うそつきと宝石

人生の分岐点

 今更、もうこのボタンを押す気にはなれない。俺は何の力も持っていないし、何の希望も持つことができない。どう考えたってそうだろう。望みはない。こんなことなら死ぬまでここに居た方がマシなのかもしれない。沙友里と静かに暮らしていけばよかった。その方がどれだけ幸せだっただろうか。愛情に似たものも彼女には湧いていた。
 だがもう遅い、すべては終わったんだ。



 天気雨が降り出した。雲はそんなになく、太陽が顔を出しているというのに、どこからか雨が降ってくる。秋なのによく分からない空だ。
 俺は突然降り出したその雨に舌打ちをした。住宅街に原付を停めて 時折 現れる通行人を物色していたが、三十分ほど待機して現れたのは三人。
非常に人通りの少ない閑静な住宅街なのだ。
 一人目は犬を連れた三十半ばの女、二人目はジョギングをする若者、三人目は手ぶらで歩く老人。どれもパスだ。
犬に吠えられては敵わないし、手ぶらで歩く人間を襲っても意味がない。
 忍耐が必要だ。今は焦らずじっくり待つしかない。
 ポケットからマルボロを取り出して煙草の先端に火を点けた。もう手元には煙草を買う金さえ残っていない。俺は苛ついていた。煙を肺の奥深くまで吸い込んで思い切り吐き出し、もう一度舌打ちをした。
 金が欲しい。金さえあれば何だってできる。どこかのプロレスラーも似たようなことを言っていた。本当だ、金さえあれば何だってできる。
 真面目に働くなんていうことは頭になかった。もう働くのはまっぴらだ。
真面目に働いていた俺を裏切ったのは社会の方なのだから。


 俺は注意深く通りを見渡した。
傘も持たず、布地のパーカーを着ただけの俺に雨が冷たく降り注ぐ。
 バッグを携えた細身の若い女が向こうへ歩いていく姿を視界に捉えた。いかにも華奢で、簡単に奪えそうだ。
 決まりだ。
 煙草を水溜まりに投げ捨て、俺は原付のエンジンをかけた。いつもの逡巡がやってきたが、それはもう限りなく短かった。初めのうちは親の顔まで浮かんだものだが、今となってはうまく事が運ぶかどうかというようなゲームにも似たスリルを味わうだけになっていた。
 いつも思いを馳せるのは神の存在だった。いつ自分にツケが回ってくるのか。俺はなかなか悪運が強い方なのだろう。憎まれっ子世に憚るってか。
 俺はもう、善良な一般市民には戻らない。戻れないんだ。
 スロットルを回して走り始めた。焦ってはいけない。速度は控えめに、エンジンをふかしすぎて相手を警戒させないよう徐々に速度を上げていく。女の姿が目前に迫った。よく見ると女は良い身なりをしていた。バッグの中身にも期待できるかもしれない。女を射程範囲に捉えて俺は走行速度を上げた。
 バッグに手を伸ばし、走り去る。
 ひったくる事には成功したが、女が反射的に抵抗し原付はバランスを崩した。濡れた路面にスリップして二十メートルほど先で横転して止まり、俺も道路を激しく転がってその手前に投げ出された。
 女が駆けてきて必死にバッグにしがみつく。

「返してください、お願いします」

 原付で転んだわりには何処も怪我はなく、ねずみ色のパーカーも破れてはいなかった。

「ああ返すよ、返せばいいんだろ。それから俺を警察に突き出すわけだ」

 俺は開き直っていた。女に向かってバッグを放り投げた。その時、宙に浮いたバッグから小さな箱が飛び出した。女はおかしなことにバッグなんかどうでもいいといった風に、胸にぶつかるよう飛んでいったバッグを避け、その箱を掴んだ。シンプルな造りだが、どことなく重厚感があった。色は黒だ。

「なんだその箱は。鞄より大事なのか?」
「あ、これはだめ、触らないで。その財布なら持って行っても構いません。カードの類は入っていないし、あなたに必要なお金ならその中にあるはず。もう行ってください」

 女は恐れも警戒も表さず、穀然とした態度で言い返してきた。面白くなかった。俺は自分の立場を忘れて女から箱を取り上げようとした。
 それは何やら特別な存在感を放っていた。思い入れがあるだけのチンケなものかもしれないが、もしかすると、ものすごく高価なものなのでは。そう思い俺は箱に手を伸ばし、女は慌てて後退る。だが俺の手はもう箱をしっかりと掴んでいる。見ると箱には銀色の装飾で縁取られた青いボタンがついていた。
 女と取り合いをしているうちに俺の指がボタンに触れた。その途端 強い風圧を感じ、次の瞬間、脇を勢いよく通り過ぎようとしていた車がブレーキ音も無しにぴたりと動きを止めた。飛んでいたカラスも空中で静止し、様々な物音が消え、完璧な静寂が訪れた。

「なんだ、何が起こったんだ?」

 俺はその変化に面食らった。

「そのボタンから指を離してはだめ!絶対に離さないで!」
「な、何を…」

 天邪鬼な俺は、その箱が欲しかったなんてことも忘れて、女の言葉を聞き入れずにボタンから指を離した。
 するとすぐさま目の前が真っ暗になり、何も見えなくなった。そして息苦しくなる。呼吸ができない。



 怖い。



 そう思った時、何かが手首を掴んだ。光が甦り、呼吸ができるようになった。思わず噎せ返る。

「ど…どうなってるんだ…全部その箱の仕業なのか?お前、一体何者なんだよ。なあ、説明してくれ!」

 俺は軽いパニックに陥って女に詰め寄った。

「落ち着いて」

 女は取り乱す俺とは打って変わって酷く落ち着いていた。
 彼女はボタンを押した。静寂の中にいた耳が周りの音を捉え、すべてがノイズのように鼓膜を突き抜けた。動きを止めていた車は走り出し、死んでしまっていた世界は息を吹き返した。

「…そうね、説明しなきゃいけないわね。これはわたしのミス。あなたがひったくり犯っていうのも、もう関係ないわ。誰かに協力してもらった方がいいのかも。とりあえず場所を変えましょうか」

 横転したバイクの音に人も集まりかけていた。俺はバイクを起こし、途方に暮れた。
フェンダーがタイヤにめり込み、押して歩こうにもビクともしない。

「これ、盗難車なんだ…」

 俺はしょげ込んで女に言った。
 あきれた。とでも言うかのように女は俺に背を向けて歩き出した。


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