カプチーノ
「ただいまぁ…」
重たい足取りで帰路に着き、ようやっと家に辿り着く。
冷たい鉄のドアノブに手をかければ、より一層疲れが増した気がした。
重たいドアを開ければ、部屋は当たり前の如く真っ暗。
「はぁ」
窓から差し込む夜灯を頼りに足を引きずりながら廊下を歩きつつ、ぼたぼたと身につけていたものを落としていく。
カバン、上着、スカート、ストッキング−。
まるで今日の疲れが具現化したかのように、重たげに床に転がっている。
シャツとパンツというあられもない格好も、独りの部屋では気にならない。
むしろ清々しすらある。
ボタンを3段目まで外して、ゴソゴソと下着を剥ぎ取って腕時計を外し、ピアスに指をかけたら後は…。
「はうぅぅぅ…つっかれたぁ…」
そのままベッドに雪崩込んで、一日が終わる。
これが私の日常。
繰り返す退屈で平穏で気怠い日常を謳歌。
頭の片隅にぼんやりと、化粧落としてない…と、やり残した作業が過りつつも限界が近い。
徐々に遠のいていく意識を掴む努力もしない。
なんていったって今日は花の金曜日。
このまま明日の昼まで寝ちゃっても、へっちゃらなのだ。
あ…幸せ…。
寝落ちする間際の、刹那的な幸福を堪能する。
この瞬間の為に生きている…、そんな大袈裟なことを思いながら、バンザーイと意識を手放しかけた時だった。
「名前サン、エロいっス…」
は?
「でも、そんな格好で寝てたら風邪ひきますよ」
え?
「えっ?!」
手放しかけた意識がいっぺんに戻り、ベッドの上で飛び起きてみれば、薄暗がりに見覚えのあるシルエットが浮かんでいる。
「き…きす…」
「え?キスしてって?名前サンったら、大胆なんスからぁ」
驚きすぎて出かけて続かない言葉に、ふざけた言葉を返す信じられない神経。
近づく肌の温もりと一緒に、ほろ苦くて柔らかい匂いが鼻を掠めた。
大きな手のひらが頬を包んで、首筋に唇が触れる。
間違うはずなんてない。
「…喜助、さん…?」
「ハイ?」
柔らかい亜麻色の髪が揺れて、深い声が耳に響く。
「え、と…あの…なんでここに?」
「え」
どう、何を言ったらいいか分からなくて、随分と間抜けな問いが口から零れた。
「それが久しぶりに会った恋人に言う言葉っスか?」
自分でもそう思う。
「や、だって…、というか、どうやって中に」
「どうって、名前サン」
忘れちゃったんスか?
パッと温もりが離れて、側で呆れた顔で笑うのがボンヤリと見えたかと思うと、パチっとスタンドに明かりが灯る。
暗がりに慣れた目が驚いて、反射的に目を瞑ってゆっくりと開けた。
「コレ」
そう言って喜助さんが指で摘んで、目の前でユラユラと揺らしているのは見覚えのある鍵。
「あ、」
思い出しました?
懐かしい喜助さんの柔らかい笑顔と一緒に、数ヶ月前の記憶が蘇る。
―喜助さん、ごめんなさい。帰り遅くなりそうだから、鍵預けとくから部屋入っててね。
―いいんスか?鍵預かっちゃって。
―スペアだから大丈夫。ごめん仕事抜けて来てるから、戻るね!
結局その日の帰りは明け方になり、家に帰ってみれば、小綺麗に片付けられた部屋と、テーブルにちょこんと乗った食事と置き手紙だけがあった。
『また鍵返しにきます』
その一文だけのメモから、数ヶ月。
もはやまだ恋人であったということに驚きだった。
考えてみれば、恋人関係などただの口約束のようなもので、また会える確約もずっと一緒にいられるという確信も持ちようがないのだ。
そんなことを考えているうちに、あれ?喜助さんが恋人だったっていうのは幻だったのかな?などと思うようになり、忙しているうちに忘れつつあった。
というより、考えないようにしていた、というほうが正しい。
でも、また、会えてしまった。
懐かしい声が、香りが、温もりがすぐ傍に、手を伸ばせば届く距離にある。
そう思うだけでたまらない気持ちになる。
「えぇ?!泣いてるんスか?!」
「だ、だってぇ…」
気がついたらポタポタと雫が膝に落ちていた。
会いたかった気持ちとか、寂しかったこととか、不安な気持ちやら、色々なものがこみ上げて、嗚咽と一緒になって溢れ出てくる。
「ぜ、ん、全然、来て、く、れないし」
「それは名前サンも同じでしょう」
「う…そ、そうだけど…も、終わったのかな、とか」
「どうして、そうなるんスか…」
「なんか、段々、考えたくなくなって」
「アタシはいつも名前サンを想ってたんスけどねぇ」
やっぱり届きませんでしたか。
そう言って困ったように笑う喜助さんは、狡い。
思わず喜助さんの頬を、力のこもらない手で叩いた。
「アイタっ!」
「…お返し」
「そんな痛いお返しがくるプレゼント、した覚えないっスけど…」
少し赤くなった頬を擦りながら、でもどことなく嬉しそうな喜助さん。
やっぱり狡い。
そんな顔、狡いにきまってる。
「なんか、目、さめちゃった」
「ちょうどよかった。
シュークリームあるんスよ。カプチーノ作りますから、お茶しましょう」
「やったぁ」
何気ない会話が嬉しい。
よいしょ、と立ち上がりかけた喜助さんが、ふと言葉を漏らす。
「そういえば、名前サン…下、何か着たほうがいいっスよ」
「へ、うわ、あ!!!」
ぎゃー、最悪!!!
布団に紛れ込んでいたズボンを慌てて履いた。
可笑しそうにクスクス笑いながら、喜助さんがキッチンに入っていく。
あと少しで、やかんが温かい湯気を出して、泡立てたミルクたっぷりのカプチーノと、甘いシュークリームがやってくるだろう。
大好きな彼に運ばれて。