帰りたくない(口だけ)
帰りたい。帰りたい帰りたい。二度と戻れないあの場所にもう一度私は帰りたい。揺りかごの中で大人しくしていたはずの帰巣本能は、ある日突然暴れだした。
「帰りたいよソロモン……帰りたい……」
寝起きの眠気まなこのまま、ソロモンの服の裾を引っ張った。顔を洗っていたソロモンは水を掬い、私の目の前に差し出してくる。刺青と指輪がついた両手に顔を埋めると、また水を掬って寄越してくる。布で水気も拭き取られ、されるがままだ。
「目が覚めたか?おはよう名前」
「ううん……帰りたいの……」
「まだ寝ぼけてるのか?珍しいな」
「うーん……」
寝ぼけているわけではない……と言い切れない。自分で自分をうまくコントロール出来ないのが怖くてまた黒い袖を掴んだ。
「海に帰りたいけど……海は……」
「もしかして、昔の夢を見たのか?名前はメギド体だと魚みたいな姿だったよな」
「おや、どうしたんだいソロモン」
「おはようフォルネウス」
金属質な足音がこちらに近づいてくる。ますます私は帰りたくなった。
「名前、なんか夢見が悪かったみたいでさ。いつもの調子じゃないんだよ」
「だって帰りたいんだソロモン」
「こんな感じ」
「なるほど」
帰りたいから仕方ない。故郷のことも昔の自分のこともおぼろげな私がなんでこんな気持ちになるのだろう。帰ったとしてもそれが初めて見る景色なのかなんて判別もつかないくせに。波の音が頭に残って、ずっと遠くから聞こえているような気がする。誰かに呼ばれているような気がする。昔の仲間……いや、それとも。
「海に帰りたかったんだ。でもそこは私が帰りたい場所じゃないみたいで悲しくなって……夢で見たあの海はなんだったんだろう。私の記憶なのか、それとも私がずっと見たかった夢の光景だったのだろうか」
言葉にできないまま気持ちだけがどんどん先走っていく。胸がどきどきして口が乾いてくる。ソロモン、私はどこに帰りたいんだろう。
「ソロモンもこんな気持ちになる?ヴィータはみんなこんなに帰りたくなるのか」
「母親の元に帰りたい、とか」
「母親?」
ソロモンに尋ねていたはずがフォルネウスに答えられてしまった。彼はどうも冷静で冷たい印象があるから、今の私のこの苦しみを果たして理解してくれているのか心配がある。
「そういう気持ちを持つヴィータはいるよね、ソロモン」
「うーん、確かに親が恋しくなるってのはあるよな」
「母親......」
母親。私というヴィータを産み落としたヴィータ。正確には生まれるはずだったヴィータに私の魂が乱入して溶け合って排出されただけで、私の真の母親とは言えないが。
「私たちメギドの母親って、誰なんだろうか……」
「……」
ソロモンも私も首を傾げ、フォルネウスの方を見つめる。
「僕たちは生まれるというより発生するに近いからね。ヴィータの生まれ方とは違う……そもそもメギドとしてのあり方から別のものだからね」
「難しいなー」
「名前はきっと、その辺りのヴィータとしての感性がまだ未発達なんだろう。だからメギドの頃の感覚と混じって難しくなってしまう」
「追放メギドたちはよくこんなの耐えられるな」
「記憶を取り戻すタイミングとか、それぞれだからね。キミは特にヴィータとしての感情に繊細なようだ」
納得まではいかないが、フォルネウスの話を聞いて少し落ち着いた。きつく握っていた手を恐る恐る緩める。
「きっと帰りたかったのはわかった。でも、こんな気持ちになったのは初めてだ……。そもそも海の夢を見るなんて」
「何か変化は無かったかい?」
「変化……?」
「うーん、最近は比較的落ち着いてたと思うんだけど……あ、サンゴ!」
「サンゴ?」
ソロモンが思い出したように手を叩いた。サンゴ、サンゴ……?
「昨日なんだっけ、あの〜エキゾチックマリンあげた!」
「ああ、エキゾチックマリン確かにもらったな」
「それぐらいかなぁ……」
「エキゾチックマリン、わかったよ親友。それだ」
フォルネウスは目を輝かせてソロモンの手をとった。なんとなく私も指輪がついてる方の手を握った。変な絵面だ。ソロモンはちょっとお?!とよく見たリアクションをとって少し照れているようだが、フォルネウスはそんな彼を見て嬉しそうに微笑むだけだった。
「その珊瑚をね、枕元に置いて寝ると海の夢を見ることが出来るという言い伝えがあるんだ」
「へ〜なんと言うか、ロマンチックだな」
「きっとその通りのことが起こったんじゃないかな?」
寝床の近くの棚にこの珊瑚を置いて寝たような気がしなくもない。いつもなら伝承なんて与太話だと斜に構えるが、今回はもしかしたら……なんて思いが過ぎってしまった。
「……すまないけど今度からエキゾチックマリンはベッドから離れたところに置いておくよ、ソロモン」
「ははは……別にどこに置いててくれてもいいんだぜ」
「それにしても、生まれたところに帰りたい、か」
目を閉じ、見たことも無い私の始まりについて思いを馳せる。何も知らないのだから、何もイメージ出来ない。何も、物体と言えるものが浮かび上がらなかった。物体が、ない?なにも?
「あれ?ちょっと待って?」
「どうしたんだ?」
「もうすぐ朝食の時間だ。そろそろ話も切上げて、僕達も食堂に向かわないと」
「名前がなんかあるみたいだから、最後に言わせてあげてくれ」
帰りたいと思っていたのは母親ではなく私の真の始まりで、本当に帰れないからこそそこに帰りたかったのではないか?
「なんの世界だっけ……忘れてしまった…………私は誰かの世界に帰りたかったんだ」
「………………」
「……?よく分からないけど、なんか納得したみたいでよかった……のかな?」
フォルネウスはゆっくりと食堂に向けかけていた足をこちらに戻した。改めてしっかりと視線を合わされ、彼との身長差や彼の硝子玉のような瞳を目の当たりにする。
「僕と同じだね」
「……」
その声色は柔らかくて優しくて。ちっぽけな私に対しての慈しみと哀れみを孕んでいて。誰かの……私のものかもしれない深い悲しみを全身に感じた。
「やっぱり、もう帰りたくない……」
「あれ?帰りたくなくなったのか?」
「気が変わったのかい?」
「……フォルネウス、私はもう帰りたくないから。大丈夫だから、行こう。ソロモン」
いくら乞いたとしても私たちは帰れる訳ではない。帰りたいと嘆けば嘆くほど、胸の奥に氷の柱が刺さったような痛みは増していくと、悲しみを浴びて本能的に理解した。
ソロモンの手を強く引っ張った。後ろから金属の冷ややかな音が着いてくる。それが妙に居心地悪くて、私の足はどんどんと早まった。