うそつきと宝石

狂った世界に酔う

 沙友里の部屋は市街地に聳え立つ高級マンションだった。日はとっぷりと暮れていた。街灯が灯って、少し遠くで犬が遠吠えをしている。
俺は訊いた。

「すごく高そうなマンションだな。お前が言っていた『おいしい思い』って一体どんな感じだったんだ?」

沙友里はエレベーターのボタンを押しながら答える。

「時間が止まっていればありとあらゆる事が可能になるからね。わたしの場合、回数は重ねなかったけれど、ひとつ大きなことをしたわ」

エレベーターが下りてきた。扉が開く。

「大きなこと?」
「わたしに嫌な思いをさせた知人への復讐ね。詳細は話したくないわ」
「そうかい。これ以上訊かないでおくよ」

 ありとあらゆる事が可能。魅力的な言葉だ。
俺たちはエレベーターを降り、沙友里は十一階の角部屋の前で立ち止まって部屋のキーを出した。

「さあ、ここがわたしの部屋よ。上がって」

広い部屋だった。大きなソファがあり、これまた巨大な液晶テレビがあり、ワインセラーに何本ものワインが冷やされていた。本棚にたくさんの書籍が並び、最新の運動器具があり、床にはヴェルベットの絨毯が敷かれていた。それだけのものが配置されてもなお、部屋は広々としていた。

「すごいな。こんな部屋、入ったことがない…」

 俺は度肝を抜かれた。

「わたしを裏切った知人への復讐で得たお金だからね、そこまでの罪悪感はないわ」

沙友里は靴を脱いで俺をソファに座るよう勧めてきた。

「一人暮らしで部屋に誰か人を入れることもないと思ってきたから座れるのはこれしかないの。わたしもここに座らせてもらうわ」

 沙友里は俺の隣に腰掛けた。ふわっと清潔感のあるシャンプーの匂いがした。そこで初めて俺はどぎまぎしている自分に気付いた。あまりにも俺の近くに座るものだから、少し身体を動かせば彼女に触れてしまう。そんな距離にあった。

「どうしたの?」

急に固まった俺に沙友里が訊いた。俺の反応を面白がっている風もある。

「いや、どうもしない。話をしよう」

彼女が俺の顔を覗き込むものだから、俺は必死に首を横に振った。沙友里はまた微笑んだ。

「機械を安全に処分するにはどうすればいいと思う?壊すこともできないし、海に沈めても何処かに流れ着いてしまう可能性だってあるわ」

俺は暫く考え込んだ。

「恐らく100%の方法なんかありゃしないさ。コンクリート詰めにしたって、重りをつけて海に沈めたって、何十年かしたら何らかの原因で人の手に触れてしまうかも知れない。応急処置にしかならないんじゃないか?」
「そうね、困ったわ。どうすればいいのかしら」

 そんな他人のことなんか考えていないで自分の欲望の為に機械を使ってしまえばいいのにと俺なら考えるが、そんなこと今は口に出せない。女に協力している風を装わないと俺はこの部屋から追い出されてしまう。それだけは避けなければならない。色々な可能性が俺の元から去っていってしまう。
 しかしこんな美人とこんなにも面白い機械があって、それを自由に使って生活できたらどんなに楽しいだろう。胸の黒い染みも二人で共有して刹那的な人生を送れるかもしれない。なんて勿体ないんだろう。しかし、それには沙友里は真面目すぎる。
 でも、もしかしたら勿体ないのは俺の方なのか?この得体の知れない人に危害を及ぼしかねない機械を処分したのを区切りに沙友里と新しい人生を歩み始める。それも良い。
 どうだ?俺に向いているか?
 いや、そんなはずはない。
俺はどっちに転んでも悪人だ。でもどうしたんだ?夢の機械を前にして、俺は沙友里と出会ってからこんなことばかり考えている。どうしてしまったんだ。目を覚ませ。

「どうしたの?何か考えているの?いい案は浮かんだ?」

 沙友里が根っからの善人の顔をこちらに向けて訊いてきた。
俺は話を持ち掛けてみることにした。

「そうだなあ。浮かんだといえば浮かんだかもしれない。この機械を安全に、誰の手にも触れずに処分することは俺たちには恐らく不可能だ。ただ、もっと巨大な組織か何かには可能かもしれない。でもそんな奴らにこの機械を委ねるわけにもいかない。そうだろう?自然な考えだ。そこでだ。この機械は俺たちが所持していよう。すべからく使う時がきたら使う。肌身離さず持ち歩いてな。俺はお前のボディガードをしてやる。どうだ?」
「それもいいわね。あなたもようやく目を覚ましてくれたのね。けれどどうだろう、信用してもいいのかしら。ああ、わたしも疲れたわ。機械のことは忘れて少し休みましょうか。あなたお酒は飲める?」

 話がいい具合に転び始めた。しかしふと思う。
うまくいきすぎてないか?
二人でこの機械を所持するということは、この部屋に俺が住まわせてもらうということじゃないのか?言ってから気付いた。それを沙友里はすんなり受け入れたようにみえる。

「そうだな、ワインなんかろくに飲んだこともないけど、俺もたまにはアルコールが欲しいな」

俺も少し疲れていた。他人とこんなに長い間一緒にいて話をしたのは久しぶりだ。気疲れしたのだろう。

「わたしもずっと一人で寂しかったし、たまには誰かとお酒を飲むっていうのも悪くないわ」

沙友里は立ち上がってワインセラーから白ワインを一本とグラスをふたつ持ってきた。ソファ前のテーブルにそれを置き、グラスにワインを注いでくれた。俺たちは静かに乾杯する。
沙友里はワインで口を湿してから、

「あなたの名前をまだ聞いていなかったわね」

グラスをテーブルに置いて言った。

「ユウジと呼んでくれ」
「ユウジ。良い名前ね、あなたは何でひったくりなんか始めたの?」
「…俺も自分がこんな人間になるなんて思ってもみなかった。道を踏み外したんだ。高校を出て真面目に車の修理工場で働いていた。しかし給与に満足がいかず二年で辞めた。もともと車が好きでやってた訳でもなかったしな。次は給与が良かったもんでセールスドライバーをやってみた。しかし慣れないうちは件数が稼げない上に、会社に戻ってからの伝票整理にも時間を食って金が稼げないから辞めた。根性がないのに高望みしてたんだ。それからも職を転々として、最終的に二十八の時、電線会社に入った。結構大きな会社だったよ、契約社員だったけどな。リフトを運転して製造された電線の出荷作業をやっていた。あまり仕事のできる方じゃなかったが、今度は嫌気もささず、一応真面目に働いていた。でもリーマンショックでリストラにあい、なくなく退社した。うまくいきそうだったんだ。仲間や上司にも恵まれ、ここでずっと頑張ろうと思っていた。そんな矢先だった。ショックも大きかったし、失業者も多くなかなか仕事が見つからない。もう何もかも嫌になってヤケを起こしたんだ。今はろくに住む場所もない」

 俺は言い終わって、グラスに半分ほど残っていたワインを一気に飲み干した。
 こんな事を話していたらまた胸が疼いてきた。沙友里、お前は俺を引き摺り上げてくれるのか?これが最後のチャンスのような気もする。でも二年前のように俺は真面目に働けるのか?
 いや、違う。のらりくらり生きた方が楽に決まっている。

「あなたも苦労してきたのね。さっきまでひったくり犯のイメージしかなかったけど印象が変わったわ。工場で働く真面目な青年だったのね。お金ならあるわ。生活に困っているのなら当分ここに居ていいのよ」
「それは有難い。でも本当にいいのか?」
「ええ。この機械を守る為に二人で協力しましょう」

 かくして俺は沙友里の部屋に転がり込むことになった。
どうしたんだろう、すべてがうまくいく。
胸の痛みをずっと耐えてきた俺に、神様がチャンスを与えてくれたのだろうか。それをどう捉えるかは俺次第のようだ。

「ユウジ、また何か考えてるの?悪いことは考えないでね。あなた、よく見るとかわいい顔をしてるし、わたし、あなたにここに居てほしいのよ。ずっと一人で寂しかった。わたしを助けて。ずっと寂しくこの機械のお守りをするのには耐えられないわ。お願いだから行かないでね。行くならわたしも連れて行って。何でこの機械壊れないのかしら。壊れてくれたら楽になるのに。でもそうなったらあなた、わたしを置いていくんでしょうね、そんな気がする。それなら壊れない方がいいのかも」
「俺は行かないさ。そりゃあこの機械は俺にとって魅力的だったし、手に入れたかった。でもあんたにだって同じくらいの魅力がある。安心しろ、俺は行かない」

 ワインはいつの間にか二人で空っぽにしてしまっていた。俺は酒に強くはないので、目がとろんとなって呂律が回らなくなっているのが自分でも分かった。
沙友里は平静を保っていた。

「あなたがずっとここに居てくれるって言うのなら、嬉しいから今夜は一緒に寝てあげてもいいのよ」

沙友里は俺の顔を覗き込み、首を傾げて言った。

「な、何言ってるんだ」

 俺は慌てた。

「そうやって照れるところもかわいいわね」

 沙友里はそう言って微笑んだ。
 彼女は危ない機械に振り回され、本当にずっと一人で寂しかったのかも知れない。俺も彼女に情が湧いているのは確かだった。美しい沙友里と平穏に暮らすのか、機械を使って欲望を満たし胸の痛みに耐えるのか。俺の自由だ。選択権は俺にある。贅沢な悩みじゃないか。
 気付くと時計は夜の十一時を指し示していた。

「今日は疲れたな。お前もそうだろう。そろそろ休まないか?俺はこのソファで寝かせてもらうよ」
「そう、じゃあお休みなさい。わたしじゃ不服だったのね」
「馬鹿言え、違うよ」

沙友里は自分の右手を少しだけ俺の左手に重ねてから立ち上がった。



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