エッセイ *私と生活
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 ひょっこり産まれた、年の離れた末っ子。それが私だった。姉とは16歳、兄と15歳離れている。
 非常に甘やかされて育ちつつ、私はすっかりお父さん子になった。小さい頃は、将来父と同じ大工になることが私の夢だった。

 転機は、私が10歳くらいの時だった。その頃には、もう姉も兄も結婚していて子供も居た。
 ある日、母は原付に乗っていた所、車に当てられ事故の被害者となった。怪我など大したことなかったものの、一応数日入院していた。それ自体は問題ではなかった。
 以降の加害者とのやり取りに難があり、本来払う必要もないお金まで払う羽目になってしまったのが問題だった。しかも、自賠責も切れており母は自腹を迫られたのである。

 そのストレスで、母は双極性障害T型を発症した。夜な夜な呑みに出かけ、ひっきりなしに電話を掛け回り、時には庭や田んぼを四つん這いになって駆け回っていた。
 
 手に負えないため、母は入院を繰り返すようになった。しかし入院すると酷くやつれ、薬漬けのため目も生きてるのか死んでるのかも分からないといった感じだった。
 長期間の身体拘束のためいつしか手足は拘縮し真っ直ぐ伸ばすことは不可能となった。背骨や仙骨にも皮膚がえぐれる程度の褥瘡が何度も出来ていた。

 病院に不信感を持っていた父は、度々無理やり退院させた。服薬も独断でやめさせたりしていた。
 母の体調はまちまちで、鬱が酷いとあまり動かないゾンビのようであった。躁に傾くと、夜中でもヒステリー気味に喋り続けるため父によって家の柱にガムテープでぐるぐるに体を固定される日もあった。

 地球外生命体のような母が気持ち悪くて仕方がなくて、私は暴言ばかり吐いていた。
 ある日躁状態の母と喧嘩して、私は母に水をぶっ掛けてやろうと準備していたのだが、上手く水が掛からず自分に水を掛かけたことがあった。それを見て逆上した母は、私の髪を掴んで引っ張り思い切り頭を揺さぶってきた。
 それ程、二人の仲は非常に険悪であった。

 家庭は荒れていたが、私は父の母校と同じ工芸高校に進学。
 そして、6月。父と喧嘩となり私は姉の家に家出した。

 6月は父の誕生日と父の日があった。私は今まで、それらの記念日をいつも欠かさず大切にお祝いをしていたのだが、この時は家に戻ったりはしなかった。

 6月21日、父は自殺していた。そして翌日、亡くなった。

 急過ぎる出来事に、私は状況を受け入れることが出来ず寝ても覚めても、ずっと泣いていた。
 それからは、母は病院が家となり、私は姉と兄の家を行ったり来たりして育てられることになったのであった。


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