった。
「前から聞こうと思ってたんだけど、はじめちゃんって私のどこが好きなの?」
「…は?」
「だって、別に私じゃなくたっていいでしょ。」
「そんなことはない。俺は、名前がいないと駄目になる。」
今度はまっすぐと、何の照れもなく私から一ミリも視線をそらさずはじめちゃんは言い切った。
ズブ…と、私の胸のなかでなにかが沈む音がした。
「じゃあ私のどこが好きか教えて?」
「…顔。」
心底しぶしぶといった表情で、はじめちゃんはぼそりと応えた。
「えぇ?この流れで外見なの?」
興覚めした目で見下げると、はじめちゃんは訥々と弁解をはじめた。
「違う。名前は俺から目を逸らさないから。会社から出てきて…俺を見つけるとまっすぐこっちをみて笑う顔が好きだ。俺は昔から目をそらされることのほうが多かったから、名前に見られると…その、自分にも幸せというものが許されていたのかという気がしてくる。」
私に気を遣って言葉をさぐりさぐり、地雷を避けるようにそう語る姿を見下ろすのはいい気分だった。
「なんだ、そんなこと。」
「俺にとってはそれだけで好きになるほど大事なことだ。」
「そうなんだ。」
「ああ。」
「やっと好きって言ってくれたね。」
「…。」
今夜の私は上機嫌だ。だから彼が欲しい言葉をかけてあげることにした。
「ずっとはじめちゃんのことを見ててあげる。はじめちゃんを幸せにしてあげる。はじめちゃんが望むすべてをあげる。だから捕まるようなことはしないでね。ずっと私の傍にいて、私のために生きて?」
彼が欲しい言葉を、耳からそっと、そうっと流し込んでいく。
そうするとはじめちゃんはごほうびをもらった犬のようにうっとりとした表情で私の膝に顎をのせる。
耳朶の裏を人差し指でそっと掻いたら、ふるりと体を震わせた。
「ペディキュアが乾くまでじっとしててね。」
返事のかわりに、熱い息が膝にかかった。
職場では、私がこのイカれた男に束縛されていると思われているのか、はじめちゃんと一緒にいると心底憐れんだ目で見られることがある。
だけど本当は、私が彼を縛りつけているのだ。家永さんだけは、それに気付いているようだけど。
放っておいたらあっという間に迷子になってしまうこの愛しい男を、どこにも行かないように監督するのが私の今生での役目だと思っている。
お互いの人生を揺るがすような存在に出会えたことに感謝しつつ、私は彼の耳朶を悪戯にいじり続けた。
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