寒さが増していく中、今年に残す行事はあと終業式というところまで差し掛かっていた。分厚いコートに身を包み、スカートから出る足を互いに擦り寄せて、必死に暖を取る。いつもの通学路。街路樹からは葉っぱもひとつ残らず消え、とげとげしい枝だけが空に伸びている。マフラーにすっぽり包んだ口元はそれなりに暖かいけれど、さすがに頭部に刺さる風までは防ぎようがなかった。道行く人も、みんな一様に前屈みになって寒さを凌いでいる。
12月、冬。ついこのあいだ3年になったかと思えば、次は高等部だ。せっかくの中学生活も、あっという間に駆け足で過ぎていく。あんなに硬かったローファーの踵はすっかりすり減ってしまい、型が残っていた学生鞄も、今では端の方からほつれが見えはじめている。空に被さる重たい雲。分厚くて、今太陽がどこまで昇っているかもわからない。どこもかしこも灰色で塗られている。この季節は、どうにも気持ちが暗くなってしまう。
前方に視線を送ると、ひとり背筋をのばして歩く男子の姿があった。周りと同じくコートを着ていながら、少しも寒がっている様子を出していない。栗色のきれいなショートカット。見覚えのある雰囲気。思わず、足に力が入る。
「お、おはよう!」
「ああ、みょうじさん。おはよう」
ちょっとだけ早歩きをして追いつく。やっぱり不二くんだった。横並びになると、その穏やかな笑みをこちらへ向けてくれる。
「不二くん、ひとり?」
「うん。そうだね」
「もし良かったら、一緒に行ってもいい?」
「いいよ、行こうか」
私の言葉に動じる素振りをこれっぽっちも見せることなく、流れるように反応を返してくる。その微笑みを作る口元からは白い息がこぼれていて、透けるような肌もほんのり色づいていた。恥ずかしい気持ちを押さえ、横を歩く。普段クラスでよく話す方だけれど、一緒に登校するのは初めてだった。
「不二くんって通学路こっちだったんだ」
「ああ、今日はバスが遅かったから、たまたまここを通ってきたんだよ」
「え、そりゃ災難だったね」
すぐそばに誰かいるということもなく、私達の会話が届くのはほんの僅かに狭い空間だ。近づき過ぎないように少し距離を空けて歩く。ポケットに入れたもう片方の手に、柔らかな熱がわいてきた。朝からこういうふうに話せるとはなんてラッキーなんだろう。
「みょうじさんは、確か内部進学だよね」
「うん。そうだよ」
「僕もなんだ。また、同じクラスになれるといいね」
「う、うん!そうなるといいな」
何気ない態度が優しくて、少し話すだけでも背中がむずむずしてしまう。透き通るような声がすとんと体の真ん中に落ちてくるみたいに、不思議な魅力があった。心なしか、歩幅まで合わせてくれているような気もする。いい人。朝から幸せな気分だ。このままスキップでもしちゃいたいくらい。不二くんは、そのさらっとした態度も含めて、他の同級生の男子とはどこか大きく違っていると思う。同じ学年で言えば手塚くんとかもだいぶ大人びてみえるけれど、それともまた違う、なんだか独特な魅力を持っている。
横を歩く不二くんが、そういえばと言葉を残して、鞄を探りだし始めた。私はなんのことだかわからずに、じっとその行動を見つめる。鞄の中から現れた四角いものはカメラで、それを手に持ち、少し楽しそうに笑いかけてきた。
「ねえ、今撮ってみてもいいかな?」
「え!?」
驚く私とは対照的に、不二くんはほとんど冷静だった。
「卒業アルバムに登校風景をいれたくてさ」
「え、えっと、私?」
「うん」
卒業、カメラ。急に言われると混乱してしまってすぐに反応が返せない。何か返事をする前に、「それじゃあ撮るよ」と不二くんが先にカメラを構えてしまったので、私は固まることしかできなかった。カシャ、と聞き覚えのあるシャッター音が鳴る。カメラを外した不二くんは、やっぱりいつものように微笑んでいた。
「えええ、あの」
「現像したら見せるね」
「今ひどい顔したかも、」
「大丈夫だよ。うまく撮れてるから」
そういえば、行事のときも不二くんはカメラ持ってあちこち写真撮ってたっけ。頭の中がぐるぐる混乱している私を横目に、不二くんは満足そうな顔をしてポケットにそっとカメラをしまう。彼が卒業アルバム製作委員だということを、はたと思い出した。
登校する日も残り少なくなったとある昼休み。お弁当を食べているときに、友達のひとりが思い出したように話を振ってきた。「クリスマスに、クラスの皆で遊ばない?」。周りを気にしているのか少し声が小さめだ。冬休みが近く、教室内の空気もどことなくふわふわと浮ついている。箸を口元から下ろし、彼女の方を見た。
「クリスマス?」
「うん、うちのクラス受験しない子がほとんどだしさ、今年最後の思い出作りって感じで」
「へえー…」
「どう、よさそうでしょ」
要するに、クリスマスに行うクラス会というようなものらしい。友達は参加する子の名前を何人か挙げ、楽しさを隠しきれない様子でほのかに頬を緩ませている。そうか、卒業が近いからそんな計画があるのか。自分の中で、年末の予定について振り返る。彼氏がいない私は当然その日に約束なんてない。
「うん、行こうかな」
「お、じゃあなまえも参加っと」
友達がメモ帳に私の名前を書き込む。いちにさんし、と、参加者の数をどんどん数えていくところをみると、かなりの人が一緒に遊ぶようだった。なんとなく、不二くんが来るのかどうか気になってしまったけど、友達に正直に聞かなくてよかったかもしれない。きっとからかわれるだろうから、本人にそのまま聞くほうがいい。
タイミングを見計らって、不二くんの席までいそいそと向かう。机の前に立つと、彼もすぐにこちらに気づいた。教科書をまとめていた手を止めて、不思議そうに私を見上げてくる。心臓がうるさい。
「不二くん、今度のクラス会に行く?」
「ああ、クリスマスの」
「う、うん」
声が少し上擦る。揃えて立つ脚が、どことなく頼りない。クリスマスを一緒に過ごせたりできるのではないだろうか、なんて、私はかなり期待をしていた。不二くんも内部進学組だから、もしかしたら時間をとれるかな、と。しかし、そんな魂胆も不二くんの返事によって、あっけなく崩れることとなった。
「ごめん。その日は家族と過ごすんだ」
「…あ、そ、そうなんだ」
「弟が、寮から帰ってくることになっててね」
不二くんの言葉が、見動きできない私の中をすり抜けていく。笑って気にしてないふりをしてみせたけれど、きっとぎこちなかったことだろう。頬がかたい。こんなことで寂しいとか思ってはだめなのに、肝心の顔にでてしまったかもしれない。
不二くんの弟は私も知っている。途中で転校していったと、噂で聞いたことがあった。確執が原因だとかなんとか言われていて、なんとなく、仲が良くないのかと思っていたけれど、そうでもないみたいだ。私が寂しいと思うことと、不二くんが家族で過ごすのとでは、比べるのもおこがましい。不二くんごめんなさい、と心の中でひっそりと謝る。
「家族でクリスマス、いいね」
「ありがとう」
「じゃ、私、そろそろ」
「あ、みょうじさん」
「え?」
「…いや、なんでもない」
不二くんが、何かを言いかけた。何かを言いかけていた。気になるけれど、チャイムの音が鳴ってしまう。昼休みも終わりだ。周りの生徒がだんだんと自分の席へ戻っていく。私もそれに合わせて、不二くんのところから離れていった。
私達の存在なんてないみたいに、時間はあっという間に流れていってしまう。今年最後の行事。今年最後の登校日。ついに終業式の日を迎えた。相変わらず寒さは激化の一途を辿るばかりで、ほとんどからっぽの鞄だけが救いだった。いつもより深くマフラーに顔を埋めるも、それはただの気休めでしかない。吐く息が集まって、かすかに唇を湿らせる。今日の夜は雪が降るかもしれないと、朝のニュースでやっていた。よくわからないが、大寒波というものらしい。
冬休みが終われば、中等部での生活も終わりを迎えてしまう。受験も相まって、あまり手放しで喜べる状況ではなかった。外部受験組はもっと落ち着かない気持ちになっていることだろう。高等部での顔ぶれは今とほとんど変わらないはずだけれど、それでもやっぱり、新しいクラスでも上手くやっていけるだろうかとぼんやり考えてしまう。今年最後、またこの時期ということもあり、担任の言葉はいつもより力が入っていた。とにかく自宅での勉強を怠ることのないようにと何度も念を押して、私達の顔をしっかりと目に焼き付けているようだった。
終礼を終え、周りと話を始めたり、足早に学校を後にしたりと、各々行動がばらけていく。廊下の向こうから、他のクラスの生徒達が教室を出ていく音がする。この足音とも少しの間お別れなのだと思うと、ちょっとだけ寂しい気持ちが顔を出す。いずれ今度のクラス会でまた会うことになるのだから、私もあんまり長居することなく、そろそろ帰ろうかと思う。友達に別れを告げ、教室のドアを開けた。鞄は相変わらず軽い。
「みょうじさん」
聞き覚えのある声が、私を引き止める。不二くんだ。
「あ、どうしたの」
「ちょっと、時間いいかな?」
「えっと、うん。平気だよ」
不二くんに声をかけられて、私はどうしても平常心ではいられない。途端に冷や汗なのかなんなのかわからないものが、体から滲みだす。なんとなく周りをキョロキョロと見回して、不二くんの手招きする方へついていった。
3年の廊下を抜け、校舎の中を歩いていく。暖かいところで話をしたいと不二くんは言うけれど、私達が向かう先はどんどん校舎の隅に追いやられているようだった。頭の中にいくつかの疑問が浮かぶ。なんの用事か、まだ分かっていない。
着いた先は写真室だった。不二くんは慣れた手つきで鍵を開け、好きな所に座ってと、私に促す。薬品のような掠れた匂い。奥に暗室がある以外は、他の部室とそう変わらない作りだった。長机の傍にあるパイプ椅子に腰掛ける。冷たい。
「えっと、話って何かな…」
今の状況からどうにか楽になりたくて、不二くんがなにか言う前に、話を切り出す。暖房がききはじめて段々と寒くはなくなったものの、足先はびっくりするくらい冷えていた。緊張している。何を言われるのか、まったく見当がつかない。
「本当は、教室で渡そうかとも思ったんだけど」
そう言って、不二くんは鞄の中から封筒を取り出す。中身は写真だった。目や口が薄く半開きになって棒立ちしている、私の写真。このあいだ、登校のときに不意をつかれて撮られたものだ。
「あ!それ!」
「うん。現像が終わってたから」
「ちょ、いや、ひどいこれ」
慌てて写真を裏返す。なんという姿を撮られてしまったのだろうか。あんまりにも酷い顔だったから、一瞬でその姿が脳裏に焼き付いた。半開き。目も口も。不二くんは、ごめんね、と言ってまた笑う。
「僕は自然でいい出来だと思うんだけど」
「いや、これはちょっと…」
「ごめん、からかいすぎたね」
口で謝っていても、相変わらず笑みを浮かべたままだ。からかったということは、不二くんもやっぱりあれをひどい写りだと思ったんだろう。恥ずかしい。汗が止まらない。
「これもアルバム用に撮ったんだ」
写真室の棚から、また封筒を持ってくる。中身は主に行事の写真がほとんどであるが、6組の授業のとある場面だったり、クラスでグループがお弁当を食べているシーンだとか、そういった何気ないものも記録に残されている。写真に写る皆はどれも楽しそうに笑っていて、卒業アルバムを飾るものとしては、これ以上ないくらいとてもいい写真に見えた。
「あ、これすごくいい!不二くんすごいね」
「こんなのもあるよ」
「どれ?」
不二くんが山の中から1枚の写真を取り出す。そこには、髪を乱しながらも満足げにピースをして笑っている菊丸の姿があった。肩には白いゴールテープ。きっと障害物競争で1位をとれたときに撮ったものだろう。体操服のお腹の部分が砂で汚れている。
「うわー、あったあった」
「このとき確か英二が珍しく転んだんだよね」
「そうそう、それでも速くって、皆びっくりしてたやつ」
「うん」
どれを見ても、懐かしい話が口をついてぽんぽんとでてしまう。不二くんもいつもにまして笑顔だ。楽しい思い出の写真を見たから、というのもあるけれど、思った以上に深刻そうな話でなくて、心底ほっとする。そんな私の神経は、少しずつ別なところに向かっていた。不二くんに悟られないように、登校途中に撮られてしまった写真を、こっそり手元に寄せる。回収したい。
「ねえ」
「え、えっと、何?」
とっさのことに、大げさに肩が揺れる。写真の上に手だけを置いて、必死に隠そうとしている私はひどく滑稽に見えたことだろう。不二くんは、それに対して特に反応を見せず、予想とは別の言葉を投げ掛けてくる。
「今、また撮ってみてもいいかな?」
「えええ」
不二くんが後ろ手にカメラを持っていた。必死に首を横に振るも、その手を下げる素振りなんて少しも見せてくれない。何歩か後ずさり、私の背中は近くの本棚にぴたっとくっつく。
「いやいやちょっとだめだめ」
「そう?」
「うん、写り悪かったし!私写真苦手でさ、」
「そっか。残念だな」
「…ふ、不二くんの前じゃ油断できないな」
私の鬼気迫る表情に気圧されたのか、ようやく不二くんはカメラをしまう。カメラが鞄の中に隠れたのを見て、思わず溜め息が漏れた。体から力が抜け、心臓だけがとめどなく動いている。またみっともないところ見せてしまった。そりゃ、撮っても見栄えするならカメラを向けられるのも嬉しいことだけれど、すでにあんな写真を見せられては、どうしようもない。
パイプ椅子に再び腰を下ろして、上体をべたりと机に倒す。顔が熱いから、ひんやりとした長机の感触は気持ちいい。これ以上ないくらい火照っている。不二くんも向かいのイスに腰掛け、机の上にだされた写真を丁寧にひとつずつ集めていった。カーテンがしまっているせいで外の様子もよくわからない。時計を見る。まだ13時だった。頭がぼんやりしているのは、恐らく暖房のせいだろう。鼻のあたりがつんと痛くて、なんだか体全体が重たい。ふくらはぎに当たる椅子のパイプ部分は、変わることなく冷たいままだ。
「クラス会、もうすぐだね。僕も気になってくるよ」
「…写真撮りたそうだね」
「うん。でももし行くとしたら、カメラは持っていかないと思う」
「えっ」
空気が一瞬静かになる。不二くんの言葉にびっくりして、長机から勢い良く上体を起こした。顔を上げている私とはまた対照的に、不二くんは、手元の卒業アルバム用の写真に視線を落としている。藍色がかった瞳が、長い睫毛から覗く。白い肌にはひとつもあらがない。気に障るようなことをしてしまったかと思ったけれど、やっぱり口元には笑みが浮かんでいる。
「今度から、みょうじさんと会うときはカメラも控えるよ」
「え、私が色々言ったから?ご、ごめん」
「…いや、ちょっと違うかな」
唖然としている私に向かって、不二くんの視線が段々と上がってくる。そのコンマごとの動きも、あまりに綺麗すぎて目を離すことができなかった。正面から真っ直ぐ貫かれてしまい、思わず息を呑んでしまう。写真室の中に、音はほとんどない。あるとすれば、秒針の動く音が辛うじて、だけだ。足先がまた痺れるみたいに冷えていく。緊張をしているなんてことは、火を見るよりも明らかだった。不二くんの形のいい唇が緩やかに動く。
「それがなかったら、少しは油断してくれるらしいからね」
透き通るような声が、すとんと体の真ん中に落ちてくる。さらりとなんでもないように言われて、汗をかくのは私ひとりだった。
見せてほしい
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