春から始まった世界

昔、お母さんがまだ元気だった頃、東京に住んでいた。まだ建って間もないその家は私と同い年なんだそうだ。「鈴鹿が生まれる年に合わせて建てたお家なんだよ」と良くお母さんは言っていた。記憶も朧気な子どもの頃の記憶だが、凄く嬉しかったことを覚えている。お父さんがいて、お母さんがいて──絵に描いたような幸せな家族だった。
しかし、その母も私が小学5年生の頃には突然の交通事故で逝ってしまった。運転手の飲酒運転が原因だった。突然理不尽に奪われた日常に、私はそれはもう泣いた。今の私が可哀想だと思えるほどに。そんな私を心配したのか、慰めようとしたのか、その男の子は柔らかな金髪を私の首にぐりぐりと押しつけながら抱きしめて言ってくれた。

「泣くな。俺がずっといっしょにいてやるから」

佐野万次郎くん。近所の大きい道場の子で、少し年の離れたお兄さんと、妹がいる。男の子にしては小柄で、どちらかと言うと可愛い顔の男の子。私より年下で弟のように思っていた万次郎くんの腕の中はとても温かくて──その優しさに救われ、もっと泣いてしまったことは今も鮮明に覚えている。

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2005年4月──。
旅行用のスーツケースをガラガラと転がしながら東京駅から外に出る。
今回、受験戦争に見事勝利した鈴鹿は東京の高校に通うため一人戻ってきていた。母が亡くなってから男手ひとつで育ててくれた父親は一人娘の一人暮らしを最後まで心配していたが、鈴鹿がどれほどの努力で合格を勝ち取ったのかを知っているからこそ反対はなく、快く送り出してくれた。母がいない寂しさを感じないように愛情をもって育ててくれた父親に感謝しつつ、鈴鹿はまずは家に向かおうと携帯を開き、父親と見て決めた物件の住所を調べる。女子高生の一人暮らしでも危なくないようにオートロックの単身者用のマンションで、築年数もそんなに経っていない。不動産屋でも女性人気の高い物件で、決め手は学校から徒歩15分という近さ。周りは住宅街も近いので人通りもそこそこある。立地がいいので少し値段は張るが娘の安全には変えられない、と即決だった。
急がないと引越し業者が来てしまう。携帯のナビに導かれるまま、鈴鹿は早足で家へと歩き出した。

携帯のナビが導く道を辿りマンションへたどり着き、少しすると引越し業者がやってきて次々と荷物を運び込んでくれた。
実家から持ってきたベッド、今回のために父親が一通り揃えてくれた家電など重いものは業者に任せて鈴鹿は指示を飛ばす。時間にして1時間位だろうか、大きいものは所定の位置に荷解きが必要なダンボール類は部屋の隅に積まれた。
6畳のワンルームでキッチンはカウンタータイプの二口ガスコンロ、収納にベランダまである。高校生の一人暮らしには十分すぎるくらいである。
来週から新生活が始まる。まずは荷解きだと鈴鹿は気合いを入れた。

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佐野万次郎には記憶の中にずっと残っている少女がいる。子どもの頃近所に住んでいたひとつ年上の女の子で、悪ガキなマイキーとは対極にいるようなよく泣きよく笑うどこにでもいるような優しい女の子。驚く程に普通なのに堅気だろうが不良だろうがいつの間にかどんな人の心の奥にも入り込んでいるような子で、仲良くなっている。興味のない人間は視界にすら入れないマイキーだが、鈴鹿だけはそんな物珍しさから直ぐに覚えた。

ある日鈴鹿の母親が交通事故で他界した。
その時の鈴鹿は痛々しいほどに涙を流していて、万次郎は彼女を守らなければと思った。あらゆる危険から、悲しみから自分が鈴鹿を守ると決めたのだ。

「泣くな。俺がずっといっしょにいてやるから」

しかし所詮は子供同士の約束だ。
それからしばらくして、鈴鹿は父親の転勤について行くために引っ越して行った。

公園の屋根付きのベンチでうたた寝していたマイキーははしゃぐ子供たちの笑い声に目を覚ました。
世間は春休みシーズン、中学3年生のマイキーも例外ではなく暇を持て余していた。ポカポカと暖かい陽気に少し走ろうとバイクで出掛け、休憩がてら昼寝をしていたんだった。寝ぼけ眼の目を擦り、大きな欠伸をする。
それにしても懐かしい夢を見た。鈴鹿と出会ったのもこんな春の日だったように思う。だから夢に見たのだろうか。彼女は──鈴鹿は、まだ約束を覚えているのだろうか。

「なーんてね」

もう何年も会っていないのだ。約束を覚えている以前に、会ったってお互いに分からない可能性の方が高い。
マイキーは寂しげに呟いてバイクに跨るとそのまま帰路についた。

その日の夜は東卍の集会があった。
いつものように副総長のドラケンが議題を通達し解散になったあと、マイキー等はコンビニに来ていた。道路の端にバイクを横付けして全員で店内へと入る。黒い繋ぎに金の刺繍の暴走族の特攻服集団に眠そうな顔をしていた店員がギョッとして背筋を伸ばす。暴走族とはいっても東京卍會は義理人情や物事の道理を大切にしているタイプの暴走族であり、一般人に手を出すような真似はしない。彼らは買い物だけ済ませコンビニを出た。
2つで1つになったアイスをパキッと割り、咥える。爽やかなソーダの味が口の中に広がった。春先なのでまだ冷え込みはするが、今日は満月が出ていて夜でも明るい。これから全員でバイクでも流しに行こうかとマイキーが気分を良くしていた時だった。

「困ります!離してください!」

どこか耳馴染みのある透き通った声が、良い月夜に水をさした。
声の方向では女が男2人に挟まれるようにして絡まれていた。手首を捕まれた女は離してもらおうと力いっぱい身を引いているが、男達はびくともしない。気丈に振舞ってはいるが怖いのだろう。先ほどマイキーに届いた声は震えていた。
スタスタと歩み寄ったマイキーは女の手首を掴む男の背に「おい」と一声をかけ、男が振り向く前に大きく振り上げられた足がこめかみにめり込んだ。
吹っ飛んだ男は既に気を失っており、当然受け身も取れずそのまま地面に叩きつけられた。驚きで目を丸くしている女の背後で逃げ道を奪っていた男の方も殴りかかってくる前に同じように蹴り飛ばした。

「大丈夫?」
「あっはい!ありがとうございます」