クリーニング屋の恋


『あ、えぇっと、俺は葦木場拓斗。君は?』

初めて会った日。

クリーニングに出す白いシャツをカウンターに置いた彼は、なぜか嬉しそうにふわっと笑って、頬をかいた。

名前を聞いたのは私からだったけれど、ただ会員カードを作るためだったのに、その笑顔につられて思わず私も名乗った。

身体は大きいのに控えめに笑うその笑顔が、小さい花が咲きかけたみたいで、素敵だなと思ったのだ。

春も半ば、外は暖かい風が吹いて、空は青くて、こんなにも素敵な休日なのにバイトなんて、と少々不貞腐れていた私にとっては、その人、葦木場さんとの出会いは、神様がくれたちょっとした贈り物のようだった。
ふと感じた春の花の香りみたいに、少しだけ私を嬉しくさせる贈り物。

あれから2年。

贈り物のリボンは解けないまま、ついぼんやりと彼が来るのを待っていたら、いつの間にかモラトリアムは終わってしまった。

小さな街の、小さなクリーニング屋さんの、このカウンターから見る景色とか、好きな人が歩いてくるのを待つ淡い期待とか、全部もう思い出になってしまうのだ。

4月から私はこの場所にいない。






「名前ちゃん」
「葦木場さん」

カラン、と音がして、ほろりとした私が好きな笑顔が扉の間から覗いた。
いらっしゃい、と私が言うと、大きな身体を縮めて店に入ってきて、いつものように葦木場さんは丁寧に衣類をカウンターに置く。

「今日はお仕事お休みですか?」
「うん、有給貰った」

珍しいですね、と会員カードを受け取りながら話しかけると、名前ちゃんの大学、昨日卒業式だったでしょう?と言う葦木場さんの柔らかい声が返ってきた。
随分前にした通っている大学の話を覚えているとは思わなかったけれど、知らないふりをしてクリーニングの受付伝票を引き寄せる。

「すごい、葦木場さん、私の大学覚えててくれたんですか?」
「卒業のお祝い、出来たらいいなと思ってたから」

思わぬ言葉に今度こそ動揺して顔を上げると、まともに視線がぶつかった。

葦木場さんは穏やかに笑っていて、窓から差し込む春の日差しがキラキラと舞っている。
それは夢の中の景色のようで。

泣いてしまいそう。

「…」

慌てて視線を伝票に落として、唇を噛み締めた。

大学時代の綺麗な思い出のままで蓋をしようと思ったから、彼に想いを告げることはしないと決めた。
だからここで泣いてしまってはいけないのだ。
ここで泣いたらきっと台無しになる。

伝票を書いて、カードを受け取って、控えを渡して、忘れずにカードも返して、笑ってお礼を言って、さよならをして、それでお終い。

葦木場さんは大人だから、きっと私の動揺も、稚拙な恋心も気付いているかもしれないけれど、黙って見過ごしてくれる。


「葦木場さん」

すっと息を吸って顔を上げて、精一杯の笑顔を浮かべてみせる。

「ありがとうございます」

私の字で葦木場さんの名前が書いてあるカードと、伝票の控えを手渡すのもこれが最後だろう。

大きくてすらりと伸びたその綺麗な手に、私はそっとそれらを置いた。

葦木場さんはカードと控えを掌に乗せたままじっとしている。


「…葦木場さん?」
「俺、名前ちゃんがこの街で最初に話した人だったんだ」

心配になって声をかけると、葦木場さんがぽつんと呟くように、掌にのったカードを見ながら言った。

「知らない景色ばかりで、なんだか全部がよそよそしくて寂しかった時に名前ちゃんと話して、君がいるこのお店が俺にとっては唯一この街で親しみがもてる場所になったんだよ。
いつの間にか、俺にとって名前ちゃんはとても大切な人になってたんだ。
だから、」

一旦言葉を切って、何かを探すように視線をさ迷わせた後葦木場さんは微笑んで、私を見た。

「だから俺の方こそお礼を言わなきゃ」

ありがとう。

そう言った筈の葦木場さんの声は途中で途切れて、震える吐息が漏れた。

「あ…れ?おかしいな、俺…」

途切れた声の隙間から、雫が静かにカウンターに落ちた。

後から後から零れる涙を、必死で袖で拭いながら葦木場さんは笑う。

「ごめ…俺…最後は笑顔でって…思ってたのに…。
名前ちゃんが、好きだって言ってくれたから…俺、記憶に残るのは、笑顔で…って」
「葦木場さん」

カウンターから身を乗り出して、葦木場さんの頬に触れると、涙でしっとりと濡れた肌が掌に吸い付いた。

気がついたら身体が勝手に動いていて、あんなに遠かった距離がすぐに縮まって、こんなことってあるんだな、と頭の片隅で思う。

「どうして、葦木場さんが泣いちゃうんですか」

涙で潤む葦木場さんの瞳が綺麗で、私は思わず覗き込む。

「だって…俺は…名前ちゃんが」
「私が?」

溜まった涙をそっと指で掬ってみると、葦木場さんは擽ったそうに首を竦めた。
その白い肌が上気していく。

「好き、だから…」

緩りと動いたその唇から、遠慮がちに漏れた本音が耳に響いた。
そっと、葦木場さんの大きな手が、頬に触れた私の手を包む。

「でも君には新しい生活が待っていて…。
だからせめて、名前ちゃんの思い出にだけでもいいから、残れたらって思ったんだ。
それなのに、ごめんね、こんなことになって、困らせた」

眉を下げて、肩を落とす葦木場さんが可愛くて、私は思わず笑ってしまう。

「名前ちゃん?」

驚いたような顔で私を見る葦木場さんが愛しい。

「葦木場さん、実は私もずっと、葦木場さんのことが好きだったんです」
「…へ?」

惚けた顔の葦木場さんに笑いかける。

「気がついてませんでした?」
「えぇ?…えー?!俺…てっきり一方通行だと…」

わぁどうしよう、と葦木場さんは赤い顔で私の手を握ったまま、おたおたと慌てている。

「ふふ…私、葦木場さんのこと全然分かってなかったみたい。
葦木場さんってすっごく可愛い人だったんですね」

くすくすと笑うと、葦木場さんと目が合った。
その瞬間、時間が止まったみたいに、葦木場さんから目が逸らせなくなった。

「名前ちゃん」

蕩けるような笑顔で名前を呼ばれたら、胸が高鳴っていく。

カウンターについた葦木場さんの手が、綺麗なだけじゃなくてちゃんと逞しいこととか、近づいた距離で香る良い匂いとか、睫毛の長さに、息が止まりそう。

「好きだよ」

耳元で囁かれて、離れ際首筋に触れた唇の後が熱い。

「俺の携帯の番号、分かるよね。
今日待ってるから、バイト終わったら電話してね」

葦木場さんは照れ臭そうにそう言って笑うと、手を振って店を出ていった。

王子様が身近にいるとこんな感じなんだろうか。

私はまだ熱い首を抑えて、へなへなとカウンターの下にしゃがみ込んだ。


また新しい春がはじまる。

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