「尽ちゃん、今良いかい」

ばったり脱衣所鉢合わせ事件から1時間半が過ぎた頃。
東堂は双葉の夕飯である肉じゃがを特別に一から作り、温かいうちに食べさせた。
美味しい?と尋ねれば、ああ美味しいよ。
そう真顔で返された。
双葉は表情筋が非常に固いのか笑うことがない。
記憶が確かであれば東堂は生まれてこのかた彼女の笑顔を見たことがない。
アルバムを見せて貰えば笑顔の1枚や2枚はあるだろうが、東堂が見たいのは作り笑顔でない自然な笑顔だ。
いつか彼女から自然に笑い掛けてくれるだろうと特別気にしたこともなかった。
何より東堂は双葉の発する言葉を信じている。
例え料理の感想を無表情で返されたところで凹むような弱い精神は持っていなかった。

「姉上、何用なのだ?」

ああ、大したことではないのだが。
そう双葉が話を切り出す。

「皆は元気かね?」
「元気も元気。姉上の知る皆と変わらないのだ」
「そうか」

ふむ、と頷き双葉は後手に持っていたドライヤーを東堂に手渡した。

「いつものを頼む」
「む、了解だ」

東堂の前に体操座りで座り込んだ双葉を見、ドライヤーの温風を湿った髪にあてる。
上等な櫛で髪を梳きながらドライヤーを持つ手を動かす東堂。

「尽ちゃん嬉しそうだな。巻ちゃんから連絡でもあったのか」
「いや、無いぞ。巻ちゃんは週1程度しか連絡をしてこないからオレがメールを送りっぱなしなのだ」
「私には連絡があったのだが、そうか。尽ちゃんにはないのか」
「そうな…何ィッ!?姉上!それは本当か!?」
「嘘を言って私に利点があるとでも言うのか」
「むう…」

東堂は不満そうに唸り声をあげる。
その時、短い電子音が鳴りだした。

「相変わらず初期設定のままなのだな」
「ああ、特に変えたいとも思わなくてな。……尽ちゃん」
「どうしたのだ?姉上」
「巻ちゃんからだ」

通話ボタンを押した双葉に近寄り東堂も耳をすます。

「こんばんは、巻ちゃん」
『3日振りっショ。メールにあった訊きたいことって何?』
「何故尽ちゃんに冷たいのかと思っただけだ」
『ウザイくらい連絡してくるあいつが悪いんっショ…俺は忙しいんだ』
「ウザくはないな!!巻ちゃん!巻ちゃん!!オレにも返事をくれないか!」
「尽ちゃん、勝手に話さないでくれ」
『…帰ってるんすか』

深い溜息と呆れ声に双葉は、巻島がまた面倒なことに巻き込まれるのではないかと思っていることを察した。

「尽ちゃんは今日帰って来たばかりだ。何か不都合でも?」
「1週間は話していないぞ!巻ちゃん!巻ちゃーーん!」
『…ウゼェ。双葉さん、少し尽八と話させてもらっても良いっすか?』
「ああ。構わない」

携帯電話を手渡せば東堂はにこにこと嬉しそうに「巻ちゃん!巻ちゃん!」と話し始めた。

「ウザくはないな!巻ちゃんつれないぞ」

双葉は乾いた髪に櫛を通して真っ直ぐ整える。
同じ馬油入りシャンプーを使っているので東堂に負けないくらい髪がさらさらになっていた。

「姉上、巻ちゃんが代われと言っているのだ」

携帯電話を受け取り双葉は耳にあてる。

「尽ちゃんがすまないな。ああ、そうだ。巻ちゃん、住所を教えてくれて助かった。近々物を送るので楽しみに待っていてくれ。では、また連絡する。おやすみ」

通話を切って振り向けば東堂が膨れっ面で双葉を見ていた。
顔に「面白くない」と書いてある。

「オレ達はベストライバルなのに何故姉上だけなのだー!!」
「尽ちゃん、静かに。近所迷惑だ」
「うっ…すまない… 」

綺麗に整った髪に東堂が指を這わす。
髪は指から逃げるようにさらりと流れた。

「尽ちゃん、機嫌を直したまえ。また連絡は来るだろう。そして何故髪を弄るのか」
「今は諦める。…姉上の髪は綺麗だからな。つい触りたくなってしまうのだ」

枝毛のない綺麗な髪を持つ双葉は目を細め返事をする。

「自分の髪でも弄れば良いのでは」
「姉上の髪の方が綺麗だ。それにオレ自身の髪に触れても楽しくはないからな!」
「私の髪ならば楽しいと言うのか」
「ああ、夢中になるくらいだ」

双葉には東堂の気持ちが分からない。
それでも心底楽しそうに髪を弄るので、このままで良いか、なんて考えてしまうのだった。

「整えてくれて感謝する」
「お安い御用だ!」
「…忘れ物をした。暫し待っていてくれないか」
「いってらっしゃい」

物音立てずに部屋を出て行った双葉を見送り、東堂はベッドに腰掛ける。
巻ちゃんは姉上といつもどんな話をしているのだろう?
そんな疑問がふわりと浮かんだ。
電話で「数日後に尽八に連絡するから待つっショ」と言われたが、自身より頻繁に連絡を取っていることに対して少しだけ羨ましさを感じた。
何処か除け者扱いをされているようで。
そう考えれば自然と頬が膨らむのも仕方がないと思う。

「ただいま」

ノック音を聞いて顔を上げる。

「お帰り」
「尽ちゃん、はい」
「…これは?」

手渡されたラッピングされた箱を軽く揺らせばカラカラと音がした。

「今年はまだチョコを渡していなかっただろう。2月は私が忙しく渡す暇がなかったからな」

そこまで言われ、漸く気付いた。
これがバレンタインのチョコなのだと。

「姉上には必ずお返しするのだ!」
「小遣いが月4500円且つ東堂庵でちょろまかしてお返しし続けている尽ちゃんは何も気にしなくて良いのだ」
「何故それを…!」
「尽ちゃんのことはお見通しだからな。知っていて当然だ」
「しかし折角貰ったのだからきちんとお返しを、」
「甘えなさい」

あーだのうーだの唸る東堂は双葉をちらりと見て苦笑し、頷いた。

「ではお言葉に甘えるとしようではないか」
「うむ、それで良い。あともうひとつ」
「む?」

小さめの紙袋を渡され中身を確認するや否や東堂は目を見開いた。

「誕生日プレゼントも渡せず終いだったからな。気に入ってくれると嬉しいのだが」
「姉上!オレは幸せだ…っ!大切に使わせてもらうぞ!!」

東堂は満面の笑みで双葉に抱きつこうとする、が。

「ぬおっ!何故避けるのだ!?」
「反射的に」
「くっ…!」

悔しそうに眉間に皺を寄せる東堂。

「渡す物は渡したからお暇する。おやすみ、尽ちゃん」

立ち上がり去ろうとする背中に東堂は声を掛ける。

「姉上!ありがとう!」
「ああ」

そして自室へ帰って行った。
その後、双葉から貰った群青色のカチューシャを見ては、にやけるのを抑えきれず頬が緩む東堂であった。


←戻る
top /list