穴の底から



遠く頭上のぽっかりとまぁるい空に、白々と月が浮かんでいる。

「ねぇ」
「ん」

短い問いかけに、低くて耳触りの良い声が返ってくる。
身じろぎをすると、向かい合った膝がぶつかった。

「井の中の蛙大海を知らず、って言葉あるじゃない」
「あぁ、あるな」
「後世でその後が色々作られてるの知ってる?」
「へぇ」

月灯りを頼りに相手の顔を盗み見ると、彼はぼんやりと月を見つめている。

井の中の蛙、私も、貴方も。

視線を逸らして、私も夜空を仰ぐ。

「私が気に入ってるのはね、“井の中の蛙 大海を知らねども 花は散りこみ 月は差し込む“」
「…じゃあ、花はお前だな」
「月は基くん?」
「そう、だったらいいな」

“そうだよ”とは言えなくて、薬指に収まった指輪をくるりと回した。

深々と差し込む月灯りの中、私と夫は、蛙よろしく井の中で助けを待っている。





▽






私の話をしよう。

大手メーカーに務めて8年。
先日3年のシドニー勤務を終えて帰国した、所謂バリキャリである。
20代はとにかく国内で死に物狂いで働き、やっと手にした海外支社への栄転。
晴れて日本に舞い戻って、女性管理職としてのキャリアがここから始まる。
仕事に関しては総体的に大変満足している。
努力が報われたと感じるし、確かな自信に繋がっているからだ。

女性のキャリアアップの話が度々話題に出るけれど、所詮は世の中弱肉強食。
結局のところ男も女も関係なく、能力があるか、一線に居続けることができるか、努力し続けることができるか、それだけのことだ。

要するに女の幸せとキャリア、どっちをとるかという話。
二頭追う者は一頭も得ず。
二足の草鞋は無理なのだ。

仕事は順調、キャリアはある、金もある、時間もある。

じゃあこの理論でいくと、プライベートは。

「余裕なし、気力なし、男の陰なし、か。」
「…うるさいなぁ。面倒なんだよ、もう、そういうの」
「30代バツイチ女なんて、欠陥品扱いだよ。合コン行っても絶対言っちゃだめだからね」
「言わないよ、そんなの。ていうか、合コンとか行かないし」

電話口から聞こえる口さがない古い友人の言葉に、グサグサと心臓を刺されながら、ワンカップワインに口をつける。

30代半ばにして既にバツがつく私が、今の所この人生で学んだこと、それは、酒と仕事は裏切らない、これに尽きる。

「てか、あんた、いつまで月島姓名乗ってんの」
「あ〜…それね、まだ色々片付いてないっていうか…」
「は?離婚成立したんじゃないの?」
「いや、コンセンサスはとれてますよ。ただ、タスクが滞ってるというか…」
「えっちょっと待って?じゃあまだ月島姓から抜けてないってこと?」
「えぇ、まぁ、はい」

歯切れ悪くモゴモゴと返した言葉に、「なにやってんの?!」という友人の喝が飛んできて、耳が痛い。



【名前書いて、印押しといたから。あとは貴方の方で宜しく】

それだけ書いて添えた手紙と、記入済みの離婚届(今日日、離婚届もネットでダウンロードできるのだ。例え地球の裏側にいようと、離婚できる)を夫、月島基に威勢よく送り付けたまでは良かった。

終わった気になっていたら、仕事やら何やらのメールに埋もれて、彼からのメールを見落としていたことに気がついたのは、帰国直前のある日のことだった。

《書類に不備があって、窓口で突き返された。
訂正印と直筆の修正じゃないとダメだそうだ。どうする?》

いつまで経っても音沙汰がないし、現状何も変わらないので、離婚って案外そんなものか、なんて思っていた私は、つくづく能天気馬鹿である。

基くんも基くんだ。
メールの返信がないなら、手紙でも送ってくれればいいものを、なにもしないでそのままでいるなんて。
別に私が送った離婚届を訂正しなくたって、新しい離婚届を作ればそれで済んだというのに。
きっと、結婚していようがいまいが変わらないから、面倒ごとを見て見ぬふりをして、これ幸いと私のいない安寧な日々を送っていたに違いない。



「大方、あんたの不備で何かが滞ってるとか、そんなとこでしょ。
月島くんがそんなミスする筈ないもん」

いや、その通りだよ、その通りなんだけれども。

流石長年交流があるだけあって鋭いが、それにしたって些か基くんのこと買いかぶり過ぎではないか。

「あのさぁ、基くんってそんなに完璧じゃないし、器用な人でもないよ」
「求めるレベルが高過ぎなんだって。
優しくて、気が利いて、男らしくて、真面目で、月島くんの一体何が不満だったのか。
私が結婚したいくらいだったわ」
「宇佐美くんがいて、よく言う…」
「それはそれ、これはこれ」
『へぇ?どれがどれだって?』
「ぎゃ!」

不吉に明るい声と、断末魔と共に通話は唐突に途切れてしまった。
宇佐美くんの開いた瞳孔が目に浮かぶ。
友人よ、ご愁傷さま。





"何が不満なんだ"

これ言われるのが1番キツかったなぁ。

アテの貝ひもを咥えながら、1人になった私は、ぼんやりと己の結婚生活について思いを馳せる。

彼によく言われた言葉だ。
確かに、言えば良かったのかもしれない。
でも、言わなければ分かって貰えないこと自体、不満だったのだ。

思えば、どういう気の迷いだったんだろう。
基くんと出会って、気がついたら恋に落ちて、あっという間に結婚してた。

結婚してから後、基くんは私の生活の中に居たし、そして、居なかった。
"居る"という事実が、"居ない"という現実を浮き彫りにさせて、それが堪らなく寂しかったし、苦しかったし、最終的には怒りに変わった。

あー、ムカつく。

腹の中で独り言ちてみる。

なにより腹が立つのは、もう顔も見たくないと思ったのに、ふとした瞬間に思い出してしまうことだ。
笑っているのに眉間に寄る皺や、悪戯で触った髭の手触りとか、親指の付け根の骨を撫でたこととか、そういう、幸せの断片みたいなもののことを。




「さっさっと終わらせて、早く自由になろう」

自分に言い聞かせるように、声に出して宣言してみた。
少しだけ勇気が湧いてくる気がする。

明日、久々に夫に会う。
昔2人で暮らすために、それこそ勢いで購入した家で。

古くて、風通しが良くて涼やかで、みしみしと家鳴りがするあの家のことを思う。

基くんは、私がいなくなってからも、1人であの家にいたのだろうか。

油断するとじわりと滲む罪悪感を散らして、ワンルームの台所に空になったカップワインの容器を投げ込んだ。






*





俺の話をしよう。

勤続8年のしがないサラリーマン。
どこにでもいるような営業職で、身体が丈夫なことだけが取り柄だ。
昇進はした。
だけど、別に能力を買われたわけじゃない。
年功序列の空き枠に、体良く収まったというだけの話。
俺のような中小企業で働くサラリーマンなんてそんなものだ。
社内の確執やら、派閥やら、蹴落とし合いなんて刺激的な話も特になく、俺の日々は淡々と過ぎる。

朝起きて、歯を磨いて、着替えて、出社して、帰って、風呂に入って、飯食って、寝て。
プログラミングされた機械のように、同じ毎日を繰り返す。
波風のない平穏な日常を心安らかに送る。
なんと素晴らしい。
本来俺はそういう人間だった筈だ。



『貴方って本当に面白くないね』

そう俺のことを揶揄った女性が、俺の妻だ。
いや、妻だった、と言うべきか。

『面白くなくて結構』

むっとしてそう返した俺を見て、吹き出した彼女のことを偶に思い出す。

彼女は俺のイレギュラーで、俺の生活に波風を立てまくったがそれは案外心地良くて、溜まった水は動きがないと澱むのだなと、初めて気がついた。
それから、打算も、小さな策略も、全ての狡さを総動員して、俺は彼女を必死で繋ぎ止めた。
その果てが結婚だった。

幸せだったと思う。
少なくとも、俺にとっては。

彼女にとってはこの結婚生活が、俺の澱みの中に閉じ込められることだと知らずにいたわけだが。




「えぇ?!奥さん出ていってたんですか?!」
「あー…まぁ、実は。3年前に」
「3年前?!」

目を剥いて驚く後輩の三島の顔を見て、やっぱりそんな反応になるよな、と思う。

相当間抜けな話だが、暫く顔を合わせていないなと気がついて彼女に連絡を取ったら、《1ヶ月前に私はシドニーに赴任しましたが?話があるから早く帰ってといった日に貴方が帰って来なかったので、言いそびれましたけど》と刺々しいメールの返信があり、続け様に《離婚届をこちらから送りますので、ご確認の上、署名捺印をよろしくお願い致します。また、その後役場に提出して頂きたく存じます。それでは》とまるで、取引打ち切りとなった相手会社の文面のようなメールが届いた。
その数ヶ月後に本当に離婚届が郵送されてきて、そこで初めて、しまった、と思った俺の何と愚鈍なことか。

「なんか…凄い話ですね…。俺、恐くなりました」
「すまん。来月結婚する奴に言うことじゃなかった。まぁ、反面教師にしてくれ」

ことのあらましを聞いてげんなりする様子に苦笑いして、新婚生活を迎えようとしている目の前の初々しい若者に酒を注いだ。
どんよりとしてしまった空気を変えたいのだろう、ぱっと表情を変えて三島が言葉を紡ぐ。

「でも、帰って来てるんですよね。会うんでしょう?」
「あぁ、不動産のこととか色々あるし…書類も揃える必要があるから。前の家で会う」
「そっか、家も買ったって言ってましたもんね」
「便が悪くて、そっちの家にはほぼ帰ってないけどな」

郊外に買った中古の平屋。
あそこには、彼女と過ごした時間の全てが詰まっている。
1人であそこにいると、俺たちの結婚生活が過去のものになってしまいそうで、蓋をするようにそこから出た。

結婚生活が始まって、お互い仕事が忙しくて顔が合わせられなくても、家の中で存在を感じられるだけで満たされた。
彼女が背を向けて寝ているベットに潜り込んで、その良い香りのする髪や頸に顔を埋めることの幸福がどれだけのことだったか。

『髭伸びてるよ』

そう言ってそっと俺の顎を撫でた彼女の指先の愛しさや、その手首を掴んで引き寄せた身体の柔らかさとか、首筋に口付けた時の短い叫びや、他愛ない話をしている時に俺の親指の付け根を摩る、彼女の可笑しな癖のことを想う。

俺は月に1度、手入れをするためにあの家に帰る。
彼女がいない、がらんどうのあの家に戻っては、慌てて蓋をするのだ。
漏れ出てしまわないように、溢れて消えてしまわないように。


「それにしても、よく会ってくれることになりましたね」

三島が、ふと溢した言葉に思考が途切れて、俺も頷く。

「あぁ。優しい人なんだ、彼女は」

自分の言葉を自分で聞きながら、よくもまぁ言えたもんだ、と呆れる。


《書類に不備があって、窓口で突き返された。
訂正印と直筆の修正じゃないとダメだそうだ。どうする?》

面と向かって話さないとなると、スラスラと嘘がつけるものだと自分でも驚く。

窓口になんて持って行っていないし、署名も捺印もしていない。
離婚届は送られてきた封筒に入れて、何かの取り扱い説明書やらが雑多に入れ込まれている引き出しに押し込んだ。

毎日毎日彼女から何かしらの返事があるかもしれないという不安と、期待を繰り返した。
返事はないまま月日が過ぎ、俺も動きがないことを良いことに、この状態を放置した。

2年越しに返ってきたメールは《来週、日本に帰国します。バタついているので、書類は帰国後再送します。どこに送ればいいですか》というもので、《不動産のこともあるから、家で話さないか》と祈るような気持ちで返信した。
《あまり顔を合わせたくないのだけど、仕方ないですね。では、○月○日の日曜日、18時に伺います》と彼女からの返事を読んで、正直胸が躍ったのは言うまでもない。


明日、久々に妻に会う。
かつて2人が帰る場所であったあの家で。

彼女は、思い出すだろうか。
古く、居心地の良いあの家で、2人で過ごした時間のことを。

こんなにも思い出にしがみついているのは、きっと俺だけなのかもしれない。
それはとても辛く、悲しく、寂しいことではあるが、それでも彼女とまた話ができるなら俺は、何でもいいと思うのだ。







▽








丸い空に顔を覗かせた基くんが、呆れたように「大丈夫か」と言うので、「大丈夫ではないです」と苛々しながら返した。
まさか、3年ぶりに再開した夫と面と向かって交わす会話が、こんなことになろうとは。

腹が立っているのが、自分の馬鹿さ加減になのか、基くんの態度になのか、もうよく分からない。







《井戸に落ちました》

こんな馬鹿げたメッセージがあるだろうか。

「ばっ…!!!…!!」

スマホと共に落ちたのは不幸中の幸いだったが、恥を偲んで基くんにメッセージを送ったら、すぐに電話がかかってきた。
罵倒の先が声にならずに固まった基くんの、一瞬聞こえたその声に不覚にも安心してしまう。

「…怪我は?」
「…足、挫いた」

情けないやら、恥ずかしいやら、悔しいやら、色々な感情がぐちゃぐちゃになって、物凄い顔をしているであろう自覚があるが、なんとか絞り出した声で現状を報告した。
電話の向こう側で、ふー、と大きな溜め息が聞こえて、暗澹たる気持ちになりながら、基くんに連絡しなきゃ良かったと、無茶なことを思う。

「待ってろ」

短い沈黙のあと、そう一言だけ言い置いて電話が切れ、それから数分後、丸い空に基くんが現れたのだ。



なぜ、こんなことになっているのか。
話は1時間ほど前に遡る。











*







「綺麗にしてんじゃん」

久しぶりの元我が家は思ったより小綺麗にされていて、それに少しちくりと胸が痛む。
やっぱり基くんはここに住み続けていたんだと思うと、彼を置き去りにして出ていった感が襲ってくる。

いや、私悪くないし、と自分に言い聞かせて、縁側に腰を下ろした。

約束の時間より早めに来て、自分の荷物を整理した。
この家から持ち出したい物は思ったより全然少なくて、段ボール一箱にも満たなかった。
あれもこれも私だけのものはなくて、2人のものばかりで。

どうしてご丁寧にとってあんのよ、どうかしてる。

基くんの神経を疑って、あぁそうか、と思う。

きっとどうでもいいのだろう。
こういうものに囲まれていても、基くんは特に影響を受けることもないのだ。
彼の穏やかな人生に、私は居ても居なくてもきっと関係がなかったのだ、ずっと最初から。

そう思うと少しだけ気持ちが軽くなって、その分少しだけ寂しくなった。

今更こんな気分になるのが馬鹿馬鹿しく感じて、縁側から立ち上がる。

パンプスをつっかけて庭を歩くと、ふと、地面から突き出すようにしてある井戸の土管が目に入った。
近くに寄って中を覗き込み、息を吐いて独り言を漏らす。

「あぁ、やっぱり枯れちゃったか」

そう深くはない井戸の底は、乾いた土が覗いていた。
水分は全くなくて、下に降りる作業をしたのであろう、ロープだけが地上から底に落ちている。

この井戸を気に入ってこの家を購入したのだ。
購入当初は綺麗な水がしっかりと湧いていて、私にはそれが堪らなく魅力的だった。
購入当初地元の不動産の人に「あんまり深く掘ってないから、地下水の水位が下がると枯れちゃうかもしれないよ〜?」と言われたが、それならそれでまた水が出るところまで掘ればいいと、基くんが言ってくれたのだ。

何となく井戸の底を覗き込みながら、薬指の指輪を抜き差しする。
外せばいいのに、ずっとつけていた指輪だ。
私も大概未練がましい。

捨ててしまおうか。

そんな考えがふと過ぎる。

本当は今日、彼につき返すつもりだった。
よくあるドラマみたいに、テーブルに、ことり、と置いて、さようなら、みたいな。




「ごめんくださぁーい!」
「えっ、あっ!う、わ!」

一瞬だった。

突然の呼び声に大きく肩が跳ねて、力の抜けた手から指輪が飛び出していく。
慌てて手伸ばしたが、指輪は井戸の土管の縁にぶつかって底に落ちていった。

どうしよう、と右往左往するが、とりあえず息を潜めて来客をやり過ごす。
ここで出て行っても、この家のことで私が対応できることは何一つない。

玄関先から人の気配が消えてほっと息を吐き、再び井戸の底の指輪と向き合う。

「…よし」

腕時計で約束まで時間がまだあることを確認して、ロープを掴んだ。

そんなに深い穴でもない。
伝って降りて、指輪をとって、ロープで上がってくればいい。

そう思ったのだ。

どうしてそこまでして、指輪を取りにいきたかったのか、自分でもよく分からない。

気がついたら井戸の底に、自分が転がっていた。

ロープを伝って降りたら、自分の体重を支えきれなくて落下したのだ。

尋常じゃなく足が痛くて詰んだことを悟った私は、今日離婚手続きのために会う夫に連絡するしかないことを自覚したのだった。







*







空が遠い。
こんなに空ばかり眺めたことは、今も昔にもなかったかもしれない。

「痛い…」
「我慢してくれ」

井戸の底に救急箱と共に降りてきてくれた基くんが、私の足を応急処置してくれている。
基くんが処置をする手元を見る勇気がないから、空を見上げた。

折れてはいない、と思う、多分。
基くんが何も言ってくれないので、確かなことは分からないけれど。

恥ずかしい。
穴があったら入りたい、いや、もう入っているのだけれども。

「よし、これでいい」
「どうも…ありがとうございます…」
「どういたしまして」

基くんは私の向かいに座ると、井戸の壁に頭をもたせかけた。
その顔を見て、え、と私は戸惑いの声を上げる。

「どうやって上に上がるの」
「いや、流石にお前をおぶってここをよじ登るのは無理だ。助け呼んでるから、来るまでここで待機だな」
「えっ?!その助けはいつになるの」
「分からん。ほら、ここ買った時に対応してくれた不動産の奴、白石、覚えてないか…。
とにかく、連絡はしたがすぐには来れないらしい」

あの緩い人かと思い出して、大丈夫なのか、と不安が込み上げてくる。

「そんな顔するな。ちゃんと来るから」

私の顔を見て、基くんが苦笑する。
懐かしいその表情に目眩がした。

そうだった、この人こんなふうに笑う人だった、と記憶が蘇る。

目を逸らして空を見たら、いつの間にか月が真上にあった。

浮かび上がった沈黙を、基くんの咳払いが遮る。

「…なんで、こんなところに落ちたんだ」

基くんが言って、私に視線を送ってきた。
咎めるわけでもなく、本当にただ疑問に思っているという顔で、少しほっとする。

「…指輪、落としたから…拾おうと思って」
「指輪…」

私の薬指に彼の視線が落ちて、会話が途切れた。
沈黙を誤魔化すようにして、今度は私が口を開く。

「基くんさ」
「なんだ」

勢いで名前を呼ぶと、視線が真正面で絡んで、白々と月光が私たちの間に落ちた。
静かな間の後、私は息を吸う。

「この家にずっと住んでたんでしょ」

そう言って「だったら、この家も土地も貴方にあげるよ」と次の言葉を用意する。
それだけ言えばもう、今日の話し合いは終わりの筈だから。

「いや…住んでない。…住み続けられなかった」

続けようと思っていた言葉のまま、中途半端に開いた口で「え?」と間の抜けた声が出た。

「でも、家の中凄い綺麗だったよ」
「たまに、掃除だけしに来てた」

目を逸らして再び月を見上げた基くんの顔をまじまじと見て、それから自分の薬指に収った指輪に視線を落とす。

「どうして」
「どうしてって、そりゃ…」

はぁ、とため息をついて、くたっと下を向いた基くんを、私は驚愕の心持ちで眺める。

いや待て、あんた、そんな人だったか。

自分の記憶の中の夫との食い違いに、目を見張る。

「…あまりに思い出がありすぎて、耐えられなかった。だからって、放置もできないから管理はしていた」
「…そっか…」

膝に腕を置いて組んだ指先がぎゅっと握り締められて、そのゴツゴツした薬指にも私と同じ指輪がつけられていることに、今漸く気がつく。

そんな人だったのかもしれない。

ふと、先ほど湧いた想いに自答して、いや違うよね、と再び自分に問い直す。

本当は知っていたのだ、彼がそういう人だということを。

私のことが、どうでもいいわけではなかった。
言葉が足りなくて下手くそだったけど、大切にしてもらった瞬間は確かにあった。
彼は誰かを大切に思う心がないから傷つきもしなかったなんて、そんなこときっと、なかった。

私がそう納得したかっただけだ。


「…ありがとうね、大事にしてくれて」
「…あぁ。こちらこそ、今までありがとう」
「うん」


私も基くんも、自分の小さな視点でしかお互いを見れなくて、一緒に居た間はお互いの心にはきっと触れられなかったのだろう。
同じ穴に落ちて、それでやっと少しだけ分かるなんて、皮肉なことだ。

それから私たちは手を繋いで、他愛ない話をして、沢山笑って、少しだけ泣いた。

穴の底から見た月のことを、私のことを花だと言った基くんの声を、私はきっと一生忘れないだろう。







▽





「それで?しっかり話はできたわけ?」
「あぁ、まぁな」

横で彼女を乗せて走り去って行くタクシーに手を振りながら、白石がのんびりと言った。

「2人でお手手繋いで穴の中にいるんだもん、俺びっくりしちゃったよ。君たち離婚するんじゃなかったの〜?」

にやにやと笑って「焼きぼっくりに火がついちゃった?」と言う白石の言葉を無視して家に引き返す。

ポケットに突っ込んだ手を開いたり、閉じたりしながら、握っていた彼女の手のことを思い出してみる。
久しぶりにこの手の中に収めた華奢な手の感覚は、昔とちっとも変わっていなかった。
あのまま、2人でずっと穴の中でも、別に俺は良かったのだ。


彼女がここを去る直前に、離婚届を渡した。
俺の署名と印を押して。

狡いな、と思いながら、それでもやっぱり俺にはそれしかできなかった。

彼女の傍に居たかった。
今までも、これからも、本当はずっと。
だけど、決めるのはきっと俺じゃない。

どうなったとしても、俺はきっとこれからも、色んなものを捨てきれずに持ち続けていくのだろう。
この家も、彼女との思い出も、彼女への想いも。
それはそれで、いいじゃないか。
穴の底から見た月も、彼女の手の温もりも、俺の中に確かにあるのだから。







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