うそつきと宝石

笑ってくれなんて言えずに

 沙友里は眠りに落ちたようだった。そろそろ休まないかと言い出したのは俺の方だったが、なかなか寝付けなかった。
 窓辺に立って街を見下ろす。きれいな景色だった。
 空には星と月が輝き、眼下には人が作り出した光が点々と灯っていた。俺は小さな世界に生きていたんだなあ、とふとそんなことを思った。この無数の光の中の小さな一点で暮らし、働き、躓いて過ちを犯し…。
 また虚しさが心を覆う。いや、切なさと言うべきだろうか。沙友里を残してあくまで悪の道を突き進むのか、沙友里を信じて丸太の上に登ろうと試みるのか。俺が今立っているのは所謂、ターニングポイントというやつかもしれない。
 俺の中で考えが二つに分断していた。

―――このまま沙友里と機械を共有して二人で暮らす―――これは彼女が本気なら、の話だが。それに俺が機械を操作できる自由度は狭まる。

―――機械を盗み、さらに金を手に入れる―――沙友里が眠っている今ならチャンスだし、その後はやりたい放題だ。

 街を見下ろしながら考え抜いた末、俺は行動を起こした。そう、機械を盗むことに決めたのだ。金さえあれば女なんかいくらでもついてくる。
 正直、沙友里に情が湧いて後ろめたいのも事実なのだが、俺は欲望を止められない人間なのだ。
 酒が回り、沙友里は揺すっても起きないほど深く眠っている。今なら簡単に機械を手に入れられる。俺は彼女のバッグを漁り、機械を盗み出した。ついでに金も少々拝借した。沙友里の寝顔を暫く見つめて、そのままマンションを出る。彼女のことはもう忘れよう。
 ドアノブに手を掛けた時、後ろから沙友里の声がした。

「ユウジ…どこに行くの?」

振り向くと悲しそうな顔をした沙友里が立っていた。

「待って…」
「ごめん、沙友里」

 俺は機械のボタンを押した。
風圧が身体を突き抜け、沙友里がぴたりと動きを止めた。
 沙友里、すまない。止められないんだ。俺は欲望しか持っていない、ろくでもないダメ人間なんだ。





 深夜の街に出た。
沙友里のマンションから遠く離れてボタンを押した。タクシーを捕まえて連絡をしてから県を跨いでビジネスホテルにチェックインした。タクシーの運賃は今まで見たこともないくらい高額だった。
 俺は美術館を狙うことにしていたが、この時間ではもう閉館している。開いている時に堂々と盗んだ方が楽だ。焦ることはない。機械はこの手の中にある。何だってできる。捕まりそうになったって、殺されそうになったって、このボタンを押せば助かる。極端に言えばそういうことだ。
 入った部屋はさっきまで居た沙友里の部屋とは違い、殺風景で生活感もない。眠ろうとしても沙友里のあの悲しそうな顔が浮かんでうまく寝付けなかった。今からでも遅くない、戻ったっていいんだぞ。そんな心の声が聞こえたが、いつものように俺の中の悪魔の囁きがそれを打ち消した。俺はそういう人間なのだ。



 朝になり、もう一度タクシーを捕まえて都内の美術館に向かった。美術館なんてろくに入ったこともないが、今の俺には大事な用がある。一仕事させてもらおう。
 立派な美術館だ。きっと高価な美術品が山ほど展示されているのだろう。それほど詳しくないが、有名なものならいくつか知っているし、分からなくたってとりあえず大きな物ならそれなりに値も張るだろう。
 迷いのない足取りで中へ入り、館内を見渡す。
 そういえば大きな絵画を盗んだ場合、どうやって運び、どこに売り捌くかなんてことを全く考えていなかった。でもまあ大丈夫だろう。時間を止められるんだ。どうにでもなる。今更、後先考えたって仕方ない。美術館がダメなら他を狙えばいい。
 もう迷うことはない。俺は勝利を手にした。
ロビーの中央に立ち、機械を取り出す。誰も俺の動きなんか見ちゃいない。絵画に夢中だ。俺はボタンを押した。
あの時のように風圧が身体を突き抜ける。疎らに居た人々は静止し、空間は死んだ。
 俺はぞくぞくした。何だって出来る。俺の自由だ。神になった気分だった。機械を握りしめて一番高そうな絵画の前に立つ。
 何か踏み台がないと手が届かない。手頃な大きさの机をロビーから何とか運んできて足場にし、絵に手を掛けた。大きな絵なので両手を使わなくてはいけない。片手には機械を握ったままで、なかなかに難しい作業だった。



ふと、気を抜いてしまった。



 俺は手を滑らせ、絵が頭の上に降ってきた。
そういえばこんな公共の美術品なんか闇商人しか買ってくれないか…。そんなことが頭に過りながらも、己の身を捨て機械を必死に握りしめた。手を離せば、それは俺自身の死を意味する。すべてがスローモーションで再生されていく。
 頭を床に打ちつけ、目の前が真っ暗になった。



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