短冊
ある日天の神様は言いました。
『織姫もそろそろ年頃なのに、相手がいないのは可哀想だ。織姫に相応しい婿を探してやろう』
神様は天上からあちこちを探して、彦星という1人の青年を見つけました。
『見目よし、真面目で、働き者。うむ、この青年であれば、織姫を幸せにすることができるじゃろう』
そうして、天の神様は彦星を織姫の結婚相手に選びました。
織姫と彦星は1目で恋に落ち、仲の良い夫婦になったのでしたー。
『織姫と彦星の1日は、私たちにとっての一生と同じくらいなのかもしれませんね』
ある七夕の夜に昔話を思い出して、縁側で夫の頭を膝枕に乗せたまま呟いた。
七夕には珍しく晴れて星が綺麗な夜で、私はゆったりと団扇で夫を煽いでいた。
『わいは、おもしてかことを言うなぁ』
年を経る毎に家の中で良く聞くようになった薩摩訛りで、音之進さんがゆったりと言う。
その声と風鈴の音が重なって、七夕祭りで頂いてきた笹がサラサラと揺れた。
かけていた短冊がくるりと回ったのを見て、自分が書いた願いごとを思い浮かべ、私はそっと笑う。
『幸せな時間は、一瞬で過ぎますでしょ。
織姫と彦星もあまりに幸せすぎて、2人で過ごす長い時間が1日くらいに感じてしまったのかも』
『はは。そんたぁ良かことじゃな。あれは悲しい話じゃっど、わいん話を聞っと、良か話に聞ゆ』
音之進さんがゴロリと仰向けになると視線が絡んで、私は彼の目尻に刻まれた深い皺をなぞった。
私にとっての彦星は音之進さんだった。
彼に出会ったのは、女学生時代。
お転婆だった私は、七夕の日に彼と恋に落ちた。
▽
「気が重たい…」
呟いて帯をなぞって、着物の裾をはらう。
神社の入り口に立って、道行く人々を目で追いながら、私も楽な浴衣で詣でたかったと独りごちた。
夏用といえど、着物は着物である。
最近は袴や浴衣に慣れていたせいもあって、窮屈に感じる。
いや、息苦しいのは着物のせいではないかもしれない。
今から見知らぬ男性に会うのだと思うと、どうも、七夕だというのに良い気分にはなれなかった。
こんなことになったのは、お父様の突然の申し付けからであった。
*
「お見合いですか?」
目を見開いて聞き返す私に、お父様が眉尻を下げた。
「なに、見合いといっても堅苦しいものではなく、一度顔を合わせてみるだけだ」
ひいおじい様がお家存続のために当家に薩摩から婿として迎え入れられたという繋がりがあり、相手方の薩摩藩出身の士族の家の一人息子と、親同士で盛り上がったらしい。
聞けば相手は陸軍少尉らしく、近々中尉に昇進するのだという。
「軍人さんですか…」
「お前が、軍人を好いていないのは知っている。少し顔を合わせるだけでいいんだ。親の顔を立てると思って頼む」
お父様の言うように、粗野で粗暴な軍人という種類の人間があまり好きになれない。
見合いをして結婚を考えるのであれば、どこかの資産家か同じ公家出身の華族の家へと思っていたのだが。
「もう先方とは約束なさったのでしょう。それなら致し方ないことです」
ツン、と口を尖らせてそっぽを向くと、お父様が困ったように笑った。
本来ならこのように親に楯突くような態度は許されないのだろうけれど、早くにお母様を亡くしているせいもあってか、いかんせん、お父様はひとり娘の私に弱かった。
だからこの時点でお父様も本当は、彼、見合い相手である鯉登音之進さんに、私を嫁にくれてやるつもりなどなかっただろう。
*
見合い相手の鯉登音之進さんは、なんでも、北方の方で何か問題を起こした隊にいたらしい。
今はその火消しで忙しくしているらしく、時折中央にも出てくるのだそうだ。
見合いといってもあまり時間が取れないということで、七夕に託けて最寄りの神社の七夕祭りに参拝するというとこになっていた。
時間がなくてこんなふうにしか会えないのなら、見合いなど最初からしなければいいものを。
長々と話をしなければならない会食も御免被りたいが、こんなふうにそそくさと会って、そそくさと別れるのであれば会う必要などないのではないかと思う。
ぼんやりとそんなことを思いながら、茜色に染まっていく空を眺めていると、俄かに神社の境内の方から騒がしい声が聞こえてきた。
「泥棒!誰か、そいつを捕まえておくれ!」
大声で誰かが怒鳴り、こちらに男が駆けてくるのが見えた。
不意に石段に腰掛けて、夕涼みをしているご老人が目に入る。
「御免ください。この杖お借り致します」
そう言って杖を持ち、中段に構えた時には既に男がすぐ側に迫っており、「どけどけ!」と周囲の人間を押し除けながら走ってきた所であった。
「キァァ!」
短い気合いと共に足を踏み出して杖で男の体を突くと、「がはっ!」と咳き込んで地面に転がった。
ひいおじい様が武士だったということもあり、公家出身の華族でありながら我が家では男も女も剣道を仕込まれた。
はしたないから外では絶対にするな、と口うるさく言われていたし、私だっていつでも誰かを叩きのめしたいわけじゃない。
でも、この場合は例外だろう。困っている人がいるのだから。
「グゥっ…このっ…」
まだ向かって来ようとする男に、次は上段で杖を構えた時だった。
「やめておきなさい」
静かな声がして、横から杖の先を掴まれて下される。
声の主を見ると、褐色の肌に特徴的な眉をした陸軍軍人だった。
頬に縦に入った傷が生々しく、妙に威圧感がある。
「おい、お前、まだやるか」
軍人の彼が静かに男にそう声を掛けると、気圧されたのか急に大人しくなった。
それを確認して男の腕を掴むと、
「そこの学生、ちょっとコイツを押さえといてくれないか。
もうすぐ憲兵がくる筈だ。引き渡してくれ」
と、七夕祭りに出向いていた学生数人に声をかけて、テキパキと指示を出し、男を預ける。
それから、くるり、と振り向いて、私に向き直った。
「さぁお嬢さんも、その杖を貸してください。私が返してきます」
「あっ…ありがとうございます」
彼は私から杖を受け取るとさっさと老人に返して、
「では、行きましょうか」
とにこやかに笑って見せた。
これが、音之進さんとの出会いだった。
後に私は彼と結婚することになる。
一目惚れだった。
家に帰ってそう告げた時の、お父様の慌てようといったら。
後から聞いた話では、音之進さんもこの時、恋に落ちたのだそうだ。
「おもしてかおなごが、おっち思うてな」
この時のことを思い出しては、くすくす笑って、何度音之進さんに揶揄われたことか。
音之進さんも昔子供の頃に、同じようにご老人から杖を借りて人に向けたことがあったと、教えてくれたことがある。
最も、音之進さんの場合は「ただ意地を張っただけ」らしいが。
「おなごで、しかも令嬢が、あげんこっをすっなんて」
懐かしそうに目を細めて、ふふ、と笑う音之進さんの、横顔を見るのが大好きだった。
七夕の日に出会った。
私たちにとって、だから、七夕は大事な日になった。
2人で連れ立って歩くことができるうちは、毎年同じ神社の七夕祭りに出向いて、短冊を書いたものだ。
“この幸せが続きますように”
“ずっと一緒にいられますように“
“生まれ変わっても、また出会えますように”
何度星に願っただろう。
そして、彼を看取り、やがて私も鬼籍に入った。
▽
「今年もまた同じ願い事?」
「うん」
短冊を、持ち帰るための小さい笹にくくり付けながら、「飽きないねぇ〜」と言う口さがない友人の言葉を受け流す。
それから、パンパンと賽銭箱の前で手を合わせて、神様に祈った。
「愛しの音之進さんは何処へ〜」
歌うように揶揄う友人の声が、背後から聞こえる。
七夕祭りの夜、決まって夢を見た。
音之進さん、と私が呼ぶ、幸せて満ち足りた日常風景の夢。
その夢に出てくる神社が、何の因果か家の近くにあった。
そのことに気がついてから、毎年七夕祭りに参拝するようにしている。
決まって、“音之進さんに会いたい”と短冊に願って。
今年もまた七夕祭りでもらった笹を手に、一人帰路に着く。
友人はこれから彼氏と祭りに行くのだと、嬉しそうに言って別れて行った。
私も帰って、今日は早めに眠ろう。
なにせ、1年に1度の夢での逢瀬だ。
カナカナと蜩が遠くで鳴いた。
今夜は祭りだから、参拝客達が連れ立って歩いていて賑やかだ。
私が来た道に向かって歩いていく、何人もの人達とすれ違う。
「あの…!!」
不意に背後で声がしたが、それが自分に向かったものだと分からずにそのまま歩いていたら、再び声が掛かった。
「落としましたよ」
肩を叩かれて、それで漸く自分に向けられた呼び声だったと知る。
差し出されたのは短冊だった。
結び方が緩かったのか、笹から落ちてしまったらしい。
「あっ…ありがとうございま、す」
キャップを目深に被った青年に慌てて頭を下げ、短冊を受け取ろうとしてハッとする。
なんだろう、この既視感。
「…わいの言うとおりじゃった。なぁ、名前」
懐かしい薩摩訛り、艶のある気持ちの良い優しい声。
それでもまだ信じられないでいれば、目の前の彼が、そっと帽子を取った。
「過した時間が1日なら、会えん時間は1年どころか100年に感ずっな」
柔らかく双眸を緩め、愛おしそうに笑って、いつかの会話の続きを始める彼を、私の全身が求める。
「音之進さん…!!!」
勢いよく飛び込んでいけば、当たり前のように受け止めてくれる温もりを確かめて、意思とは関係なく触れ出す涙に、あぁ、と思う。
「会おごたった」
抱き込むようにしてぎゅうと掴まえられたその耳元で、染み入るように彼が呟くのを聞きいて、背に回した手に力を込めた。
私たちは何度も出会い直して、会えなかった時間の分だけ、また幸せな1日を始める。
神様に許してもらった限りある時間を、2人で。