弁当から繋がる縁もある
「美味しいでしょ」
いつもの日常の繰り返しに、ほんの少しの波紋。
良くない予兆だ。
御堂筋翔は、カウンターに肘をついて人懐こく笑う女の顔をじっと見つめた。
「うちの弁当、添加物一切入ってないから。調味料から具材まで全部、地元のおっちゃん、おばちゃんがこだわって手作りしてる物使ってんの」
不躾であろう視線にたじろぎもせずに、本当はお弁当箱もお箸もどうにかしたいんだけどね、と笑って話を続ける彼女に、御堂筋は不気味ささえ感じ始める。
ただの風景だと思っていたものが、いきなり話しかけてきたのだ。
御堂筋からしたら、絵の中の人物が話しかけてきたのに等しい。
関わらんとこ。
無視を決め込んで、カウンターの上に置かれた、弁当の入ったビニール袋を取った。
弁当さえ手に入れてここから立ち去れば、この女と関わらなくて済む、というのが御堂筋の考えだったのだ。
「待った」
その手を、伸びてきた細い指に掴まれて、そう甘くはいかないことを知る。
こういう人間が、虫唾が走るほど嫌いだ。
人のことなどお構い無しに、土足で踏み荒らしてくる。
ただでさえ馴染みの弁当屋を失おうとしているのに、これ以上どうして煩わされなければならないのか。
込み上げる嫌悪感に、眉を顰めた。
「急いでるんで」
「ごめん、こんなことしたら、きっともうキミ来なくなること分かっててやってる。
でも、こうでもしないと話できないかなって…。
お願い少しでいいの、聞いてくれない?」
すぐ済むから、と言って手に込められた力に、これは話が終わるまで離さないつもりだと確信する。
お願いされとる気ィが一つもせんけどな、と思いながら舌打ちを打った。
「はよ言うてください」
これが聞くに耐えない下らない話だったら、思いっきり手を振り払って罵詈雑言を浴びせてやろうと、頭の中で相手を完膚なきまでに叩きのめすための言葉を並べ立てて準備をする。
そんな御堂筋の内心など気づきもせず、女の表情がパッと明るくなった。
「良かった、じゃあ手短に。
うちでバイトしませんか?」
「…は?」
予想範囲の圏外の向こう側の言葉に、御堂筋の思考が止まる。
用意していた悪口のオンパレードが、一つも出てこない。
「店、今私一人で回してて、物凄く大変なの。だから、スカウト」
にこりと笑って、もしもOKなら15時以降で店に電話して、と袋の中に番号の書いたメモを入れる女の挙動に、ハッと我に返った。
「なんで、ボクなん…ですか」
辛うじて付け足した敬語が白々しい。
しかし、そういう所には全く頓着しないらしい。
彼女は相変わらず、にこにこと笑っている。
「キミ、凄く毎日楽しくなさそうだけど、お弁当選ぶときは真剣だし、うちの弁当は好きなんだろうなって。
どうせバイトしてもらうなら、うちの弁当好きな人がいいなと思って」
毎日大学へ通う道すがら、通り過ぎる時に表情を見られていたのかと思うと、本来不愉快極まりないことであるし、相当失礼なことを言われている自覚はあるが、毒気を抜かれて言い返す気が失せた。
事実、御堂筋にとってここの弁当が、生活の細やかな楽しみになっていたことは本当で、だからこそ急に話しかけられたことに腹が立ったのである。
それに御堂筋は、重大な問題を一つ抱えていた。
「他にバイト先があるなら無理にとは言わないけどさ。
あ、うちでバイトしてくれるなら、お弁当割引してあげるよ。賄いも出せるときは出してあげる」
「…勤務時間、給料聞いて、考えさせてください」
彼が抱える重大な問題、それは、金銭面である。
受ける面接全てに落ちまくっていた。
まず自転車関係、次に本屋、ダメもとで受けた飲食関係も勿論全滅。
働き口はいくらでもあるとたかを括っていたが、練習時間も確保しようとすると中々条件に合うバイト先がなく、徐々に焦りを感じ始めていた。
学費や住居費は奨学金でなんとか賄えるが、生活費や自転車にかかる経費は自分で捻出しなければならない。
親類には絶対に迷惑をかけたくない。
今はデリバリーのバイトで収入を得ているが、怪我の心配もある。
できることなら、安全且つ、時間の都合をつけやすいバイトをしたかった。
そういった諸々の事情を抱えた御堂筋の気持ちが、ぐらりと揺れたのは自然である。
一方で御堂筋の言葉が余程予想外だったのか、彼女は目を大きく見開いて慌てた声を出した。
「ほんと?!
えぇっと、勤務時間は基本朝であとはキミが入れる時に調整って感じかな。
お給料はそんなに高くは出せないけど…最低賃金に少し上乗せはできると思う」
「分かりました」
ほなまた、と言って、自転車に跨る御堂筋に、彼女が手を振る。
「待ってるね」
微笑むその顔をチラリと見て、マスクの中でカチンと歯を鳴らして店を後にした。
自分で言うのもなんだが、到底人と関わることに向かない人種であることは見てわかるだろうに、非合理的な理由でバイトを選ぶ当たり頭の緩い女なのだろうと、御堂筋は自転車を漕ぎながら思う。
それはそれで都合が良い、自分としては収入源さえあれば良いのだから、と結論をまとめた。
この店を通して、御堂筋は様々な人と出会うことになる。
きっとその出会いは、彼のことを少しずつ変えていくだろう。
そしてこれを機に、二人の長きに亘る付かず離れずの不思議な関係が始まるのだが、それはまた別のお話。