深淵を彷徨い、煤闇と



(翠雨の節・12の日)

腹の虫も鳴り出す夕食前、今日のメニューは何だろうかと思案しながら食堂へ向かおうとしていたフリーゼだったが、普段通りの景色の中でふとした違和感を覚えて足を止める。

「あれ?」

寮の近くの資材置き場。今日に限って資材が積まれていなかった。前節、敵に狙われそうな怪しい箇所を探し回っていた時に偶然、資材の奥に階段のようなものが見えたのだが――果たしてそれはどこへ繋がっているのだろうか。そんな些細な好奇心から、フリーゼはゆっくり奥へと足を進める。

「わあ、地下に続いてるのかな……」

いざ近くで見てみれば、薄暗い階段のようなものを発見した。どこまで続いているのかよく見えないので、それなりに長い階段のようだ。フリーゼは地下を覗き込みながら「こんな場所に階段があったんだ」と感心しつつ、「いつか行ってみようかな」と考える。
何があるのか少しは興味があるものの、フリーゼにとって今は夕食の方が大事なのである。今日のメニューが"野菜たっぷりサラダパスタ"だと嬉しいなと期待に胸を膨らませながら、フリーゼは再び食堂へ向かおうとする――のだが。

「あれっ」

ドンッという音と共に身体がぐらりと傾く。
黄緑色の髪が深淵へと飲み込まれていく様子を見ながら、背後では怪しげな男がニヤリと笑みを浮かべていた。

◇◇◇◇

どさり、と地下深くに衝撃音が響き渡る。痛みは感じないが、あまりの衝撃で脳が揺れた感覚だった。チカチカする視界で、フリーゼはゆっくりと視線を動かす。

「痛……くはないけど……ぼーっとする……」

周囲は仄暗い闇と僅かな灯。状況的に考えると、先程覗いていた地下に落ちてしまったらしい。フリーゼはふうっと息を吐き、無理矢理上体を起こす。打ち所が悪かったのか、頭からはだらだらと血が流れていたし、足首は少し変な方向へ曲がっていた。普通ならば痛みによって身体を動かす事もままならないだろうが、フリーゼは普通とは言い難い少女だ。そのまま「痛みを感じなくて助かった」と呟きながら乱暴に額を拭い、壁に身体を預けながらゆっくり立ち上がる。足元へ魔力を集中させると、ふわりと地面から足を離してその場に浮き上がった。

「このまま上に浮けば、どうにか地上に戻れるかな……」

しかし階段の先を見上げても、そこには最初から出入口なんて存在しなかったかの如く闇が広がっている。これは閉じ込められたのかもしれない、とフリーゼは察した。

――だったら別の道を探さなきゃ。

フリーゼにとっては、自身の怪我や突き落とした犯人探しなんかよりも、夕食を食べ損ねる方がよっぽど深刻な問題なのである。だから早く食堂へ行かなくてはならない。
フリーゼは煤闇の中へ引き寄せられるように、ひとりでふらふらと進み始めた。

◇◇◇◇

どれくらい歩いた――というよりは浮かんで進んだかわからなくなってきた頃、フリーゼは前方に人影を発見し「あっ、誰か居る」と声を発する。既に完全に迷ってしまっているので、地上へ繋がる出入口を尋ねようと思ったのだが――。

「あの、地上へ繋」
「動くなよ」

刹那――すぐ後ろから聞こえた冷たい声に、フリーゼは動きを止める事になってしまった。いつの間にか自分の首元には銀の剣が添えられていて、フリーゼは内心で「騙された事思い出した……」と苦い顔をしている。学級対抗戦の時と同じ失敗を繰り返してしまった、とフリーゼは反省した。

「何だ、ただの地上の女か。って、結構な怪我してんな……」

フリーゼに近付く体格の良い男性は荒い口調で呟き、彼の隣では「あらまあ、可哀想に。地上の人間がアビスに来るから天罰が当たったんですわ」と金髪の女性が高笑いをしている。しかし続いて後ろから現れた赤髪の少女は、フリーゼの姿を見た瞬間、ぽかんと口を開けたまま立ち竦んだままだった。仲間の珍しい姿を見て、背後からフリーゼの動きを止めさせている青年は「どうした?」と問いかけるのだが――。

「リーゼ! ちゃんと生きてたんだね……あー、ハピかなり安心した……ほんと良かった……」
「?」
「あら、知り合いですの?」

自身をハピと名乗る少女は、懐かしい友人の姿を前に酷く安堵の表情を見せていた。リーゼと呼ばれた少女は未だに黙ったままだったが、まあ仲間の知り合いなら大丈夫かと判断し、青年もそっと少女の拘束を解く。彼はそのまま正面へ回り込み、地下への侵入者である謎の少女の姿を視認するのだが、次に固まるのは青年の番だった。何故なら彼女は――。

「お前まさか……フリーゼか!?」

しかしフリーゼにとって、自分を知る二人は記憶にない人物で――だから咄嗟に「えっ、誰ですか?」と尋ね、戸惑いの色を見せる。フリーゼは必死に考え、でもやはり記憶にはなくて、もしかしてと結論を導いた。

「もしかして昔どこかで会った事ありますか? 私、なんか人体実験されてたらしくて、それで記憶を喪ってるみたいなんですけど……」

だから、忘れてたらごめんなさい。申し訳なさそうに続けるフリーゼに対し、ハピはどこか納得したように「……なるほどねー。あのおばさんならやりそうな手だよ」と悔しさを表すように拳を強く握った。
つまり今のフリーゼは――。


そんな思考を遮るように、高飛車な雰囲気の女性――コンスタンツェは「二人の知り合いなのはわかりましたけど、彼女結構な怪我ですわよ」と呆れ、善意からフリーゼに回復魔法を施した。自分は白魔法があまり得意ではないので、隣で立っている体格の良い男――バルタザールに対して「ほら、バルタザールも手伝いなさい」と促す。
指示されるのは癪だったが、確かにフリーゼの怪我は見ていて少し痛々しい。コンスタンツェ同様にバルタザールも治療を始めると、いつの間にか額から流れ落ちる血が止まった事に気付き、フリーゼは「ありがとうございます」と素直に謝礼する。

近くで見れば、改めて理解できる。このフリーゼと呼ばれた少女の魔力は相当のものだ。
コンスタンツェは彼女を一瞥し、「貴女、相当な魔道士のようですけど何故すぐに治療なさらないの? お馬鹿さんなのかしら?」と煽ったが、フリーゼは特に感情を揺さぶられる事はなく苦笑いを浮かべたまま。
この少女、当然煽りも汲み取れていないのである。

「回復の白魔法だけは苦手で……痛みを感じないからなのかなあ……うーん」

痛みを感じない何て衝撃発言に疑問を持ちながらも、コンスタンツェは言葉とは裏腹に甲斐甲斐しく白魔法を発動し続ける。頭の方はバルタザールと二人がかりでの初歩魔法――ライブでどうにかなったが、足の怪我は重傷の部類だろう。これは流石に難しいかもしれないと即座に判断した。
せめて治療が得意な魔道士が居れば良いのだが、どちらかと言うとコンスタンツェもハピも攻撃特化である黒魔法や闇魔法が得意な魔道士だし、バルタザールも拳で闘う事がメインの格闘家なのである。

寧ろ自分たちの中で回復魔法が長けている者は――そう考え、コンスタンツェはちらりと青年を一瞥した。しかし今日に限って彼は普段と様子がおかしい。義侠心が強めの彼ならば真っ先に行動しそうなのに、彼は何故か戸惑ったように「嘘だろ……うーん……」と唸っているのだ。一言で例えるならば"らしくない"。
だからこうして自分が得意ではない白魔法を発動する羽目になっている。別に放っておいても良いのだが、流石に自分の正義感がそれを許さず――コンスタンツェは小さく溜息を溢した。

「あー、なるほどな……何となく事情はわかった」

天を仰ぎながら様々な思考を張り巡らせていた青年は顔を下ろすと、美麗な顔を歪ませて溜息を溢す。
恐らくフリーゼは、あの女からは逃げ出せていない上、記憶まで奪われて騙されている。最悪の状況だ。
即座にフリーゼの置かれている状況を把握し、青年は彼女の目の前に立って「で、お前はどうして此処に?」と問いかける。するとフリーゼは少し悩みつつも、青年をまっすぐ見つめながら「たぶん、誰かに突き落とされて」と自然に答えた。

「……って事は、これがドロテアさんの言ってた"いじめ"って奴かもしれない……!?」
「いや何でそこで喜ぶんだよ……」

目を輝かせるフリーゼを見ながら呆れ果てた青年は静かにツッコミを入れるものの、すぐに何かを感じ取って「チッ」と舌打ちを溢す。どうやら再会を喜んでいる余裕はないらしい。黙って会話を聞いていたバルタザールも、前方から聞こえる足音を聞いてニヤリと口角を持ち上げる。

「お前らの知り合いなら早いとこ地上に帰してやりたいが……今日も来やがったな」

バルタザールは好戦的な態度で立ち上がると己の拳を握り直し、ハピも「面倒だなー……っとと、危ない」と溜息を溢しそうになる自分を慌てて自制していた。応急処置程度だったが何とか治療を終えたコンスタンツェも「軽く捻り潰してあげますわ」と扇子で口元を隠して笑い、彼らのリーダー格である青年も「さあて、地上の人間の襲撃だ。しっかり相手してやんねえと」と白いマントを翻しながら剣を片手に立ち上がった。

その様子を見ていたフリーゼは「誰かと戦うの?」と首を傾げ、青年は「ああ。俺たちの縄張りを荒らす、悪い人間たちとな」と笑みを溢す。
縄張りを荒らす、悪い人間。フリーゼは心の中で繰り返す。フリーゼ的に、それは放っておけなかった。

「怪我を治療してくれたので皆さん良い人たちです。良い人が傷付けられるのは嫌なので、私も手伝います」

◇◇◇◇

襲撃と言っても彼らの実力を持ってすれば対処できない程ではなく――ただ単に数が多くて疲れる程度の敵だった。しかも今回はフリーゼという戦力が味方した事でいつも以上には楽だったな、と青年は剣を鞘に納めながら考える。
以前、とある男性と話していた時に一度出たフリーゼの話題。青年は「まさか……」と内心で呟くが、どうにも嫌な予感が拭えない。
もしかしたら彼女は、自分に対しての――。
だったら更に最悪の状況だ。

青年から密かに心配される事も露知らず、一方のフリーゼはというと――現在進行形でコンスタンツェから説教を受けていた。

「ちょっと貴女! それなりの怪我なんですから安静にしてなさい!」
「でも痛くないので大丈」
「そういう問題ではありませんわ! それに、私たちの実力ならあのような者たちに遅れは取りません。舐めないでくださる!?」
「……ごめんなさい?」

無茶と言うか、馬鹿と言うか。自分を顧みないフリーゼに対し、コンスタンツェは苛立っていた。本当ならばまだ動ける状態ではないのに、フリーゼは自分たちを手伝う為に戦った。結果的には無理をさせてしまっている。
痛みを感じないのは異常な事なのに、本人はその異常さを自覚していない。それどころか「痛くなければ戦いの時に便利」程度に感じてしまっている。このフリーゼという少女、魔道の腕は一級なのに超が付く程の馬鹿ですわ、とコンスタンツェは確信した。

「まーまー、落ち着いてよコニー。リーゼだって悪気があった訳じゃないし。寧ろリーゼが手伝ってくれたからハピたちも楽できたじゃん?」
「別に彼女の善意を責めている訳ではありませんわ。私が心配なのは」

そう言いかけた瞬間、隣からどさり、と音が響いた。力無く倒れる黄緑色の髪の少女を見て、コンスタンツェは「だから言ったのに」と言わんばかりの目で呆れ返る。

「ほら見なさいな。貴女、やはりまだその怪我では無茶ですわ」

しかしフリーゼは立ち上がらない。もしかしたら立ち上がれないのかもしれない。流石に心配したバルタザールも「おい大丈夫か? やっぱ痛いんじゃねえの?」と蹲み込んでフリーゼを観察していると――。

「おなか、すきました……食堂、ごはん……うう……」

痛みではなく、空腹だった。完全に夕飯を食べ損ねたフリーゼは悔しそうな表情で「夕食……美味しいもの……今頃、食べてた筈なのに……」と声を漏らす。
予想もできなかった少女の発言に、バルタザールとコンスタンツェは目を点にして固まっていた。ハピさえもフリーゼの知らなかった一面に触れ「リーゼ……」と少し戸惑うように声を漏らしている。

戸惑いと哀れみのような――そんな複雑な目で見られている事を、フリーゼ本人は気にも留めない。フリーゼにとって食事は非常に大事な問題なので、しょうがないのであるが。
しかし、そんな静寂を切り裂くように――。

「……くくっ、はははっ、はは、あははっ!」
「?」

青年だけは腹を抱えて笑っていた。フリーゼの発言で唖然としていた三人だったが、青年の珍しい反応を見て更に困惑する。戸惑う仲間たちの姿に気付いた青年は「いや、悪い悪い」と楽しそうに声を上げた。

「お前、少し変わったのかもな!」

そのまま青年は空腹で倒れる少女に手を伸ばし、軽々と身体を横抱きにしながら立ち上がる。青年の眉目秀麗な顔が視界に映ったが、フリーゼは女性が男性に対して惹かれるような、いわゆる“かっこいい”や“素敵”の概念も、相変わらず存在しないので特に何の感情も抱く事はない。
最も、昔と比べれば魔道以外に対しても興味を引くように変化しているのだが――今もその手の感情は備わっていない事に何ら変わりないのだ。

「行くぞ。早くこいつに何か食わせてやらねえと」

仲間たちを促す青年の顔を見上げながら、フリーゼは「ええっと、初めましてじゃないんだよね……?」と恐る恐る口を開く。すると何かを思い出した青年はニヤリと妖艶な笑みを浮かべ、フリーゼに告げた。

「“私の名はユーリス。よろしくお願いします、フリーゼ様?”」

その言葉を聞いたフリーゼも、特に意識する事なく自然に答える。

「よろしくお願いします?」

こうして――ユーリスとフリーゼは、地下の煤闇で再会を果たした。


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