君の顔が好きだ



「名前サン、名前サン」
「はぁい?」

もったりと暑い空気を、扇風機がぬるく掻き混ぜている。
夏の熱い夜、畳の上でだらりと寝転ぶ彼女の背中に向けて声をかけてみた。
振り向いてくれるかと思ったが、姿勢は微塵も動かない。
小説に夢中らしい。


「何の本読んでるんスか?」
「うん」


…絶対、話聞いてない。


噛み合わない会話と、返ってこない返答でそう察する。
彼女は本の虫。
活字中毒といっても過言ではない。
アタシも本は読むけれど、それはあくまで知識を吸収するため。
娯楽としての読書はしない。

だから彼女が何にそう夢中になるのか、アタシにはイマイチよく理解できず。
研究に没頭して寝食そっちのけになるアタシにも、名前サンは同じことを思っているのだろう。
お互い様だ。
そこまで考えて、ふと気づく。


あ、こういう気持ちか。


研究に入り込んだときに、名前さんから遠慮がちに呼ばれる自分の名前が思い出された。

案外、寂しいものだな。

扇子を開いて、仰ぎながら視線を上にあげる。

同じ空間にいるのに。
同じ空気を吸っているのに。
同じ時を過ごしているのに。
近くにいるぶん、名前サンがとても遠くに感じられて。


2人の時間が合わなくて、離れている時間のほうが多い。
そんな時でも、瞼を閉じれば名前サンだけは浮かんでくる。
そうして想像の中で彼女の名を呼び、愛でる間はとても近くに感じるのに。
それはとても自己中心的な想いが赦される時間。
アタシが何者であるかとか、キミを幸せにできるのかとか、そういうことを何も考えずに、ただとにかくキミを愛するんだ。
何を言葉にするのも、どう伝えるかも自由。


実際彼女を目の前にしてしまえば、どうしても狡猾に振る舞ってしまいそうになる。
嫌われないための安定的な愛。
計算された言葉、態度。
そんなものばかり、頭をぐるぐると回る。

でも、なんだかんだいって、こういう切ない気持ちとかも、嫌いじゃないんスけどね。

苦笑して、読書の邪魔をしないように名前サンの顔が見える位置にそっと移動した。

会ってる時も、会えない時も、昼も夜も、キミのことで切なくなって、胸を痛めることができる幸せ。

真剣な眼差しで夢中で本に視線を落とす名前さんの横顔を眺める。

はらりと落ちた柔らかい黒髪。
細くて白い指が頁をめくる。
長い睫毛が時折、瞳を覆って。
華奢な肩やきゅっと結ばれた小さな唇、全てが好きだ。


「っはぁ!読んだー」

面白かったぁ。

名前サンがパタンと本を閉じて、仰向けに寝転がった。

「ご満悦ですね」
「やぁー。ほんと!ていうか、喜助さん待っててくれたの?」
「いえいえ、アタシはアタシで楽しんでましたよ」

申し訳なさそうに、下からアタシを見上げる名前さんに緩く笑ってみせる。

気にしなくていいんスよ。

と、伝えたくて。
物分りのいい振りをする。

「喜助さん」
「んー?」
「おいで」

頬杖をついて名前さんを見ていた目が自然と開いて、手のひらから顔が浮く。
両手を伸ばして柔らかい笑顔で誘う彼女が、ほら、と優しく誘ってくれている。
堪らなくなって飛び込めば、華奢な腕できゅうと抱きしめられて、名前サンの甘い匂いが脳内を支配した。


「…普通、逆じゃないっスか?」
「いーじゃん、たまには」

たまには抱きしめてほしいかなって。

いつもより高い位置から降ってくる、甘い声に酔う。

「ほんと、敵わないなぁ」

次は自分が同じことを名前さんにしようと心に秘めて、ぎゅっと抱き返す。
名前サンが同じように切なくなったときに、アタシもキミに同じ甘さをお返しできたならいい。
その相手がアタシであることの幸せといったら。

「あーつーい」
「あついっスねぇ」
「そろそろ離れようか」
「いやーっス」

熱帯夜が更けていく。






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