溢れる汗がひしめく箱
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『渦』
じわり伝わってくる他人のTシャツの汗。くぅーん、と鼻をつく酸っぱさを含んだ変な空気が会場には溢れていた。
暗い客席では人がひしめき、跳ねて蠢めく。それに合わせて、私だって跳ねて跳ねる。ここ「ライブハウス」は、そういう場所なのだ。
現実という、鬱蒼としたものを置いて忘れ、今を感じ今だけに生きる。それだけでいい空間。
時に汗を撒き散らし合い、鬱憤を音楽で発散する場所。
だが最高な筈のこの場所で、私は最悪な状況に陥っていた。何故なら、さっき飲んだビールが今にも喉から吹き出てきそうになっていたから。
まぁ、密集した人の渦の中、体がぎゅうぎゅうと乱暴に揺さぶられっぱなしだし、そうもなるのもしょうがないけど。
酸素が薄いせいなのか、酔ってるからなのか。頭が揺れて気分が悪い。三半規管がやられてしまったのか、グラグラしてきた。
後ろに下がろうにも、次々に押し寄せる狂った人の波にひたすら阻まれるしかなく、体は流されるがままステージの前方近くに辿り着く。
ステージを見やると、汗にまみれて髪をぐちゃぐちゃにさせたボーカルが身を乗り出し、客の方へ出向いて汗や口からの飛沫を撒き散らかしている。その飛ばされる汗や唾を欲するが如く、ボーカルの足や手、濡れたシャツ目掛けて無数の手がここぞとばかりに伸び、前へ前へと人が押し掛け群れていた。
そこでグラッと突如、視界が傾く。
身体が激しい濁流に流されていく。
倒れると思った瞬間、ふいに人のうねりから放り出されていた。バランスを崩した状態で人々の支えを失くした私は、不恰好に倒れることとなった。
直ぐにでもこの場から撤退したかったものの、酷い目眩と胸の不快感からどうにも動くことが出来ずにへばっているしか出来なかった。
「大丈夫? 立てる……?」
後方からの呼び声に顔を向けると、女性がしゃがんでいた。
すみません。と返事をしようとするも、急に胃酸の酸っぱさが上がってきて不快感に襲われる。手で口を覆うのが精一杯で、背を丸めて何とか吐き気を押し込めようと浅く息をつき、きつく目を閉じ唾を飲んだ。
私の異変に対し、女性は咄嗟に声を張り上げる。
「すいませーん! 人が倒れました! ちょっと開けてくださーいっ」
ライブに対する反応とは違う客のざわつきと背中をさする感触に目を開けると、心配そうな瞳が覗き込んでいた。
耳元で声がする。
外、出よう。私が連れ出すから、ちょっと我慢しててよ、と。
首を軽く縦に振ると、直ぐさまグイッと片脇を抱え込まれ、引きずり上げられていた。
「すみませーん! 下がります、病人です。下がりまーす!」
女の人は周囲に目一杯の大声で呼びかけながら、歩み出す。導かれるまま私は半分体を預け、もたつく足を動かし会場の後ろに下がっていった。
「ほら、あそこ溝あるから」
会場の外を出て直ぐ、鉄の網まで誘導される。
私は溝に着くなりしゃがみこんで、コンクリートに手をついた。
「全部出しちゃいな、離れてるからさ」
苦しいながらに頷くと、彼女は離れていった。
気を緩めた途端、液体が喉を突いて噴き出した。
ボタボタと垂れ流しになる、固形物と胃液とビールが混じったものが目に入る。次々に口から飛び出し、鉄の網に落ちていった。
吐き尽くして、胃液すら出なくなってようやく体が少し楽になった。
疲れて呆然としているうちに、足音が近づいて来たので顔を上げる。
「お疲れ様。しんどかったね」
心配そうな目で、ミネラルウォーターが差し出されていた。
「あげる。水分取った方がいいよ」
「ありがとうございます」
ボトルを受け取り、両手で掴んだ。結露の冷たさが心地いい。
「顔色も悪いし、無理はしないようにね。今日は帰った方がいいんじゃない? 帰れそう?」
困ったような、心配しているようなそんな風に彼女ははにかむ。
「ありがとうございます。多分、大丈夫です」
かすれそうになる声で、出来るだけ平然を装った。
「そっかぁ、よかった。気をつけてね」
立ち去ろうとする姿に、焦って口を動かす。
あの……、と声を投げると足が止まった。
ん? とこちらに向き直り、視線が合う。
「ライブの途中、抜けてまで付き合わせてしまってすみません。後、お水までありがとうございました」
緊張したままに、伝えなければならない言葉をやや早口になって並べた。一呼吸置き、続ける。
「なので、あの……。何か、また、お礼がしたくて……」
「そんな、いいのに」
屈託ない顔で笑い、取り敢えず何かの縁だし連絡先でも交換しとく? と携帯が取り出された。
気取らない彼女に嬉しくなって「はいっ」と弾かれたように返事をして、私もポケットから携帯を引き抜いた。
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