プロローグ



 私が、まだ幸せだった七歳の秋。

 あの頃の私の家は、現世げんせとは別次元の場所にあった。
 千本鳥居とりいの石段を上った先、お狐様の石像が両脇に設置された瓦葺かわらぶきの朱塗しゅぬりの門をくぐれば、大きな神社のような立派な拝殿はいでんが構えられた、石畳を敷き詰めた広場に出る。
 居住となる寝殿しんでんは、拝殿の奥に建つ大きな日本屋敷。

 旅館と表現するより、平安時代の貴族の屋敷に似ている。屋敷の奥にある、中島に橋を架けた滝と紅葉を楽しめる庭園だって、池泉回遊式ちせんかいゆうしきと呼ばれる広大な池。

 そんな美しい和風の庭園を一望できる縁側で、私は純白の髪が美しい男の膝の上に座っていた。
 名前は、ミケツカミ。愛称はミケ様。稲荷神いなりがみ眷属けんぞくの頂点に立つ狐の神様。
 たまに白い狐の姿になっているから、本当なのだと知っている。
 縹色はなだいろ狩衣かりぎぬ――平安時代の着物の一種――を着こなす姿は格好良くて、お母さんがれるのも解る気がした。

「お父さん。お母さんのおなか、おっきくなったね。どうしたの?」

 いつ見てもきない庭から視線を外して、お父さん≠見上げてたずねる。
 すると、お父さんは金色の瞳を細めて穏やかに微笑んだ。

「子をさずかったのだ。お前に弟、または妹ができる」
「……えっ、本当!?」

 現世にある学校では、兄弟がいる同級生がいた。
 私にも兄弟ができると聞いて喜色満面になると、お父さんは喉を鳴らして笑う。

「男の子? 女の子?」
「生まれてからの楽しみだ。その前に名前を決めなければ」
「名前……。私と同じで、花の名前は?」

 私の名前は、さかき奈桜なお
 名字の榊は、神様の依代よりしろになる神木。
 名前の奈桜は、赤い林檎と、淡い紅色の花が美しい桜の木。

 可愛い名前だから、生まれてくる弟妹にも同じように名付けられたい。
 すると、お父さんは笑った。

「実は我も同じことを考えていた」

 嬉しそうなお父さんを見て、私も嬉しくなった。

「ちなみに奈桜の名前は、本当は『千桜ちはる』と名付けたかったのだ。千の桜と書く」
「ちはる? 綺麗な名前だね」
「そうだろう。だが、美春曰くDQNネームだから良くないと止められてしまった」

 美春とは、お母さんのことだ。
 いつも肯定的こうていてきなお母さんが止めるなんて意外だったけど、私は聞きなれない言葉に首をかしげる。

「ドキュン?」
「痛い名前、ということだ。まったく……人間の考えることは、よく分からん」

 なやましげに溜息ためいきくお父さん。

 お母さんは人間だけど、今はお父さんの眷属。けど、人間としての感性は消えてない。
 私はお母さんの思うことは理解できる。でも、綺麗な名前が痛い名前というのは共感できない。奈桜も可愛いけど、千桜が良かったなぁと思ってしまったから。

「名付けの由来は、神々の世界――高天原たかまのはらで見た景色なのだ。あの美しさが忘れられず、我が領域の鳥居の周囲に同じくらいの桜を植えた。千本桜の景色のような美しい心を持つ子供に育ってほしい。それが『千桜』の由来だ」

 そんな意味が込められていたなんて思わなかった。
 自分に、そんな素敵な名前を名付けられなくてくやしいという気持ちが芽生えた。

 でも、それ以上に……。

「……じゃあ、妹が生まれたら、その名前がいい」

 新しくできる家族が楽しみだった。そして、素敵な名前を体現した妹が欲しいとも。
 お父さんは、そんな私の気持ちに気付いたのか、大きな手のひらで優しく頭をでた。

「なら、一緒に美春に言おう。美春は奈桜に弱いからな」
「うん!」

 新しい家族ができて、にぎやかになって、楽しい日々がやってくる。その時は強く感じていた。

 だが、現実は残酷だった。
 その二ヶ月後の冬に、家族をうしなったのだ。



◇  ◆  ◇  ◆



 あの冬――両親の死後、母方の実家に引き取られた。

 そこからが地獄だった。
 家柄で巫女になることを強制されて、趣味を探したくても自由はなくて。更にその家の子供が学校で私を『幽霊女』と言い触らして、孤独になった。

 誰もが私から遠ざかった。中にはいじめてくる人もいた。
 中学校に上がっても続き、高校生になっても変わらない。
 こっそりバイトでかせいだお金も、叔母おばうばい取られ、バイトを辞めたこともある。

 すさんでいた心が死んでいく。生きている意味を見出せない。
 だから私は、最初で最後の反撃に出ることにした。



「奈桜、考え直してくれ」

 ――月日が流れ、八年後。

 高等学校の屋上。鞄を置いて上履うわばきを脱いだところで、後ろから声をかけられた。
 振り返ると、教師でも在学生でもない二人の男女がいた。

 一人は、一つに結わえた長い襟足えりあしが特徴的な純白の髪と、色気が滲み出る切れ長で凛々しい紫紺しこんの瞳の、二十代半ばに見える眉目秀麗びもくしゅうれいな美男。

 一人は、桃色の瑪瑙めのうで毛先を三つ編みでまとめたプラチナブロンドの長髪と、涼やかな目付きに漆黒の瞳が特徴的な、二十代に差し掛かった頃と思われるはかなげな美女。

 人間を超越した美を誇る二人は、人間ではない。

 男は、紫色の和服と紫黒色のはかま、金糸と青系の糸で桔梗や流水を刺繍ししゅうした白い羽織。

 女は、藤色の袴に、白と緑の菊綴きくとじ・銀糸で流水・ピンク色と緑色の糸で桃の花を刺繍した、長い金色の帯で締めた薄桃色の水干すいかん、柔らかなうすぎぬの羽衣。

 現代とはかけ離れた服装もあるが、一番は……人間には無いものがあるという点。

 男の耳は、狐の耳。四本も生えている、ふさふさの尻尾も狐のもの。
 女の背中には、仄かに光り輝く白金色の鳥の翼。
 そして、体外へ滲み出る霊力。

 常人なら人体に異常を感じるだろう清廉せいれんな霊力は、いつもなら限りなくおさえ込まれているはず。けれど、ここには私達しかいないから、抑える必要はない。
 二人の姿は、現代の常人には目視することすら叶わない。
 大昔は退治される側であったが、二人は長い時を生きて神格の力にいたった存在。


 ――妖怪。現代ではそう呼ばれる、異形のものだ。


 男は天狐てんこと呼ばれる、千年以上も生きて神通力や神格の力を得た妖狐。
 女はぬえと呼ばれる、一般的に知られている合成獣ではない美しい怪鳥。

 何故なぜ、そんな二人が学校の屋上にいるのか。
 その理由は、私の家族であり、式神だから。

 式神とは、彼の有名な陰陽師おんみょうじである安倍晴明あべのせいめいにもいたという、神や妖怪を自身の眷属――配下とも言える――にくだしたもの。

 私が五歳の時に天狐、七歳の春の時に鵺と出会い、家族に迎えるために眷属にした。

 今となっては、家族にしたことを後悔こうかいしている。
 何故なら私は、これから死ぬのだから。

「お願いだからやめてください! こんなことで、貴女が死んでいいはずがない!」

 鵺が悲痛な声で止めようと訴える。
 でも、やめるつもりは毛頭ない。何度も苦悩くのうしたすえに選んだ道だから。

「……やめて、どうするの? 私に人間の味方はいない。何を言っても、私を悪に仕立て上げる。死なないと、彼らはい改めないでしょう?」

 口元に笑みをくが、綺麗に笑えているかあやしい。
 ここ最近、上辺だけの笑顔しか作ってないから、きっと目は笑ってない。

「ちゃんと証拠品も日記も遺書も鞄の中に入れた。成功するのか分からないけど、世間にさらすことはできる」
「だからと言って……!」

 いきどおる天狐の苦しげな表情に、心が痛む。

 初めての眷属である以上に、私の思い人。
 彼を苦しめるのは心苦しいけど、もう後戻りはできない。

 でも、せめて、心だけでもそばに……。

ひいらぎ

 生まれながら具える能力の一つに入れている物を手元に出して、天狐に投げ渡す。
 天狐は、両手で受け取った物を見て瞠目どうもくした。

 ――それは、両親から誕生日にくれた、花籠はなかごかざりがついたかんざし
 銀製の籠の中に鈴、格子一本一本にピンク瑪瑙と一緒に短冊たんざくが下がっている。それを付けた本体は、銀メッキをほどこした榊。私の姓名と同じ植物が素材だ。

 私の宝物を受け取った天狐が固まっている間に、私はフェンスを飛び越えた。

「これから私は消えるけれど、心は傍にあるから」

 我に返って顔を上げる天狐に、親愛を込めて柔らかく笑う。
 笑っているはずなのに、目の前がぼやけて景色が判らない。

「柊、あずさ。今までありがとう」

 眷属にしたことを後悔した。けど、出会ったことに後悔はない。

「愛していたよ」

 だって、こんな私を支えてくれた二人が愛おしいから。

「さようなら」

 ほおつたう温かいしずく
 それが涙だと気付きながらもぬぐうことなく微笑んで、視界を閉ざした。

「奈桜っ――!」

 静かに体をかたむければ、重力にしたがって逆様さかさまになる。

 ふわっとした浮遊感。その直後の圧迫感。
 天狐の声が脳に残響する中、身を引き裂く痛みを感じ、意識を手放した。



 全てを捨てて、この世から去った。
 輪廻の流れに加わって、たましい漂白ひょうはくし、何もかも消してしまう。


 ――そのはずだったのに、どうして神様は残酷なことをするのだろう。