夕暮れに溶けた(綱海)
「よお名字、何してんだこんなとこで」
「わっ!」
いきなり頭上から降りかかった声に驚いて大きい声を出してしまった。ドキドキする心臓を抑えながら頭を上げると桃色の髪が見えた。綱海だ。
「な…何もしてない。ほんとに!」
彼が疑問に思うのも無理はない。"こんなとこ"――学校の下駄箱で、自分の靴がしまわれてる扉の前でしゃがみ込んでる他クラスの女子を見たら誰だってそう思うだろう。でも誓って私は何もしてないのだ。……正しくは"まだ"何もしてない。
「ごめん、邪魔だよね。今どくから…」
「おー。それはいいけどよ、何してたんだ?俺の靴箱の前で」
「いや、それは」
言えるわけない!
他人の下駄箱にわざわざ訪れる理由なんて、大体一つしかない。手紙であれプレゼントであれ、本人に分からないタイミングで物を入れるためだろう。そして今日はバレンタインデーで、私のカバンの中には綱海のために作ったチョコレートがある。
つまり私は、好きな人にチョコを用意したはいいものの、直接渡す勇気がないままうじうじと放課後を迎えてしまった意気地なし女なのであった。
「まあいいけどよ。もう下校時間近いしお前も早く帰れよ!」
しどろもどろになる私を大して疑うわけでもなく、綱海は明るく話し続けた。日焼けした手が小さな扉を開ける。その動作から少し先の未来が予想できてしまって、私は思わず緊張した声を上げる。
「あっ」
「お?」
何だコレ、と言いながら綱海が小さい袋を手に取る。レースの絵柄が印刷された透明な袋に、ピンクのリボンが巻いてある。綱海を好いている誰かが入れた、チョコレートだ。私が用意したものよりもずっとかわいいラッピングで、中身はとっても美味しそうなブラウニーだった。包装越しでもナッツや粉糖がかけられたそれを見るに、かなり丁寧に作られたものであろうことは想像に難くない。
「よ、良かったね」
「何がだ?」
「何がって、それバレンタインデーのチョコだよ。誰かが入れたんだよ、綱海のために」
さっきよりも少し汗ばんだ手でカバンの持ち手を握りながら答える。先ほど私が綱海の下駄箱の前で、何もできずにしゃがんでいた理由がまさにそれであった。
――まさか自分より先に入れてる子がいるなんて思わなかった。
綱海はいいやつだ。いつも前向きで、明るくて、誰にだって寛容で優しいし、他人のために怒れる人だ。
そりゃあモテるだろう、だろうけど。綱海と友人になってもう2年程度の付き合いにもなるが、今までこの人が異性に言い寄られてるシーンなんて見たことがなかったのだ。いざ靴箱の扉を開いてそれを見つけたときにはかなりの衝撃を受けたが、よく考えれば当たり前だ。あんな人気者がチョコの1つや2つも貰わないほうがおかしい。綱海の良さを知ってるのは私だけだなんて、無意識に思っていたのだろうか。自分が恥ずかしい。私は自分のカバンを隠すように持ち手を握り込む。
「バレンタイン?ああ…そういえばクラスの奴らにもなんか貰ったな」
そんな一言にまた心が痛くなった。何を傷ついてるんだ、私。
「そっか、さすが綱海!モテモテだね?」
「モテモテ〜?アイツらには散々義理だとかお返しは3倍返しでーだとか言われたぜ」
綱海は笑いながら答える。私は自然とその白い歯に目線を向けてしまう。なんだか光ってるみたいに眩しい。私は努めて明るい声を出す。「義理って言いながら本命渡す子もいるんだよ」
眉をひそめて、何だそれ、どっちだよ!とか言ってる綱海は全然乙女心がわかってない。
流れで一緒に帰ることになった綱海と海沿いの道を並んで歩く。夕焼けを浴びてオレンジ色に染まった綱海の横顔に、小さく影ができている。隣を歩けることにひそかに喜びを感じながら、彫りの深い造形を眺める。
「大体よお、こういうのは物越しじゃなくて、ハッキリ言われねえとわかんねえだろ?好きとか嫌いとかただでさえよくわかんねえのに」
「ハッキリって、それができたら苦労しないよ!断られたらどうしようとか、みんなそう思ってるから回りくどい方法とるんだよ」
「そんなもんかぁ?」
そんなもんだ!当事者としてウンウンと首を振っておく。まだ怪訝な顔をする綱海を見て、顔も知らぬ彼女たちがなんだか浮かばれなくなった私はさらに続ける。
「女子にとってバレンタインは一大イベントだよ。でもだからといって、想いが必ず実るわけじゃないでしょ。イベントの後押しで勇気はもらえるけど、やっぱり怖いものは怖いよ。……だって今日私も用意したけど、結局渡せなかったし」
「名字も?渡せなかったって……誰にだ?」
「いや、それは言えないけど…」
「おい、俺にも言えない相手なのかよ!クソ、誰だ…」
私も一応恋する乙女なもので、今横にいるあなたです、と返事するわけにはいかなかった。綱海は頭を捻って該当しそうな人を考えてるみたいだ。私に色恋沙汰の話があるとは思わなかったのか、少し動揺しているようにも見える。どこまで女の子として見られてなかったんだ…!
「……音村か?」
「音村!?アハハ、いやいやないない!」
確かに音村とは男子の中ではよく話すけど、ただの後輩だ。そういえばあいつ、今日いっぱいチョコもらってたな。イケメンだものね。相当嬉しかったのか、リズムを刻む指がどことなく弾んでいたような気がする。普段の態度は大人びているように見えるけど、音村もちゃんと中学生男子なんだなあ。
「綱海には分かんないと思うよ。そもそも私、仲いい男子ってそんなにいないし」
「俺は?」
「へ?」
心臓が大きく跳ねた。まさかあげたい相手が綱海というのがバレたのか、そう思って顔色をうかがったが、何やら少しムッとした表情をしている…ように感じた。
「俺とは仲良くないのかよ?」
「ああ、そっち……!いやっ、ええと…綱海は…。
男子の中では、い、一番仲いいかなって、私は勝手に思ってるけど」
「ふーん」
一番、とか言っちゃった。ちょっとドキドキしながら答えたのに、綱海はなんだか興味なさそうな返事をした。私は今の言葉を言うのにも結構覚悟が必要だったのに。綱海は道の右手にある海の方を見て何か考えているようだった。会話が止まってしまった。なんだか気まずいなと思って初めて、握りしめたカバンの持ち手が手汗で少し湿っていることに気付いた。
「なあ、名字」
「なに?」
「そいつに渡せなかったチョコって、今持ってんのか」
「あるけど…」
立ち止まった綱海が真剣な顔でこっちを見る。思えばこんなまじめな表情の彼は初めて見たかもしれない。いつも浮かべている朗らかな笑顔が消えていて、大きな目と形のいい眉はキリッと吊り上がっていて、正直男前だと思った。
「それ、俺にくれ」
「えっ、だ、だめ!」
「なんでだよ!そいつに渡せなかったんなら俺にあてもいいじゃねーか」
「だって、こんなの綱海にあげれない。恥ずかしいよ」
肝心のチョコはあまり上手く作れなかったし。ラッピングも皆みたいに可愛くできなかったし。自分の不器用さがとにかく恨めしい。今日学校に来て周りの子とのお菓子作りスキルの差をまざまざと感じた。なんで皆、あんなにおいしそうなチョコを作れるの!正直他人に見られるのも恥ずかしくて、学校に持ってきたのを後悔したレベルだ。綱海の靴箱に入れるのもギリギリまで悩んだけど、結果的に入れなくてよかったと思っていたのだ。好きな人にこんな不出来なものは渡せない。
「恥ずかしいって、そいつに渡すのはいいのかよ!」
「だからっ、恥ずかしいから渡せなかったの!」
「じゃあそのまま捨てるのか?勿体ねえじゃねえか!」
「捨てっ…!捨てないもん!家で私が食べる!」
「なんだよ、後でお前が食べるなら俺も今食べてていいだろ?!」
「だめったらだめ!綱海だけはダメ!」
なんで綱海がこんなにこだわるのか分からないけど、私も必死だ。これは絶対に渡さない!
「なんで俺だけダメなんだよ!」
「なんでって…、だって!綱海にはもっと、一番上手く作れたのをあげたいのっ!」
「え?」
「あ」
やってしまった。これじゃ初めから綱海にあげる用だったって言っているようなものじゃないか。どうしよう、最悪だ。自分でも血の気が引いていくのが分かる。
「いや、だから、違くて…!その…」
必死に弁明しようとするがろくな言葉が出てこない。もう終わりだ。穴があったら入りたい、いや今すぐ消えてしまいたい。
「名字」
それまで無言だった綱海が口を開いた。私は顔を上げることができなかった。
「俺はお前の作ったチョコが欲しい」
「……」
「だめか?」
「……」
私は顔を下に向けたまま、カバンから決して綺麗ではない袋を取り出して綱海の方に差し出した。今更抵抗しても無駄だという諦めに似た気持ちがあった。それに散々渋ったとはいえ、元々綱海のために作って持ってきたものだったので求められて断る理由もなかった。ありがとな、と言って受け取った綱海がバリバリと豪快に袋を開ける音が聞こえた。そのまま口に放り込んで咀嚼する音が続く。
「おっ、美味い!」
「…」
「名字は料理上手いんだな!」
わたしの好きな人が、決して美味しくはないだろうそれを食べて褒めてくれている。ただのお世辞だろう。綱海はいいやつだから、相手が気にしてる事をとやかく言うやつじゃない。嬉しいやら気を使わせて辛いやらで、いまだに顔が見れない。
「……もういいよ、綱海。無理に褒めなくて」
「無理にじゃない。ちゃんと美味い!それに俺が言いたいのはそういうことじゃねえ!」
綱海はすう、と息を吸い込んで「名字!」と私を呼んだ。さっきよりも大きな声に、私はつい顔を上げてしまった。綱海の後ろで、夕日を反射した海がキラキラ光っていた。
「うまく言えるか分かんねーけどよ。
……俺、さっき名字がチョコの話ししてる時、お前が他のやつにチョコあげんのはぜってえ嫌だって思った。名字が俺以外にチョコ作ったんだって考えたら、なんつーかこう、胸んとこがモヤモヤしたんだよ!だから渡せなかった物でも俺に食ってやるって思って、わりい…。
…ありがとな。お前のコレ、食べれて嬉しかった」
こっちをまっすぐ見つめた綱海は照れたように目を細めた。私の好きな笑顔だった。私は綱海の放った言葉をすぐに理解することができなくて、ゆっくりと頭の中で噛み砕いた。
――他のやつにあげるのは絶対嫌。
あれ、それってつまり。
わたし、浮かれてもいいやつ?
顔に熱が集中するのを感じる。カバンの紐は握りすぎてくたくたになっていた。
「今気づいたんだけどよ」
「多分俺、お前のこと好きなんだな」
にっかりと笑って放たれた綱海の爆弾みたいな発言に、熱の上がった私はえ、とかう、とかのたまうだけで、しばらくまともに話すことができなかった。
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