背中
あ、また。
男の子にしては綺麗な項と、浮き出る肩甲骨を見下ろす。
他の部員はまだ帰ってこない。
毎日やっている締めのメニュー、決まったコースを全力で走る、というトレーニングのトップは常に御堂筋くんだ。
早く帰ってくれば帰ってくる程、早く上がれる。
ただし御堂筋くんは皆がゴールするまで待つ。
帰ってくると私を呼んで、前日の自分のタイムと今日のタイムを比べる。
そして他の部員のタイムをチェックする。
その間私はお付きの者のようにして、彼の背後に立っている。
何故ならば、その御堂筋くんが手にしている記録ノートを返してもらわなければ、マネージャーの仕事ができないからだ…と自分に言い聞かせて。
はじまりは、ほんの些細な出来心だった。
御堂筋くんの座る背後に立って何処まで近寄れるか、というチキンゲーム。
考案したのは私で、勿論参加するのも私。
寝ている犬から骨をとるゲームとか、ワニの歯を押し込んでいくゲームとか、あんなの比じゃないくらいにスリルがあって、最早止められなくなっていた。
最初のうちは早々に気づかれてしまい、怒られることもあった(なんやの?と殺されそうな冷たい目で見られるので、物凄く怖い。でもこの恐怖が次のゲームへの意欲を掻き立てる)が、続けているうちに何も言わなくなった。
言っても無駄だと諦められたのかもしれないが、放置されているのを良いことに私はじりじりと御堂筋くんとの距離(物理的な)を詰めていった。
あれ?
違和感に気がついたのは、御堂筋くんの背中との距離が10cmくらいに近づいた時だった。
足に一瞬の熱と微かな余韻。
確かに、御堂筋くんの背中が、私の足に触れた。
びっ…くりした…。
私は慌てて飛び退いて、多分きっとちょっと後ろに仰け反ったときに当たっちゃったんだ、と早口に心の中で言い聞かせた。
きっとそれは事故みたいなものだろうと思った。
そうとしか思えない。
まして、気配に聡い彼が、私が背後に立っていることに気がついていないわけないだろうに。
その後も数回、同じようなことがあり今日に至る。
そして、今日も。
当たってる、っていうか、もう重なってる。
斜め左のすぐ後ろに立つ私の足に、御堂筋くんの背中の一部の熱。
ぴったりとくっついたその部分に、私の全部の血が集中しているよう。
「全体的にタイム落ちとるなァ」
あのザク共、と呟くようにして言っているその言葉は、私に向けられたものなのか、独り言なのか分からない。
けれど。
御堂筋くんが発した言葉の振動が、私に伝わってくる。
一体全体。
熱を感じたまま、私は思う。
一体全体、これはどうしたことか。
見えていないのに、御堂筋くんの、その白い首筋が反って、喉仏が震えて、長い舌が動く様を想像してしまう。
腹筋や背筋を使って、肺へ送られる空気。
軋む骨、脈打つ心臓、筋肉の収縮。
全てがこの一部分を通して、流れ込んでくるようで、なんというか、凄くー。
「キミィ」
呼びかけの後、つぅと、ノートに落ちていた視線が上に上がってくる。
私はそれを、スローモーションを見るように、呆けたまま眺めていた。
「…なんちゅう顔してるん、キモォ」
細められたその冷たい目と、その言葉が現実に引き戻す。
「ご、ご、ごめん!
えっと私、あのあれ、タオル!皆のタオル持ってくるから!
ハイ!ストップウォッチ、お願い!」
首に掛けていたストップウォッチを、御堂筋くんにあたふたと渡して、御堂筋くんから顔を背けて歩き出した。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
消えてしまいたい、と小さな声で呟いて、羞恥を振り切るように私は全力で走り出した。
あれじゃあ、まるで。
.
「キモ…ホンマに、キモい…」
御堂筋は顔をごしごしと擦って、掌の隙間からじっと地面を睨みつける。
なんやのあの顔ォ…。あれやと、まるで…。
潤んだ目、半開きの口許、首まで赤く染まった肌とか、匂い立つような鮮明な記憶に、脳が沸騰しそうになって、御堂筋はぎり、と歯を食いしばる。
"犯したような"
ふとそんな言葉が過って、息が詰まった。
血が一気に沸くような感覚。
さっきまで彼女が触れていた背中が、異様に熱い。
「…チガウ」
そう呟いてみて、同時に、ナニがァ?と、もう1人の自分が問いかけるのを、無視した。
「チィッ…」
思わずした舌打ちは、わらわらと戻ってきた部員の騒がしい声に掻き消されて、紛れて消えた。