ルサンチマンの憂鬱
今日のおひとり様は、カラオケにしよう。
そう決めて、華の金曜日に浮かれた足取りで会社を出たのが午後18時。
5時間後、私はこの選択に死ぬほど後悔することになる。
「歌った歌った…」
心地よい疲労を、ビールでグッと腹に落とす。
カラオケチェーン店の安いビールの味も、たまには悪くないと思った。
今日はこの後ビジネスホテルに泊まって帰る予定で、会社と家からは逆方向の、あまり来なれない街にわざわざ足を伸ばしていた。
理由は至って明白で、会社や近所の人間に会いたくないという理由だ。
別に人間関係に苦労しているわけではないが、自分だけの時間を邪魔される要因を少しでも減らしたい。
そんなわけで私は今日という日を、もっと言うならば、明日、明後日という日を、一人で自由にほんの少しの孤独感も楽しんで、過ごせる用意を万端に整えているわけだ。
「んー…この後、どうするかな…」
スマホのディスプレイを確認すれば、時間は23時を少し過ぎた辺りだ。
チェックアウト時間もゆっくりとっているので、これからもう一軒飲みに行っても朝はのんびりできる。
周辺の飲み屋の情報を飲食店紹介サイトで検索して、好みの店を探してみる。
カラオケ店とホテルの近くに、遅くまで空いているスペインバルを見つけた。
「よぉーし、スペインビールで飲み直しじゃあ!」
普段なら言わないような独り言も、日常から解放された今、口をついて出てくるから不思議だ。
少しふらつく足を心地よく感じながら、荷物を持って伝票を拾って立ち上がり、キィ、と扉を開けて外に出る。
「う、わ。びっくりしたぁ」
「あ?」
出た先に、黒ずくめの男が立っていた。
見下ろされた視線に正面からぶつかる。
男にぶつかりかけて、酔いも手伝ってか思わず声が出たことを瞬時に後悔した。
手には黒い革手袋、黒スーツ、黒いリュック。
明らかに堅気の人間ではない異様な雰囲気に、一瞬にして呑まれる。
「来い」
「え?!」
あっという間に手を引かれ、呆気に取られている間に元いた508号室に舞い戻っていた。
「痛っ…」
「時間がない」
さっきまで座っていたソファに粗雑に押しやられ、尻餅をつく私を見向きもせず、その男は今履いている黒いスーツの下を脱ごうとベルトを外し始める。
「え、ちょっと、や…!」
これはヤバい流れではないかと、抵抗の声をあげるが扉の前に男がいるため逃げ出すことができない。
こういう時、自分なら咄嗟に逃げ出せると信じていたけれど、動けないものなんだなと、よく聞くレイプ事件の被害者のことを思う。
しかし予想に反して飛んできたのは、脱ぎ捨てられたズボンの方だった。
「それを、ソファの向こう側に投げろ」
クイッと顎で示された方向は、部屋の入り口から死角になるソファの影の部分だ。
「は?」
「早くしろ」
いつの間にか鞄から取り出したのであろうグレーの細身のパンツを履いて、既にスーツの上着とシャツを脱ぐのに取り掛かっている男をぽかんと眺める。
次々に衣類が私に向かって飛んでくるが、固まってしまって動けない。
呆けていると、外から騒がしい声が聞こえてきた。
何か怒鳴りあう声が、防音設備がある筈のこの部屋の中まで聞こえるのは只事ではない。
「チィッ…早いな」
頭の中ではガンガンと警鐘が鳴っているのに反応できないでいる私に、苛ついた様子で男が近づいてくる。
上半身は着替えの途中で裸だが当の本人は一切構わないようで、私の手から放った衣類を取り上げると、自ら先ほど指示していた死角へ衣類を投げ込み、すぐさま持っていたリュックもその後に続けて投げ込んだ。
そうしている間にも、廊下の喧騒がどんどん近づいてくる。
「どのみち巻き込まれてたのを助けてやるんだ。悪く思うなよ」
常闇のような瞳でじっと見下ろしてそう言うと、オールバックにしていた髪の毛をガシガシと下に下ろした。
さらりと落ちた髪と同じスピードで、煙草の香りがふわりと落ちてくる。
「大人しくしてろ」
念を押すように耳元でそう言われると、数センチの距離に薄い唇を見た。
「尾形ぁ!!!!!!」
怒鳴り声と共に、もの凄い音で扉が開け放たれて、びくりと身体が揺れる。
触れた男の素肌がいやに冷たい。
目の前の男がちらりと背後に視線をやると、再び大きな音がした。
扉を蹴ったのか、叩いたのか、恐ろしくて確認することができず、私は上に覆い被さる男の喉元だけを見つめる。
「…くっそ!ここじゃねぇ!!!!!あっち探せ!」
すぐに怒鳴り声がして、足音が遠のいて行った。
暫くそのままで耳を澄ませる。
カラオケルームに設置されたモニターから、アーティスト情報が流れる音と、自分の心臓の音だけが煩いくらいに耳に響いている。
「行ったな」
掠れた声がして、はっと我に返ると男が体を起こしたところだった。
先程下ろした前髪をぐっと掻き上げると、最初のオールバックに戻る。
「やれやれ…追手が阿呆で助かったぜ」
男はそう言って立ち上がると、私に手を差し伸べた。
震える手をそっと伸ばして分厚いその手に乗せると、ぐいっと引っ張られる。
震えをなんとか抑えようと手首を握るが、押さえつけようとすればするほど震えは激しくなる一方だ。
怖かった。
死ぬかも、とか、そんな考えが過ぎる暇がないくらい、恐怖で頭が支配された。
「お前、今日、これからどこに行くつもりだった」
リュックの近くに移動して、取り出したシャツに着替えながら男が尋ねる。
「へ…あ…えっと……」
「チィッ」
衝撃から立ち直れずに答えられないままでいると、そんな私に痺れを切らしたのか男が舌打ちをした。
視線が怖くて逸らすと、床にでも落としていたのか、いつの間にか私のスマホが男の手に握られていて驚く。
2度ほどディスプレイをタップした後、私の顔に画面を向けて勝手に顔認証を解除し操作し始める。
「…あぁ、ここか。ここ、不味いぜ…ん?ビジホ?なんだお前、家出でもしてきたのか?」
「あ、ちょっ…と!」
私の検索履歴を見て言っているであろう言葉に慌てて、携帯を奪い返そうと咄嗟に手を伸ばしたらひょいっと取り上げられてしまった。
スマホを追って視線を上に上げると、にやりと意地の悪そうな笑みが目に入る。
「もっと美味い店に連れて行ってやる。一緒に来い。心配はいらん、迎えが来る」
そう言いながら私に携帯を放って渡すと、自分はリュックから取り出した眼鏡とキャップを被った。
その動作を見ながら、意を決して私は抗議の声を上げてみる。
「あの…私、帰りたいのですが…」
「あ?」
じろりと睨め付けられて、言わなきゃ良かったと口を噤んだ。
「立ってみろ」
「は?」
「立て」
命令口調で重々しくそう言われ、何をされるのだろうかと警戒するが、言うことを聞かないと更に機嫌を損ねるかもしれない。
恐怖心から、急いで足に力を入れ、立ちあがろうと手を突っ張る。
「あれ…?おかしい、な。っしょ…」
何度試しても足に力が入らない。
足も手も震えが止まらず、突っ張れない。
まるで自分の体じゃないみたいに。
「…それでどうやって、自力で帰るつもりだ?
だから言っただろうが、心配はいらん、迎えが来ると。何遍も同じことを言わせるな。頭の悪い女だ。
こっちは放置して行ったって良いんだぜ」
“頭の悪い女”と言われても、目の前の男が、なんのつもりで何を言っているのか私には一つも理解ができない。
それでもこれ以上この人を怒らせたら、本当に何をされるか分からないと言う危機感だけは感じ、こくこくとなんとか頷いた。
「それじゃ、行くぞ」
力の入らない体を、半ば抱き抱えられるように立たされる。
肩を抱かれて運ばれていく自分が、カラオケ店の廊下の鏡に映った。
これから一体私はどうなるのだろうか。
華麗に18時退勤を決めた当初の気持ちは跡形もなく吹き飛び、後悔と困惑が重たい鉛のように足に纏わり付いた。