エッセイ *恋愛
だって、家族ですから
[10/10]

 狂気的な音を台所じゅうに轟かせながら、フリーザーパックに入れた長芋と胡瓜を包丁の面でぶっ叩いていた。
 ああ、ごめんな。煩いやろな、下の階の人。などと申し訳なく思いながらも、私には容赦がない。料理を作ってるだけだし音を抑える方法も分からないししょうがない、と自らに言い訳をして、決して包丁を振り下ろす力をゆるめることはなかった。
 迷惑で乱暴な調理をしているが、この木造のアパートはとにかく音が伝わりやすい構造をしている。どれほど音が伝わりやすいかというと、隣の部屋が洗濯機を回す振動や内階段をスリッパで上り下りする音が聞こえるのはもちろん、下の階のカップルが金切り声で喧嘩している声や、同じく下の階のカップルの彼女の嬌声でセックスが始まったのに気づくことができるくらい音が伝わりやすかった。
 ただ最近、よく聞こえていたあの嬌声が聞こえなくなり、つまらないのと同時に不審にも感じていた。まあ、セックスに及ぶ頻度はカップルによってまちまちだろうし、その事情が《私が在宅中、しかも起きている間にちょうど行われる》とは限らないわけだから、嬌声をしょっちゅう聞けていたのはたまたまラッキーが重なっていただけなのかもしれなかった。
 とはいえ、もう何ヶ月もあの声が聞こえないのはおかしい気がしていた。以前なら毎週のように聞こえていたし、タイミングがよければ数日おきに聞こえていたというのに全くそれがないのはやはり変だと思った。
 今思えば、最後に嬌声を聞いたときは平日の昼間だった。「嫌ー! ああっ、もう嫌ぁあーっ!!」とすがるような絶叫が響いてきていた。声が聞こえるのは決まって私の寝室の真下だったけれど、この日は声が部屋のあちこちを移動していたので、よほど乱暴なプレイに及んでいるのだろうなどと想像していた。
 あの懇願するような叫び声は、心底拒絶している悲鳴だったのかもしれない。

 ほどなくして、下の階のお姉さんが乗っていた深緑の車が駐車場から姿を消した。下の住人同士が話しているような気配はなくなったものの、お兄さんとはいつものようにすれ違うことがあった。
 私は下のカップルは別れてしまったんだろうかと心配になってきて、夫に話した。
「最近、下のお姉さん見ないね。別れたんかな」
「さぁ、どうやろ」
 夫は興味がなさそうに晩ご飯を食べていたけど、私は気にせず感慨深げに続けた。
「私、セックスしてるのに聞き耳立てるの楽しみにしてたのになぁ。てか、あんなおおっぴらに人のセックスの喘ぎ声聞くことってある? もちろん自分らのセックス以外でやで。今までであった?」
 段々と語気に熱を帯びさせる私に彼はキョトンとしていたが、確かに他ではないかもやけど。と箸を止めて苦笑してみせた。
「せやろ!? あれ聞くと、ああ。愛し合ってるねんなぁって。仲良くしてるんやなぁって、微笑ましく思えてよかったのに」
「いっつも楽しみにしてたのにな」
 揶揄うみたいに夫は笑った。
「……もう聞けんのかなぁ」
 ささやかな楽しみを一つ失いつつあるのを感じて、残念な気持ちが膨れていった。それとともに心がぽっかり寂しくなるのを感じていた。

 そんな噂をしてしばらく経ったころ、私たちは買い物を済ませやれやれと家に戻ろうとしているときに、久しぶりに下の階の住人と出くわした。駐車場にある下の階のお兄さんの黒い車から女の人が出てきたばかりのようで、部屋へ戻ろうとしているのが見えた。  
 彼女がこちらに気づいて「こんにちはっ」と、にこやかに挨拶をしてくれたので私たちもすかさず笑顔で応じたが、そこで、あれ。とわずかに違和感を感じた。
 夫も同じように感じていたのか、二人とも玄関に入るなりどこか急ぎ足になって内階段を登っていった。
「お姉さん、おったね」「うん、おったおったー」「久しぶりやね」という噂話が筒抜けとならないように、声を潜めて喋りながらズンズン上まで上がっていった。
「てかあのお姉さん、前のお姉さんと違う人かな。似てるんやけど……なんか微妙に違う人みたいな気がするんやけど」
 やっとリビングの入り口まで上がってきて、私は胸にくすぶってきていた疑問を吐いた。
「うん。前のお姉さんの方がもうちょっとぽっちゃりしてて、背が低かったような気がするんやけどなぁ」
「そうそう。あと前のお姉さんはもう少し声も高かった気がするし。髪型はほとんど一緒やけど、なんか違うんよねぇ……」
 私は記憶の中のお姉さんを思い返してみた。たまにしか会うことがないので顔はあやふやだったが、美容院やアパレル関係にいそうな小洒落た装いだったように思う。茶色に染めたロングヘアーをゆるく巻いて……顔は、やや丸顔で童顔だったような。でもさっきのお姉さんは、いつものお姉さんよりもやや面長にみえた気がする。私はとある推測を夫に確認した。
「新しい彼女とかかな?」
「多分、そうやろな」
「やっぱお兄さんの好みなんかな。似たようなタイプやね」
「確かに」
 あの彼女が新しい彼女なのだとしたら、もしかしたらあの嬌声はもう聞けないのかもしれないとぼんやり考えていた。今日会った彼女も、前にいた彼女も、気さくで朗らかな雰囲気の人で同じようなタイプなんだろうとは思うけど、セックスで声を我慢できるのかどうかは人による。音が響きやすいこのアパートでああいう声を出せる人のほうが稀だろうから、多分新しい彼女はセックスをしていてもむやみに声を響かせることはしないような気がした。
 わりとよく見かける下のお兄さんは、気さくなお姉さんたちとは違って挨拶をしても会釈のみでにこりともしないような人だった。駐輪場や近くの公園などでよく見かけるわりには、よく分からない人だった。
 ただよく分からないなりにも、気が短いタイプということは分かっていた。何故そう思うのかというと、ちょっと部屋で煩くしていると「ドスン!」と何かで下の天井を突き上げてくるのが常だったから。それは乱暴な足音だったり、壁をこぶしで叩く音だったりになることもあった。
 無愛想でおっかないお兄さんだけど、私たち夫婦は彼が顔をふにゃふにゃにほころばせている瞬間を目撃したことがある。だいぶ前の話になるが、下の階が出掛けるのと私たちが玄関を出るのが同じくらいのときだった。彼女より数歩先くらいで戸を開けていたお兄さんは、柔和な笑みを浮かべて彼女の方を見ていた。おっかないイメージしかないお兄さんが見せた初めての優しい顔に、驚きつつもどこか温かい気持ちになったのを覚えている。
 お兄さんが前の彼女を溺愛していたのは傍目に見ても分かるくらいだったのに、何故別れてしまったんだろう。詮索してみたところで答えは迷宮入りに違いなかったけれど、私の中でどこかが引っかかっていた。

 けっきょく、新しいお姉さんはお兄さんの黒い車を自らの私用車のように乗り始め、お兄さんは黒い自転車で仕事へ行くのが日常になった。相変わらず、お兄さんは愛想笑いなどしないものの挨拶すれば応じていた。
 やっぱりセックスの声は全然聞こえなくなって、私はすっかり面白くなくなってしまった。たかだか近所のカップルが別れて早々に新しい女性と同棲を始めただけなのに、なんとなく寂しいもんだなぁとも感じた。私のベッドの真下で散々呻いていた彼女はいったいどうなってしまったんだろうという、どうだっていいことが気になっていた。せめて、引っ越し先でしあわせでありますようにと願ってみた。


 ――三ヶ月後。
 自宅に戻ってきたとき、隣のドアポストにビニールで包装された冊子が突っ込んであるのに気がついた。私は何だろう……と凝視した。

『赤ちゃんとママ』

 んん? 赤ちゃん……て、あのお姉さんはもう妊娠しているのか? ちょっと早過ぎじゃないか?? などと、雑誌名のせいで複雑な気持ちがぐるぐるまわった。

 ――二ヶ月後。(お姉さんがきて五ヶ月後)
 お兄さんの黒い車の後部座席に、チャイルドシートが乗っていた。まだ子どもが産まれたような気配はなかったので、「早々にチャイルドシートを備え付けた説」が私たち夫婦の中で有力となっていた。

 ――一ヶ月後。(お姉さんがきて六ヶ月後)
 夫が、だいぶお腹が大きくなっているお姉さんを見かける。もうそろそろ産まれるんじゃないか……となぜか私はそわそわしていた。

 ――一ヶ月後。(お姉さんがきて七ヶ月後)
 夫が家に帰るなり「隣の入り口のところ通ったら、けっこう香水の匂いが残ってたで。最近こういうことがあるんよなぁ……」と、どこぞの探偵気取りのような口振りで話し出した。詳しく話しを聞くと、嗅いだのは女物の香水みたいな匂いだったらしい。
 これはどういうことだろうと考えていると、夫から「お姉さんがお産で入院している間にお兄さんが女を連れ込んでいる説」が浮上した。だけど、私はまさかなぁ。お兄さんがお洒落な香水を付けているのかもしれないし……と思っていた。

 ――三日後。
 仕事の終わりが遅くなり、私は日が暮れてから自宅に戻った。玄関先でふいに、ふわっとした甘い香りが漂ってきているのに気づき、夫が言っていたのはこのことかと浮かんだ。確かにこういった華やかな香りは男性には向かない。というか急に隣の玄関先からこんな香りがし始めるのは間違いなく怪しかった。
 夫が帰ってきてから報告すると、「お姉さんがポンポンポーンの間に、お兄さんはパンパンパーンやなっ」と得意げに笑っていた。不謹慎な発言極まりないものの、言葉の勢いのよさに私はケタケタ笑って喜んでいた。
 三日前に出た「お姉さんがお産で入院している間にお兄さんが女を連れ込んでいる説」は、夫婦の中で確信に変わりつつあった。

 ――二週間後。(お姉さんがきて七ヶ月半後)
 下で子どもが産まれたのかよく分からないままだった。赤ちゃんの泣き声は隣の一軒家から聞こえることがあったし、このアパートの裏にあるファミリー向けの物件の方からもよく聞こえてきていた。
 私は、ふみゃあっ、と聞こえる声がすると産まれて間もない下の階の赤ちゃんなのではないかと夫に聞いてみたが、隣の赤ちゃんの泣き声やろうとあまり相手にされなかった。
 お兄さんは相変わらずで見かけても変わりはない。夫は、赤ちゃんが産まれたばかりだったらあんな風にのんきな様子ではいられないだろうから、まだ産まれていないんだろう、という予想をしていた。

 ――二週間後。(お姉さんがきて八ヶ月後)
 以前噂していた「お姉さんがポンポンポーンの間に、お兄さんはパンパンパーン説」は、下の階が思っている以上に静かで産まれていそうな気配がないのもあってうやむやになっていた。
 いったいいつになったら本当に赤ちゃんが産まれるんだろうか、と思い始めていたある休日。私たちが玄関を出ようとしたとき、ちょうど下の階へ宅配が来ていた。配達員がチャイムを鳴らしてしばらく経ってからドアが開いた音がした。下の階の住人の動向が何かと気になっていた私たちは、手荷物の確認をする振りをしてほんのわずかなあいだ、開いたドアの中へ視線を移した。
 みると荷物を受け取っていたのはお兄さんで、片腕にはころんと太った赤ちゃんを抱いていた。赤ちゃんは生後間もないような感じではなく、いくぶんか成長したあとのようにみえた。
 うずうずとした気持ちをこらえながら、私は車の助手席に乗り込んですぐ「あれ、もう産まれてたん?」と小声でとなりに聞いた。夫は「静かな赤ちゃんやなぁ」としみじみと感心しながら口元をゆるませていた。
「てか、宅配受け取るんやったら、赤ちゃん置いたほうがええんちゃうん?」
「あやしてる最中とかやったんちゃう?」
 やや知った風な顔で彼は言った。

――そして、半年後。(お姉さんがきて一年二ヶ月後)
 駐車場で、お兄さんが車から出てきたときだった。通りがかった私たち夫婦に気づいたのか彼は「こんにちはーっ」と、ふつうに挨拶をしてきた。
 今まで挨拶をしても喋りもしなかった彼が、自ら挨拶をするなんて……。と変容ぶりに呆気に取られながらも二人で笑顔で応じた。
「ねぇ、お兄さん初めて挨拶してくれたね」
「子どもの泣き声も多少はあるし、ちょっとは気ぃ遣っとんやろうな」
 二人して目を見合わせ、ささやかな隣人の変化を今日も共有した。赤ちゃんができるというのはそれだけ人を変える力があるんだろうなと私は感心していた。


 以上、よく知りもしない隣人の動向や変化を見守る、とあるアパートの住人の杞憂の記録でした。

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