「お父さんのいじわる!もう知らない!」

きゃんと吠えて行ってしまった小さな影を追いかけることもできないまま、五条はショックでフリーズした。
「あれ?一花は?」学長に呼ばれ外していた名前が戻ってきて愛娘の所在を訊ねた。かくかくしかじか──事の顛末を聞いて思わずため息が出るのも仕方のないことだった。

「しつこくするから…」
「だって、恵と結婚するって…」

4歳児の淡い初恋を真に受けて否定する父親がいるか、と声を大にして言いたい。「年上のお兄さんに憧れを抱く年頃なんだからムキになる方がおかしい」ぴしゃりと言い放った最愛の妻に、五条は押し黙った。

「……謝ってくる」
「そうして」

そこでようやく渋々と言った様子で動き出す五条を、名前は見送った。


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一方その頃、五条悟と名字名前の娘である五条一花はぷりぷりしながら高専の敷地内を歩いていた。
事の発端は、一花の淡い初恋を五条が大人気なく否定したことにある。「一花はお父さんと結婚するんだもんね〜?」といつも通り娘にデレデレで訊ねた五条だったが、愛娘から返ってきた答えは悲しいかな、「わたしはお父さんとはけっこんしないよ?めぐみお兄さんとするもん」との事。五条はこの時、相手が4歳児であるということも忘れ笑顔を凍りつかせた。そこからは想像にかたくない。「ダメ、絶対ダメ」「なんでダメなの?」「何でも」というまるで子ども同士のような問答の後、怒った一花が冒頭の台詞を吐き出して逃げたわけである。

「お父さんなんてしらない!」

ぷりぷりと怒りながら小さな歩幅で広大な高専敷地内を歩く一花の前方に人がいた。その人物は一人で歩く一花を見て「おや、」と呟いた。

「めいさん!」
「こんなところで一人でどうしたんだい?」
「お父さんからにげてるの!」
「ふふ…それはまた楽しそうだね」

口元に手をやり、冥は大体の経緯を想像するとくすくすと笑った。冥から見ればなんとも微笑ましい出来事だが、一花は至って真剣である。

「めいさん!わたしととりひきしましょ!お父さんにはわたしと会ったことはないしょよ!」
「では報酬をもらわなくてはね」
「はい」

舌足らずな言葉で真剣に冥と取り引きしようとする様子は、冥の目にも可愛く写った。"報酬"という単語に物怖じせず、一花はポケットに手を突っ込みゴソゴソと探ったあと、小さな手に何かを握り込み冥へと差し出す。差し出し返された冥の手のひらにころりと乗せられたカラフルな包み紙が可愛らしい飴玉に、冥はとうとう吹き出した。

「あはは、いいよ。取り引き成立だ」

冥の快い返事に一花の顔は、ぱあっと華やいだ。

冥に口止めをしてルンルンで一花は歩く。前方に三つの影。そのうち二つは人間、一つは熊のようなシルエット。彼らが誰か分かり、嬉々として走り出した一花は、真っ先に大好きなフカフカの足へと抱きついた。

「パンダくん!」
「お、一花じゃん、一人か?」

大刀を担いだ真希が一花を覗き込み、言う。

「まきお姉さん、とげくん、こんにちは!お父さんからにげてるの!」

にぱ、と笑ったかと思えば次にはぷりぷりと怒りながら言う一花に、真希はニヤッと笑い「へぇ、面白そうなことしてんじゃん」。彼ら親子の詳しい事情は分からないながらも、あの五条悟が4歳児に振り回されているという時点で十分に愉快な案件である。「お父さんたら分からずやなの!」と可愛く怒る幼女をフカフカの腕で抱き上げながら「まぁ、大体想像つくわな…」とパンダ。「しゃけ」呆れた様に狗巻。彼らにとってこの親子のこんな喧嘩は日常茶飯事なので慣れっこなのだ。
フカフカなパンダの腕に抱かれるのが大好きな一花はご満悦であるが、忘れることなかれ。少女は今逃走中なのである。本来の目的を思い出した一花はぴょんとパンダの腕を飛び降りた。

「お父さんにはないしょね!きちゃうまえににげなきゃ!」

口止めを忘れないあたり、ちゃっかりしている。元より真希達に告げ口をするつもりは無い。何故って?黙っていた方が面白そうだからである。「おー、じゃあな」「しゃけしゃけ」二人と一匹に見送られながら、一花は再び歩き出した。

三番目に出会ったのは七海だった。一花の中で"お父さんのお友達"という位置づけである七海だが、父親と違って大人らしい大人であるというのが4歳児の見解だった。派手なスーツとは裏腹に、背筋の伸びるような雰囲気と丁寧な話し方は一花を自然と礼儀正しくさせた。例えば挨拶をちゃんとするだとか、お礼はちゃんと言うだとか。七海への挨拶は他のそれより気合いが入りがちである。

「ななみさん!こんにちは!」
「はい、こんにちは。お一人ですか?」

他の人に対するそれより数段柔らかい声音で七海は訊ねた。その問いに頷いてから「お父さんからにげてるの!」と、一花。

「ほう、何でまた」

よくぞ聞いてくれました、と言いたげに一花の紅い瞳が瞬いた。

「めぐみお兄さんとけっこんしたいって言ったらダメだって。なんで、ってきいても"何でも"って」

五条とは長い付き合いである七海にはその口論が容易に想像できてしまい、4歳児相手に何をムキになっているんだ、と七海は内心で呆れた。そんな心をおくびにも出さず「それは大人気ないですね」と感想を述べた七海に一花はそうでしょうと言いたげに頷いた。

「お父さんわからずやなの!」
「ぜひ頑張って逃げてください。あの人にはいい経験だ」

普段あれだけ人を振り回しているのだ。日頃の仕返しという程のことでもないが、たまには振り回される方になってみればいいと七海は思うのだ。
しかし、そんな思惑を悟れる一花ではない。七海の言葉を素直に応援として受け取った幼子は向日葵のような明るい笑顔を浮かべた。

「ありがとう!ななみさん!」

小さな手を振りながら一花は次なる場所へ。それに手を振り返しながら、七海は小さな後ろ姿を見送った。

七海と別れて歩くこと少し。歩くのに疲れてきた一花の視線が、ずっと会いたかった三人組を捉えた。その中の一人、伏黒目掛けて一花は駆け出す。そこまでの疲れも忘れ、小さな手足を一生懸命動かし、勢いのまま伏黒の足へと抱きつく。

「めぐみお兄さん!」
「げ、」

ぎゅうぅ、と自分のスラックスを握るその姿に、伏黒は一瞬嫌そうな顔を見せた。そんな伏黒を虎杖と釘崎はたしなめる。

「伏黒、あんま嫌な顔すんなって」
「そうよ、子ども相手に」
「五条先生が面倒臭いの知ってるだろ…」

他人事だと思って二人は軽く言うが、渦中の伏黒からしてみれば本当に勘弁してくれと思うほど一花が絡んだ時の五条は面倒臭いのである。
一花の中には<お父さん<<越えられない壁<<恵お兄さん>という式が出来上がっている。以前、事ある事に伏黒の名前を出す一花に嫉妬した五条の絡みが数段鬱陶しくなったのは記憶に新しい。
「めぐみお兄さん!」伏黒に両手を伸ばしぴょんぴょんと跳ぶ一花を伏黒は渋々抱き上げた。大好きな伏黒に抱っこしてもらえて嬉しい一花はその小さな手で伏黒の袖を握る。

「お父さんひどいの!わたしはめぐみお兄さんがすきなのに、ダメだって!ゆるしません!って!

まるで親に結婚を了承してもらえないカレカノのような言い草に、伏黒は己の顔を覆った。「ぷぷ、モテモテじゃない伏黒」口元に手を当てて笑う釘崎は完全に面白がっている。げんなりしつつも伏黒は「顔が笑ってんだよ、」と優しめに声を絞り出した。本当ならもっと強めに言いたいところだが、一花の前である。

「あ、五条先生」

虎杖が一花がやってきた方向を指差す。走りこそしてないものの少しだけ早足の五条が、伏黒に抱っこされた一花を見て、安堵の息を吐いた。

「一花、やっと追いついた」

五条の日頃の行いと一花の根回しが効いていたのとで、存外大変だったらしい。聞けば、冥も真希達も七海も頑なに行き先は教えてくれなかったらしい。それでも五条ならば六眼で探すことも可能であるが、なんと一花は4歳にして五条に悟らせないほど呪力のコントロールが上手かった。
五条悟と名字名前の子供でありながら、術式も六眼も持たない一花は裏では期待はずれなどと囁かれているがそれは大きな間違いである。両親に並ぶ呪力量と六眼を欺けるほどのコントロール力、後者に至っては無意識だ──これらは間違いなく天賦の才である。
ともあれ、こうしてようやく追いついた五条であるが、一花はまだご立腹なのである。ぷいっと顔を背け、伏黒の首元に顔を埋めている。

「一花、一花。お父さんが言いすぎた、ごめん」
「…めぐみお兄さんとけっこんしていい?」
「…………それは話し合おう?」

目隠しをしていたが、この時の五条は苦虫を噛み潰したような表情をしていた、と後に虎杖は語る。「話し合うのかよ」と釘崎の鋭いツッコミが飛んだ。そこで許さないあたり、五条は五条であったが、親が親なら娘も娘だった。

「分かった」
「分かったんだ」

納得いかない、と顰め面をしているがそれでも顔を上げた4歳児に、今度は虎杖がツッコミを入れた。

「はい、じゃあ仲直りのちゅー」

ほっぺた同士をすりすりとくっつけ合う仲直りの印に、そのあまりにも呆気ない幕切れに、三人は脱力した。
先程より機嫌が戻った一花は五条へと手を伸ばし、腕の中へ。「お母さんのところ戻ろう。おやつ用意してるって」「もどる!!」という会話を最後に去っていく五条親子を、虎杖、伏黒、釘崎は呆然と見送った。

「何だったんだ、一体」

この時の五条親子の"話し合い"により、あの手この手で言いくるめられ癇癪を起こした一花が夜蛾学長に泣きつき、ひと騒動起こったのは後日談とさせて頂くことにする。

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