月に涙
大抵のドラマや漫画では、ひたむきに誰かを想うヒロインの恋は見事成就するか、もしくはしないにしても、新たな恋を見つけるかして、ハッピーエンドになるようになっている。
現実は厳しい。
想いは実らず、秘めた恋は秘めたまま。
チャンスすら与えられない。
いや、物語になるのがそういう話、というだけなのかも。
私はいつも物語の外側の、モブでしかないから。
私は落ちた恋の底から、ただただ進んでいくその、幸せな物語を見ているだけ。
「こんばんわぁ」
「おぅ、じゃじゃ。久しぶりじゃのう」
母ちゃん寄り合いでおらんで、と言いながら栄吉兄ぃが2階から降りてくる。
「その、じゃじゃ、言うのやめてよ。
もう子供じゃないんじゃけ」
「アァ?ええじゃろ、別に」
エェ?と楽しそうに笑いながら、大きな手でくしゃくしゃと頭を撫でられて、私は嬉しいような、泣きたいような、複雑な気持ちになる。
じゃじゃ、というのは栄吉兄ぃがつけたあだ名だ。
じゃじゃ馬だから、という安直な理由で小さい頃からずっとこう呼ばれている。
母親同士が仲が良くて、小さい頃はよく栄吉兄ぃに遊んでもらった。
気の強い私は男の子とよく喧嘩になったけれど、その度にすっ飛んで来ては相手を蹴散らしてくれたものだ。
栄吉兄ぃは私に昔からとても甘い。
そんな栄吉兄ぃとは、徐々に生活が合わず会えないことが多くなっていった。
私自身はお母さんに頼まれて、よく待宮家にお遣いで来ていたけれど、ここ2年ほど、忙しくて家にいなかったのは栄吉兄ぃの方だ。
「これ、お母さんから。
大根いっぱい貰うたけぇ、お裾分けじゃと」
「オォ、ありがとの」
栄吉兄ぃがにっと笑う。
この顔。
少し前までは、いつも何かに耐えてるような苦しい顔してたのに。
こんな風に笑うようになったのは、いつからだろう。
「…ほいじゃあ、うち、帰るね」
「エェ?もう帰るんか?」
「用事は済んだけぇ」
わざと素っ気なく言ってみせると、ちょお待てや、送ってくワ、と急いで上着を取りに行き、踵を潰した靴を履いく栄吉兄ぃを見る。
こういうふうに言えば、きっと、栄吉兄ぃなら送ってくれると知ってて、私はこんな言い方をする。
狡くて、可愛くない。
私は、あの人とは違う。
「うぅ、さぶ」
「わざわざ、よかったのに」
「アホか。1人で帰らすわけにいかんじゃろ」
何気ないその言葉が、私を甘やかす。
私がどんなに嬉しくて、苦しいか、栄吉兄ぃは知らない。
2人分の息が白く伸びるのを、青白い冬の月が照らしている。
「…栄吉兄ぃ、佳奈さんとヨリ戻したんじゃろ?」
私はできる限り、声が震えないように注意しながらそう言って、マフラーに顔を埋めた。
「エェ?なんじゃあ、そりゃ」
すっとぼけている栄吉兄ぃを見て、直接聞くまでは分からない、と抱いていた淡い期待は粉々に砕け散る。
「栄吉兄ぃ、洋南大受けるんじゃろ。
おばちゃんに、ぶち勉強しとるて聞いた。
佳奈さんの影響でなきゃ、栄吉兄ぃがそがぁなことするわけないワ」
一気にそう言ってのけると、栄吉兄ぃは照れくさそうに頬を引っ掻いた。
「お前、鋭いのぅ。
そうじゃ。ヨリ戻ったんじゃ、アイツと。
随分寂しい思いさせたけぇ、大学は一緒に行って少しでも傍におるつもりじゃ」
そう言って、見たことも無いくらいに優しく笑って息を吐いた横顔が、柔らかい月明かりに照らされていて。
あぁ本当に入り込む隙なんて、どこにもないんだな、と思い知らされる。
屈託なくまた笑うようになったり、こんな風に誰かの為に努力しようとするようになった、そんな栄吉兄ぃの傍に、私はいなかった。
こんな気持ちになる前に、もっとずっと前に、ちゃんと気持ち伝えて玉砕しておけば良かった。
こんな、切なくて、苦しくて、痛くて、壊れてしまいそうな気持ちになる前に。
「ハァ?!なんじゃあ、お前急に!」
「なっ…なんでも、ない、」
気がついたら、ぼとぼとと涙が零れていた。
栄吉兄ぃが慌てふためいて、私の顔を袖でごしごしと乱暴に拭う。
映画やドラマなら、素直で可愛いヒロインはこういう展開で、抱きついて想いを伝えたりするのだろうか。
私は狡くて、弱いから。
傷つくのが恐い。
「どうしたんじゃあ?急に寂しいなったか?」
半分図星で半分全く見当違いで、それが悲しくて、止まれ止まれと、唇を噛んでも、涙は止めどなく溢れる。
「心配せんでも、長期休みは帰ってくるけぇ」
わしゃわしゃと両手でかき混ぜられた髪の毛の隙間から、栄吉兄ぃの困ったような顔が見えた。
「ア、ほら。見てみぃ、名前」
ふと上を見上げた栄吉兄ぃにつられて、私も視線を上げたら、涙で滲んだ月明かりが、ぼんやりと揺れていた。
「今日は月が綺麗じゃあ。
こがぁな月、中々見れんぞ」
どうして、こんな時に名前で呼ぶの。
どうして、こんな時にそんなことを言うの。
よう見とけ、と言って月を見上げる栄吉兄ぃの言葉には、何の意味もない。
ただ私に上を向かせるためだけの言葉だけれど、その言葉にさえ私はー。
「…そうじゃねぇ。
手が届かんから、綺麗に見えるんじゃろうか」
きっと伝わらない、この気持ちを言葉にのせて、私は息を吐く。
「ホントに、どうしたんじゃお前、今日は。
なんか悪いモンでも食うたか?」
「…ほんと、栄吉兄ぃは馬鹿じゃね。
受験生のくせに。もっと勉強した方がええよ」
「アァ?!お前、受験生相手にしとる自覚あるんじゃったら、そがいなこと言うなや!」
これでいい。
この、暗い穴の底に差し込む月明かりのような、柔らかくて寂しい思い出だけで、私は大丈夫。
私が私の恋物語をはじめられるようになるまで、今は。