時は失われた
酒、煙草、乾いた砂のような皮膚の、匂い、匂い、匂い。
飲んでいる間中それらが鼻をくすぐって、次々にフラッシュバックする記憶に、頭がおかしくなりそう。
プルースト効果。
知識だけでなく、実体験として、確かにあると思う。
もっとも、その香りによって呼び起こされる記憶も感情も、ろくでもないものばかりだけれど。
「うっ…」
何か、重たい物が乗っかっていて、身動きがとれない。
腹の辺りから服の中に手が入り、さり、と皮膚を撫でられる感覚。
脇腹を通って、肋をなぞられる。
「なに、」
反射的に身体を動かすと、肩を押さえつけられた。
肩の骨が床に当たって、口の端から呻き声が漏れる。
「いっ…」
「細ぇなぁ」
鼻にかかる、暗く湿った甘ったるい声がして、暗闇の中で目を凝らして声の主を見た。
頭がこんなに重く覚醒が遅れるのは、数時間前に摂取したアルコールのせいだけではない筈だ。
「…尾形さん。何か、入れましたか」
「さぁな」
目が慣れて、にやにやと闇の中で笑う、見覚えがあり過ぎる顔を見つめた。
見慣れないこの場所は、どこかのマンションの一室のようだ。
恐らく尾形の部屋だろう。
彼は職場の病院に出入りする製薬会社のMRである。
医者である私は医局の同僚たちと共に、彼らの会社の人間と“ごくプライベートな”食事をしたのである(接待とは言わないのがミソだ)。
2軒目に行ったバーで、酒か、食べ物か、何か薬を混ぜたに違いない。
気をつけてはいたのだが…。
まさかこんな事になるとは、思わなかった。
一方で、このような事態になったということで浮上するひとつの仮説について、私は素早く頭を巡らせる。
尾形とは今日が初対面だが、しかし、私と彼の繋がりはこれだけではないという、そのことについて。
暫く目を合わせたままの沈黙が、再び動き出した手の立てる音に壊される。
「…ははぁ。今回は、良いもん付けてんじゃねぇか」
ボソボソと呟くように、笑いを含んだ声で言うと、下着を捲り上げて直に胸を触られた。
やわやわと形を変える自身の乳房の感覚を何の感慨もなく受け止めて、やっぱりな、と先程の仮説を、確信に変えていく。
「今回は、って。前回も付いてたんだよ、お前に触らせなかっただけで。
ってか、相変わらず気持ち悪い奴だな」
淡々とそう言い放った私の言葉に、胸に充てられた手がぴたりと止まった。
尾形が息を殺しているのが分かる。
「私がこのままヤられる程弱くないってことも、そのお粗末な頭は覚えてるかな?」
言うや否や、床を足で蹴り下半身を上げ、バランスを崩した尾形の手首を掴み、足をロックして回ると、あっという間に、尾形が私の下にくる。
一瞬見下ろした先で目が合って、そのまま思いっきり股間を2発殴りつけた。
「ぐぅっ…!!」
「悪いけど、護身術の記憶も残ってるから」
足元で蹲る尾形を見下ろしながら、乱れた衣服を整える。
「ぐっ…はぁ…うっ…くそっ…思いっきり殴りやがって…」
「お望みならもう1発入れようか。今度は蹴りで」
暫くはまともに動けないであろう彼の横をスタスタと通り過ぎて、転がっている尾形の鞄を開けた。
中身を放り出して物色していく。
財布から免許証を取り出して、目を通した。
年齢は同学年。
記憶の中の尾形と同じ、昏い目をした整った顔が、無表情でこちらを見返している。
「ふぅん。今世では苗字は尾形だけど、名前は百之助じゃないんだ」
尾形姓の方そのまま引き継ぐなんて皮肉だねぇ、と言うと、絶え絶えの息の隙間から、うるせぇ、と返ってくる。
「お前は、今世は女で、前世と同じ、医者で、名前も、同じか」
なんとか、といった様子で壁に凭れて座った尾形が、煙草を寄越せ、と言うので、投げ渡した。
「ねぇ、その頭飾りなの?
さっきも言ったつもりだけど、前世も女だから。男装してたってだけで。
あの時代、女が医者やるなんて無理な話でしょう。
私は、前世も今世も、何も変わんない」
そう言った後、あ、名前の漢字だけ違うわ、と訂正を入れる。
「…はっ…」
私の話を聞いて、そう鼻で笑うと、尾形が煙を吐き出した。
「麗人だなんだと騒がれていたが、本当に女だったとはな」
「あんなに近くに居たのに、気づかなかったお前は相当間抜けだけどね」
今度は私が鼻で笑う。
尾形は何も言わずに、再び煙草を口に咥えた。
「じゃあ私、帰るから。
次、こんな巫山戯た真似したら、殺す」
手にしていた財布を投げ捨てて、自分の鞄を持ち上げる。
「おい、待て」
「待たない」
無駄に凄む尾形の声を無視して玄関に向かって歩き出したら、教えろ、と縋るような声が聞こえた。
「俺以外に、誰か会ったか」
背中越しに視線をやると、じっと見つめてくる猫のような瞳と目が合った。
「残念ながら20年以上生きてきて、お前が最初だよ」
「…そうか」
安堵か嘲笑か、その一言からは何も伺い知れない。
尾形の吐いた煙の香りが漂って、記憶の蓋がまた刺激される。
嗚呼嫌だ。
口の中で呟いて、私は部屋を後にする。
神様は残酷だ。
人は忘れるから正気を保っていられるのに。
医者が神を信じるなど馬鹿げた話だろうが、こんなことがあれば信じたくもなる。
時間を越えてまで、尾形と私の楔は絡まり合って首を絞めるのだろうか。
静かに玄関の扉が閉まった。