遭逢



半年に1回くらい、『もう無理…!』と心の中のもう1人の自分が叫び出すことがある。
そうなると私は居ても立ってもいられなくなって、今すぐにそこから逃げたくなるのだ。

そういう時は大抵、仕事でもプライベートでもうまくいっていない時だと、実は気づいているのだけど。
ストレスが一定の閾値に達すると、どうも逃亡したくなるらしい。

「すいません、体調悪いので、今日半休貰っていいですか」
「休む分には全く構わんが、大丈夫か?」
「ちょっと休めば大丈夫だと思います」

ここ半年、有給を一切取っていないのだ。
調子が悪いのは本当だし、許してほしい。

私と菊田係長のやり取りを聞いて、ちらりと、同期の宇佐美がこちらを見たのが分かった。
そこに他意がないことは分かっているが、少しだけ鳩尾が痛む。

「そんな顔するなら、やめときゃいいのに」

デスクに戻ると宇佐美が、意地悪く笑ってそう呟いた。

うるさい、うるさい、うるさい。

"やめときゃいいのに"の真意は、罪悪感を感じるくらいなら半休なんか取るなよ、ということなのか、負担になるような仕事の仕方すんなよ、ということなのか、はたまたそのどちらもか。
いずれにせよ、そんなことは言われなくても分かっていることだと、苛々しながら音を立ててノートパソコンを閉じた。









「ブルーマウンテンください」
「かしこまりました」

今日は奮発してお高い珈琲を飲んでやろうと、カウンター越しにマスターに声を掛けると、小さく頭を下げて渋い声が返って来た。

会社を早退して、さてどうしようか、とぼんやりしていたら、ここに来ていた。
時折来る古い喫茶店で、フラペチーノとかキャラメルラテとか、そんなものは到底置いていないけれど、珈琲を丁寧に淹れて、上品なカップに入れて出してくれる。
でもそれだけじゃなくて、ここの空気はどうしてだがしっくりと、肌と心に馴染むのだ。

「トニ、おかわり」
「はいよ。ちょいとお待ちを」
「うむ。後でいい」

慣れた様子で珈琲のおかわりを頼んだ初老の男が、新聞を広げた。
豊かな白銀の髪と髭を蓄えた紳士然としたその初老の男性は、たまに来る程度の私でも毎回見かける客で、かなりの常連なのだろう。

「はい、お待たせ。ブルーマウンテン」
「ありがとうございます…あの、これ」
「サービス。なんか今日は声が疲れてるみたいだから」

珈琲と一緒に置かれた小皿に入ったチョコレートを見て、別の客の物ではと心配になって声を掛けると、にやりと笑ったマスターと目が合う。
見透かされたことを少し恥ずかしく思いながらも、小さくお礼を言って頭を下げ、有り難く頂戴した。

常連の客には、"トニ"や"トニさん"と呼ばれているこのマスターは、少し目が悪いらしい。
その分音には敏感なのだと、誰かと話しているのを小耳に挟んだことがあったが、音に敏感というのはこういうことも含むんだな、と思う。

「ヒジカタさん、カップを」
「ん」

初老の男性二人の穏やかなやり取りを聞くともなしに聞きながら、香り立つ珈琲を口に入れて、ほぅっと息を吐いた。
珈琲の香ばしい薫りと深みのある苦味が、身体に染み渡っていく。

そういえば、こうやって何もせずに一息吐いたのはいつぶりだろうか、と思いを馳せる。

最後にここに来たのが3、4ヶ月前。
あの時は彼氏も一緒で、ちょうど仕事が立て込み始めた頃だった。

私より年下の彼は、本当は頻繁に会いたいタイプな筈なのに、私が忙しくなると我慢してそっと身を引いてくれるとても良い子で、私たちは概ね良好な関係を保ってきた。

その年下の彼に、例によって忙しくてあまり構ってあげられなくなってきたので、せめてもの罪滅ぼしにと、お気に入りのこの店に連れてきたのだ。
『このお店に人を連れてきたのは、勇作君が初めてなんだよ』と伝えたら、『それは…とても嬉しいですね』とテーブル席の窓から差す木漏れ日の中で、ふうわり、と花咲くように微笑んだ彼のことを思い出す。

あぁ嫌なことを思い出した、とこめかみを抑えた。

「お客さん」

気がついたら近くにマスターが近寄ってきていて、気遣わしげにこちらを見ていた。
手招きをして顔を寄せてくるので、何かと思い私も顔を寄せると、声を落としてぼそぼそと喋る。

「差し出がましいかもしれないが、あの後、大丈夫だったかずっと気になってたんだが、その…」

好奇の声ではなく、本当に心配してくれている声に、申し訳なさと同時に胸が温かくなった。

「大丈夫です。ご心配おかけしました」

私も声を落として礼を言い微笑んで見せたら、マスターが幾分ほっとしたような表情を浮かべる。
サービスのチョコレートは、このこともあってしてくれたのかもな、とふと思った。

「そうか、良かった。…邪魔しました。ごゆっくり」

そう言って頭を下げ、マスターは私の前から離れ、グラスを磨く作業に戻っていった。
それを見届けて、小さく溜息を吐き零す。

マスターには“大丈夫です”なんて言ったが、実は全く大丈夫なんかではなかった。



あの日、彼と久しぶりにゆったりとした素敵な時間を過ごしていたのに、それは突然やって来た。

『オイ…!お前…!!!』

喫茶店のドアベルが激しい音を立てたかと思うと、いつの間にか横に立っていた男に腕を掴まれていた。
長い前髪が目にかかって、その隙間から昏い瞳が見える。
その瞳の色のような黒いVネックにジーンズという出立ちのその男に、私はちらりとでも面識はない。

動揺と湧き起こる恐怖で声が出せない私の代わりに、勇作君が『何ですか、貴方は?!ナマエさんから手を離せ!』と、その見知らぬ男の手を掴んでくれる。
男はそこで初めて勇作君の存在に気がついたようで、『は?誰だお前』と沸々と怒りが込み上がるような声を発して、私の腕は掴んだままじっと勇作君を睨め付けた。

更に様子が一変したのは、それからだった。
一瞬にして男の顔が真っ青になり、それから、一気に破顔した。

『は、はは…!そういうことかよ…クック…』

その不穏な笑い声と共に、ふわりとその男の中から何か黒い感情が漏れ出たようで、肌が泡だったのをありありと覚えている。

『本当に…邪魔ばかりしやがる…』

ぼそりと呟くと、今度は勇作君の耳元で何かを呟いた。

『え…』
『分かったら、手を離せ』

酷く傷ついた顔をした勇作君が、男に言われるがままに力なく手を下ろした。
私はぎょっとして、勇作君を見る。

『来い』
『え?!ちょっと!』

ぐい、と腕を引っ張られて立ち上がり、半ば抱き抱えられるようにして連れて行かれる最中も、勇作君は下を向いてばかりで一切こちらに目を向けようとしなかった。

『あの…!ほんと、なんなんですか?!』
『思いださねぇのか』

肩を掴まれたまま歩きつつ必死に抵抗して言葉を紡ぐ私に、ぎりぎりと歯噛みするようにして言った後『生まれ変わっても…っただろうが…』『…お前は俺を…るのか…』とボソボソと震えるように、吐く息の間で呟いているその人が本当に何なのか分からなくて恐ろしかった。

恐怖と怒りと、その他のよく分からない感情が入り混じって、なぜされるがままになっているのか、という自問自答にハッとし、半ばヤケクソでじたばたともがいたら、あっさりと手を離された。

その場に尻もちをついた私を、しゃがみ込んだ男の黒々とした瞳が覗き込む。

『俺は、尾形。尾形百之助。もう、忘れんな』

それだけ言い残すと、男はフラフラとその場を離れて行った。

その後慌てて喫茶店に戻ると、もう勇作君は会計を済ませていなくなっており、慌てて連絡を入れたが繋がらず今に至る。

急に訳も分からず強制終了となった恋人への気持ちを埋めるかのように、仕事をどんどん抱え込んでいたら、私の案件は膨れ上がっていき、毎日ギリギリの状態で仕事をすることになった。
そして今日の半休取得である。
そりゃ宇佐美にも馬鹿にされるわ、と今になって冷静になる。
もう、泣きたい、ほんと、泣きたい、とベソをかきそうになっても、優しくなぐさめてくれる年下の恋人はいないのだ。



「マスター…」
「はいよ」
「私もマスターのこと、トニさんって呼んでいいですか?」

2席隣の常連さんが、飲んでいた珈琲をぶはっと吹き出した。

「い、いいけどよ。どうしたんです、急に?」
「いや、仕事以外で…お名前呼べる人いないっていうか、いなくなっちゃったから〜なんて」

動揺して目を瞬かせるマスターに、はは、と笑ってそう言ってみてから、え、ちょっと待って相当やばい女じゃない?と、唐突なお願いをした自分に自分で引く。

「すいません…なんか…」
「いや、別にいいよ。じゃあ、あっちの爺さんは、ヒジカタさんだ」

下を向いた私にトニさんが優しく声を掛けてくれて、手差しで示された方を見ると、先ほど珈琲を吹き出した白銀の紳士がハンカチで口元を拭いながら楽しそうに笑っていた。

「よろしく、お嬢さん」
「あ…よろしくお願いします…」

顔が熱くなるのを止められないまま、見た目にそぐう紳士的な挨拶に私もおずおずと返す。

「まぁ、こんな爺と仲良くするより…あぁ、来た来た」

和やかな雰囲気が広がったところでトニさんが何かを言いかけて、私の向こう側を見て何かに気がついたように呟いた。

カランカラン、とドアベルの音が軽やかに響く。

「いらっしゃい」

トニさんが入口を見て、私もつられて視線を送った。

「よぉ。やっと会えたな、名前」

そこには、数ヶ月前に会った時とは随分雰囲気が変わった尾形百之助が、変わらない昏い目をして笑って片手を上げていた。







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