それでは、明日また祭壇の片付けに伺います。

そう言って、喪服の男の子が頭を下げた。
葬儀屋らしい、淡々とした折り目正しさで。

私はにこりと笑って、えぇご苦労さま、と玄関まで見送る。

もう一度私を見た彼と目が合って目礼すると、流れるような動作で玄関の引き戸を開けた。
ふと目を逸らしていた間にカラリと戸の閉まる音がして、同時に静寂が堰き止められる。
私は、ふ、と息をついて、その場を離れた。


母が死んで49日が経った。
明日、彼女は墓に入る。

実際にこの手で、骨を墓に収めた最初の人物は弟だった。
弟はサーフィンが好きで頻繁に遠征に出かけたりなんかしていたが、その遠征先で水難事故に遭って死んだ。
特別に仲の良い姉弟というわけではなかったけれど、いなくなってしまうと思うと悲しくて悲しくて、ざぁざぁと涙が出た。
季節は夏で、暑くて、ジリジリと首の後ろが焼けていく感覚を覚えている。
母はその横で、表情なく、寧ろ穏やかささえ感じるような虚ろな顔で、私の喪服の裾を掴んで佇んでいた。
思えば、母がやたらとぼんやりし始めたのはこの頃からだったように思う。

父は最初から墓の中である。
弟の骨壷は父の骨壷の横に並んで入っている(名前が書かれていなければ、どちらがどちらのものか分からない)。

次に墓に入れたのは、猫のマツモト。
マツモトというスーパーの前に捨てられていたからマツモト。
黒いつやつやの毛並みと短い鳴き声を、素敵ねぇ、といつも褒めていたのに。
彼女は私の不注意でできたベランダの窓の隙間から出ていき、車にはねられて死んでしまった。

そういえば、と思い出す。

マツモトを埋めた時に、横に居てくれた恋人。
私が自分で手放した人。

御堂筋くん。

御堂筋くんは、その夏、私の実家のある田舎(観光客など来ない中途半端な田舎)に休暇で来ていた。
実家は民宿をしており、御堂筋くんはその民宿の泊り客だった。
夏の間に私たちは、今思えばとても不思議だが、どういうわけか恋人になった。
恋人になったといっても、「ボクは特に変わらんしィ、どうでもええ」と言った御堂筋くんの言葉通り、彼の生活は何も変わらず、時折一言二言言葉を交わす程度だったが。

そんな御堂筋くんが珍しく私のために時間を作ったのが、庭にマツモトを埋めた時だった。
御堂筋くんは、マツモトを埋めた後じっと墓の前に立ち尽くす私の横で、手を握るでもなく、抱き締めるでもなく、ただ横にじっと立ち、墓を眺め続けていた。
弟の時と同じように、酷く暑い、不快な日だった。
けれど、触れるか触れないかの距離にいる御堂筋くんに不快感は感じなかった。

きっと私はあの時、とても嬉しかったのだろうし、本当は抱きついて泣いてしまいたいくらいに、彼を求めていたのだろうと思う。
でも、そんなことはしなかった。
御堂筋くんと私の間にはとても薄い透明な膜があって、私はそれを突き破れなかったのだ。
その透明な薄い膜は、どんなに悲しくても、辛くても、寂しくても、地に足をつけて自分で立つように強要する。
それは、離れているよりもずっと、私に孤独を感じさせた。


『私、結婚することにしました。とっても幸せです。
御堂筋くんの益々の活躍お祈りしています。
P.S 家業は畳むことにしました。お客が来ないので。』


御堂筋くんがよく自転車で登っていた山の写真の裏にメッセージを書き、それを封筒に入れて(人生初のエアメールを)送った。
御堂筋くんが帰ってしまってから、3年後のことだった。
(当然、彼からの返事はないわけだけれど。)

ただただ、御堂筋くんに忘れてほしくなかったのだ。
“貴方の見ていた景色がここにあります”と、記憶ではなく形として送りかったのだと思う。
それと共に、彼の記憶にある私が、幸せな人物として残って欲しくて。
そして、“貴方は私を幸せにはできなかったけれど”という、ほんの少しの皮肉も込めて。


勿論、結婚などしていない。
家業を畳んだのは本当で、認知症の母をその家で見る事にしたというだけだ。
私は街(これまた都会でも田舎でもない中途半端な街)に出て仕事を始めた。
何度か転職をしたが、先週まで勤めていたデパートはそこそこ長く続いた(売り場は女性用下着売り場で、意外にもこの仕事が妙にしっくりと馴染んだ)。

母は認知症といっても、テレビの特番に出てくるような激しいタイプではなく穏やかな老人で、覚悟していたほど介護は苦しくなかった。
むしろ母といる時間は穏やかで、特に彼女の白くて細い薄い髪を注意深く梳かしている間は、何もかもを忘れる事ができた。

ー 嫌な同僚や気持ちの悪い上司のこと、入荷予定だった下着のこと、明日の夕食のこと、靴擦れが痛いこと、母の好物、白い骨壷に収まった弟、マツモト、そして、かつての恋人。

丁寧に梳かしていた母の髪はすっかり燃えてしまったので、泡のように漂う記憶と共に私は眠りに落ちる。


****


墓地は山の中腹にある。
早朝の道を喪服姿で骨壷を持って歩くと、ヒールがコツコツと響き、骨壷の中の骨が時折かしゃんかしゃんと乾いた音を立てた。

誰かに見られでもしたらホラーね。

そんなことを思って1人で笑った。

緩やかな山の坂道を数十分歩くと、墓地の入口に辿り着く。
入口で桶を取り、水を汲んで父が死ぬ前に建てたのだという墓に向かった。

一通りの掃除を済ませ、湯呑みの水を換え、造花を新しいものに変える。
それから重たい納骨室の扉を開けた。

白い陶器の入れ物が、2つ並んでいる。
弟の骨壷をそっと横にずらし、父の横に母をそっと押し込める。

窮屈そう。

行儀よく並ぶそれらを眺めて、ぼんやりとそんなことを思った。
最後に手を合わせて、納骨室の扉を閉める。
ゴトリと重たい音を最後に立てて、隙間がぴたりと閉じた。

「…良かったねぇ、お母さん」

家族が揃って墓に収まっている。

夫と息子と一緒に墓に入りたがった母を、無事に墓に収めたのだ。
私の役目はこれで終わりだろう。
数年後、墓じまいをして終わりにするつもりだ。

何となくその場にしゃがみ込むと、ストッキング越しに自分の肌の匂いがした。

弟やマツモトを墓に入れた時と同じように酷く暑い。
確か、父も夏に死んだのではなかったか。

蝉の声がわんわんと響いて、肌と洗濯洗剤と夏の濃い草の匂いが近くからして、先程自分が焚いた線香の香りが漂う。

あ、まずい。

ふわりと重力がなくなるような、身に覚えのある感覚が襲う。
ゆっくりと目を瞑って、回る身体の感覚を戻そうと試みる。

気を抜くと目眩がするようになったのは、随分前からだ。
思い出したくないことを、思い出さないようにしていたから持ち堪えていたようなもので。

もう扉は閉めたのに。

関係があるのか、ないのか、よく分からない思考が頭を過って、同時に、もういいか、と自分を許してしまいたい気持ちがふっと浮かんだ。

だって、いいじゃないか。
一体、誰が困るというのだ。
私はもう独りなのだから。



「軽ゥ」

耳元で、ふわふわとした感覚を貫くようなヒヤリとした声がして、背中と肩が何かにぶつかった。
反射的に目を開けると、視界に長い手足が見えて、自分が後ろから身体ごと支えられていることを、数秒かかって理解する。

これは幻聴、幻覚に違いない。

まだ混乱した状態の頭で、この状況を納得させようと自分に言い聞かせる。

「…でェ?どこのォ誰が、幸せなん?」

忘れかけていた声が、耳にするりと入り込んで、身体中に広がっていく。
それと同時に、一気に現実が戻ってきた。

現実だけじゃない。
心も、時間も、閉じ込めていた寂しさも、苦しさも、悲しみも、怒りも、全てが現実味を帯びていっぺんに戻ってくる。
まるで、何か大事なパーツがはまって、急に動き出した機械のように。

「やだ、こんな、」

抵抗するように出た言葉が、虚しく響いた。
愛しさとか恋しさとか、そんな簡単で甘美な感情はもうとっくに錆び付いてしまったくせに、不安が、悲しさが、鮮度を持ってひたひたと心を満たしいていく。

「こんなって、何やろ。
独りで母親の骨壷持って歩いたり、墓の前に蹲ることォ?」

そうよ。
わかってるのに、どうして、酷い。
こんなところ、こんな姿、貴方にだけは見られたくなかった。

言葉は確かに内側にあるのに、表に出てはこない。
代わりに地面についた手で、土を握る。

痛い。

目線を下に下ろすと、いつの間にか膝を擦りむいていて、血が滲んでいる。



「…謝ったりなんかせんよ」

硬い沈黙を遮ったのは、御堂筋くんだった。

ぼそりと呟くようにそう言うと、腕が前に回されて肩に重みが乗った。
ぎゅうっと抱き寄せられた手が震えている。

「キミがボクを突き放したんや。なのになんで、ちゃんと幸せになってへんの。
幸せになるために、キミはボクを突き放したんちゃうの」

肩に置かれた頭が力なく項垂れている。
私は信じられない気持ちでその重みを受け取りながら、恐る恐るその腕に触れてみる。
びくり、と御堂筋くんが身体を硬くするのがわかった。

「…御堂筋くん」
「…何?」
「振り向いても、ちゃんといる?」

御堂筋くんは私の間の抜けた質問に、ハァ?と呆れたような、非難するような声を出した。

本当にオバケなんじゃないかと思ったのだ。
御堂筋くんと私の、悲しみや苦しみを吸って育ったオバケ。

そうでなければ、こんなに弱々しくて悲しい御堂筋くんを、私は知らない。

「まさか、キミィ…ホンマにオバケやと思うてるんやないよねェ?」

いつまでも振り向かない私に痺れをきらして、不機嫌そうに御堂筋くんが言った。
見事に図星をつかれて、私は押し黙る。

「…こっち見て。ちゃんとおるから」

懇願するようなその声に堪らなくなって、その腕の中で振り向いた。

「御堂筋くん」
「うん。ボクや」

ほんの至近距離で視線が絡め取られて、そのまま腕を引っ張られ、正面で抱きとめられる。

私はそれでもやっぱり、信じられない気持ちで、御堂筋くんの身体を感じていた。
私たちの間にあったあの膜は、一体どこにいってしまったのだろう。

「…嫌なんやったら、今度こそ、ちゃァんと突き放して、ボクから逃げてや」
「…逃げないよ」

そうだ、逃げるはずなんてない。

本当は、と御堂筋くんに抱かれながら、私は思う。

触れられなかったのではなくて、触れたらもう、御堂筋くん無しでは生きていけなくなることが怖くて、触れなかったのかもしれない。

膜は私と彼を隔てるものではなくて、私と彼を守るものだったのかも。

もう私はきっと、この人から離れることができない。
こんなに深く触れてしまったこの人から。
そうなることは、最初から分かっていた。


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