身を焼くほどの
勝手知ったる家に上がり込んで、彼がいる2階に上がっていく。
襖戸を開けると、古い文机に向かって本を読んでいる、逞しい背中が見えた。
「基ちゃーん…」
「なんだ、来てたのか」
甘えた声を出して近寄れば、顔を上げて分厚い手をぽんと頭に乗せてくれる。
このやり取りを、もう何度繰り返してきただろう。
2つ上の基ちゃんは、とても優しい。
小さな頃からずっと、私を守ってくれた。
時にはいじめっ子から、時には女のドロドロした諍いから、時には先生からの執拗な嫌がせから。
私は、いつも基ちゃんの背中に隠れていた。
そうすれば基ちゃんが、嫌なことから、怖いことから、遠ざけてくれる。
基ちゃんは私にとって、安全基地だ。
「月島先輩って、アンタのなんなの?」
私にまで牽制してくることがあるんだけど、と訝しげに親友に言われたことがある。
「基ちゃん過保護なんだよねぇ」
対して私の返答はそんな巫山戯たものだったけれど、基ちゃんが私に過保護なのは紛れもない事実で、それが嫌だと感じたことは一度もなかった。
逆に言えば、基ちゃん以外の人間のことを、私はいまいち信用しきれない。
今も一緒にいてくれる、基ちゃんのことをあまり好きではない親友のことでさえも。
このままではいけないのではないかと、うっすらとした危機感を感じないわけではないので、基ちゃん離れを試みるのだがどうもうまくいかないでいる。
「男の子ってよく分かんないよ…」
「振られた?」
「うーん、振られたっていうか、逃げられたっていうか」
本に視線を戻して、読みながら話を続けてくれる基ちゃんに、でもそれじゃあ意識がこちらに向いてなくて何となく癪で、そのごつごつした肩に顎を乗せた。
「なんの本?」
「チェーホフの短編」
「ねー基ちゃん」
こっちを向いて欲しくて、その首筋に鼻をぐりぐりと押し当てる。
基ちゃんはいつも、太陽の下の土の匂いとちょっとだけ汗の混ざった、酸っぱい匂いがする。
「まったく…集中できん」
どうして欲しいのかちゃんと口で言え、と言って、でも私がどうして欲しいかなんてお見通しな基ちゃんは、パタンと本を閉じた。
「…で?男に逃げられたって?」
愛用している文机に肩肘をついて、あぐら座のまま向き合ってくれる。
私は足を伸ばして、セーラー服のリボンをくるくると弄びながら口を尖らせた。
「そう。こんな子だと思わなかったって。俺がいなくても、君は大丈夫だろって」
「お前が?」
基ちゃんが細い目を見開いて、驚いた顔をする。
「そうなのよ!どう考えても、私はそんなに自立した人間じゃないと思わない?」
「それ、自分で言ってて悲しくならないか?」
「う…でもいいのよ!私には基ちゃんがいるし…って話がズレてる!」
俯きかけた目線をあげて基ちゃんを見ると、穏やかな顔で笑っていた。
その顔を見て、世の中の男の子が全員、基ちゃんみたいな人だったら良いのに、と思う。
「何だかんだ理由つけて、付き合ってもすぐ、振られちゃうんだよね。
こうも続くと、振られるっていうか、逃げられるって感じに近いなぁと思って。
“こんな子だと思わなかった”って何故かよく言われるんだけど、皆勝手に想像してさぁ…。
私のことなんて何も知らないくせに」
ぶつぶつと文句を垂れながら、私は基ちゃんの太ももに頭を乗っけてごろりと寝転がった。
分厚くて硬い太ももの感触は正直言って心地よくはないけれど、嫌な顔をされるのが好きでよくする。
「おい。重い」
案の定不快そうな顔をして私の頭をどかそうとするので、むくむくと悪戯心が芽生えて、絶対に離れまいと顔をお腹に押し付けて両手を脇腹に巻き付けた。
「あ、コラ。…仕方のない奴だな」
諦めたのか大きなため息が聞こえて、せめて腕を離せ、と言われ素直に応じる。
上を向けば、基ちゃんの優しい眼差しが降ってきた。
「ありのままのお前を受け止めてくれる奴が、きっとそのうち現れるさ」
指の背で頬を撫でられながらそう言われて、私は目を細める。
「基ちゃんみたいな人が現れれば良いんだけどなぁ。
そうでないと、いつまでも基ちゃん離れできないよ」
目を閉じて、膝の上でお腹側の方に寝返りを打つと、基ちゃんの匂いが濃くなった気がした。
▽
「離れる必要なんてないだろ」
口の中だけで、ボソリと呟いた。
部屋には彼女の規則正しい寝息が漂っている。
彼女の寝顔を眺めて、ひっそりと息をついた。
そして滲む笑みを抑えようと口を抑える。
ー基ちゃんみたいな人、か。
名前が言った言葉を反芻して、可笑しくて込み上げる笑いを喉の奥で堰き止めた。
強烈な所有欲を、自覚的に感じたのは随分幼い頃だ。
玩具が欲しい、お菓子が欲しい、はたまた親や先生といった大人の視線を独り占めしたい。
まだ欲の少ない小さな子供にとって、この欲求は抗いようのない強さを持つ。
泣き喚いてその主張をする子供もいれば、力ずくでその欲求を叶えようとする子供もいる。
“この子が欲しい”
俺の場合は、物でも大人からの愛着でもなく、名前だった。
当時から捻くれた子供だったのか、周囲を観察していて短絡的な行動は却って欲しい物を遠ざけると、何となく悟っていた。
幼いながら懸命に考えた末に出した結論は、とにかく名前の側にずっといることだった。
自然、彼女を害する物と対峙することが増えた。
向かってくるものを跳ね除けていたら、名前の方から俺の側に寄ってくるようになった。
そんなことを続けていて、気がついたのだ。
そうだ、彼女が俺から離れられないようにすれば良い、と。
名前は知らない。
馬鹿なクラスメイトの男子が、幼稚ないじめで彼女の気を引こうとするのを陰で増長させていたことを。
下らない同性間の諍いを、それとなく引っ掻き回して悪化させたことを。
変態教師が彼女にちょっかいをかけるよう差し向けたことを。
そして、今、名前の男になろうとする浅ましい輩に、彼女には他に男がいるぞと、吹聴して気持ちを離れさせていることも。
結局この子は、俺から離れようとしているのに、離れようとすればするほど、俺のことを欲するようになっている。俺ではない別の男を見ながら、俺みたいな奴を探しているのだと思うと、優越感で頭がおかしくなりそうだ。
それでいい。成長なんてしてくれるなよ。
お前はいつまでも俺に甘えて、俺なしで生きていけないようになればいい。
幼い頃から温め続けたこの激情が、いつか日の目を浴びるとしたら、それはきっと俺自身を焼き尽くすだろう。
そんな想いも丸ごと腹に収め直して、彼女の目尻にかかる髪をそっと払ってやった。