老舗旅館 東堂庵の朝は早い。
旅館に平日も休日もないのだ。
寮に居る時のようにゆっくりは出来ない。
そして、東堂もそれに従うこととなっていた。

「尽ちゃん、起きるのだ」
「ん…」

ゆさゆさと身体を布団ごと揺さぶられ、東堂は寝ぼけ眼のままぼんやりと起床した。
身体に掛かる重みに何度か瞬きをし、小さく欠伸をして目尻に浮かんだ涙を拭う。

「……姉、上?」
「ああ、私だ」
「…、ぬわぁっ!?」

がばっと勢いよく起き上がれば、姉上と呼ばれた女、双葉は東堂の上からひらりと身体を退けた。

「あああああ姉上っ!!」
「そんな呼び名ではなかろう」
「一体なんのつもりなのだ!?」
「なに、尽ちゃんの起床を促しただけだ」
「乗らなくとも起こせるだろう」
「その方が早いだろう。朝食の前に少し手伝ってくれないか。今日は客が多いのだ」
「む、それならば力になろう」

東堂は手早く布団を片付け、部屋を出て行く姉の後を静かに追う。

「団体客がいくつか入っているのか?」
「ああ、尽ちゃんがよく知る人達だよ」
「オレが…?」

はて、一体誰のことを言っているのだろうか。
全く思い当たる人物の居ない東堂は首を傾げるばかりだった。






自室であるプライベート・ルームから本館に戻って来た後はとてつもなく忙しなかった。
母である女将は勿論のこと、仲居のほぼ全員が行き来する館内で、双葉は静かにそれでいて素早く綺麗に動いていた。
使えるものは使う。
それが一人息子の東堂尽八であってもだ。

「はぁ…一体、団体客が何組来るというのだ…?」

尽八は小さく息を吐きながら双葉に声を掛けた。

「尽ちゃんもう限界か?」
「何のこれしき」
「そうか」

先ず、朝一番に旅館内の清掃。
そして帰っていく客を見送り、その部屋の掃除。
滞在中の客には朝食を運び、その後に片付け。
更にこれから来る客に宛がう部屋の掃除と必要な物の整頓。
東堂に休む暇などなかった。

「双葉、少しいらっしゃい」

女将から双葉に声が掛かる。
短く返事をして双葉は、

「後は任せた。すぐに戻る」

尽八にそう言って女将の後を着いていった。

「何用なのだろうか…」

己が何か失態を犯してしまい、それに対する注意を双葉が受ける。
そして後々、東堂に伝えられる。
そんな気がするのである。

「姉上はオレに怒ったことがないからな…」

記憶の糸を幾ら辿っても双葉に怒られた記憶が一度もないのである。

あの表情筋の硬い姉上が怒るとどうなるのだろう。
少し見てみたい気もするが、いや、しかし。
ほんの少し想像して東堂はぶるりと身体を震わせた。
何も失態は犯していないはずだ。
そう己を信じて、置かれた花瓶の水を換えようとそちらに向かった。



程なくして双葉が東堂の元へ戻って来る。

「尽ちゃん、こちらは大体終えた。そちらはどうだ?」
「ああ。こちらも今しがた終えたところだ」
「そうか」

じぃっと姉から視線を受け、東堂は首を傾げる。

「どうしたのだ、姉上」
「いや、なんでもない。次の団体客で今のところは最後だ。一緒に出迎えようではないか」
「ワッハッハ!この東堂尽八、誠心誠意おもてなしをするぞ!」

嫡男である東堂は幼い頃から礼儀作法をその身に教え込まれた。
それに何度か女将と一緒に客を出迎えさせてもらった経験もある。
今更、失敗するような心配も何もなかった。

「行こう。直に到着するはずだ」
「ああ、任せてくれ姉上!」

そう。
何も心配することなど、ないのだから。








「いらっしゃいませ」
「ようこそおいでくださいました」

双葉達と共に東堂も三つ指をついて客を出迎える。
旅館などでは団体の客を迎える時に玄関に並ぶことが多いが、東堂庵は違った。
仲居が玄関に並び、尚且つ双葉達が中で出迎える。
これが老舗旅館 東堂庵のしきたりだった。

「と、東堂さん…」
「む、」

その声は、と東堂は半身を起こし顔を上げた。

「メガネくんではないか!それに金城や後輩くん達も!」

ということは…。
期待に胸が膨らんだ瞬間、そいつは姿を現した。
ウェーブのかかった緑と赤いメッシュの入った髪。
奇抜で目を引くセンスのシャツにジーンズを身に纏った男は、ニヤリと笑んだ。

「クハッ、元気だったか?尽八ィ!」
「…ッ!巻ちゃん!!!」

どうして。
何故此処に。
問いたいことは山ほどあった。
しかし、それ以上に、身体が先に動いた。
だが、立ち上がった瞬間。

「ぶべっ!?」

東堂は一歩踏み出したところで、すっ転んだ。
勿論、双葉の所為である。

「すみません、お客様。うちのものが失礼なことを。よくいい聞かせておきますので」
「あ、姉上…」

酷いではないか!と吼えようとしたが前からは見えない角度で的確に後ろ頭を軽く叩かれる。

「お客様の前ではしたない。興奮を抑えて我慢なさい」
「は、はい」
「では皆様、客間へ案内致します」

すっ、と静かに立ち上がった双葉は東堂の旅館制服を後ろ手で引き、小声で耳打ちをする。

「尽ちゃんの仕事だ。しっかりやるのだぞ」
「…ああ」

東堂は話したいことだらけで、すぐにでも巻島の元へ飛んでいきたかった。
しかし、これは東堂の仕事であり、投げ出すわけにはいかない。
総北メンバーを客間へ案内している間、最後尾で巻島は双葉と何やら会話を交わす。
それに気付いた東堂は僅かに頬を膨らませ、羨ましい、と思いながら案内を続けるのだった。








客間に入り、東堂が下がろうとした時。

「尽ちゃん」
「む、何だね姉上」
「巻ちゃんと話したいのだろう?尽ちゃんの仕事はもう終いだ。好きなように過ごすといい」
「あっ…姉上ぇ…っ!」

ありがとうの意を込めてお辞儀をした東堂に背を向け、双葉は客間を後にする。
襖の向こうで『巻ちゃん!巻ちゃーーーん!!』『うるせぇショ!』というやり取りが聞こえ、

「甘いな、私も」

そう囁くように言葉を溢した。






「そういえば先刻、姉上と何を話していたのだ?」

全員分のお茶を湯呑みに注ぎながら東堂は巻島に問い掛けた。
仕事はもう終いだと言われたのにも関わらずお茶汲みをしているのは、

少しでも多く、もてなしをしなければ。

という思いからの行動である。
東堂から湯呑みを受け取ってお茶を飲む巻島は、言葉を濁す。

「特にこれといった話はしてねぇよ」
「嘘だ。こそこそと最後尾で話をしていたではないか」
「こそこそって…」

むむむ、と見つめてくる東堂に、降参とでも言うかのようにいつもより眉を下げる巻島。

「双葉さんに訊いてたっショ。お前が驚いているのは何故なんだ、ってな」
「ほう。それで姉上はなんと答えたのだ?」
「面白いから黙ってた、だとよ」
「そ、そうだったのか…。姉上も人が悪いぞ…」

巻島達が来るなど微塵も知らなかった東堂は、自分だけが知らなかったという事実に少なからずショックを受けた。

「まぁ確かに面白くはあったショ」
「なっ…!巻ちゃんまで酷いぞ!」
「はいはい。そうだ…。おーい、金城、田所っち!」
「何だ?」
「巻島、どうした?」

東堂の前から立ち上がり、2人の元へ向かい提案する。

「俺達も疲れてるショ。ここは東堂庵自慢の露天風呂にでも浸かってゆっくりするってのはどうだ?」
「お、いいねぇ」
「ちょ、巻ちゃ、」
「小野田たちもどうだ?」
「は、はい!是非!」
「かーっかっかっか!どんだけ豪華な風呂かこの目で確かめたるわ!」
「鳴子、うるさい」
「なんやとスカシ!」

ぎゃいぎゃいと言い合う鳴子・今泉とそれを宥める小野田。
巻島は後輩たちの言葉を聞き理解したのか、東堂の傍に戻って来た。

「お前ももうオフなんだろ?一緒にひとっ風呂、どうだ?」
「ま゛き゛ち゛ゃ゛ん゛!!!」
「うるせぇショ」
「うるさくはないな!ふっ…。そうまで言うなら仕方がない。東堂庵自慢の露天風呂、とくと味わうが良い!」

では着替えを取ってくる!!
そう言って客間を出て行った東堂に巻島は深い溜息を吐いた。

「後悔しているだろう」
「ああ、金城。まさにその通りだ」
「ガハハハ!言っちまったもんは仕方ねぇさ!オイ、鳴子!風呂行くぞ!」
「かっかっか!オッサンより先に行って一番風呂取ったりますわ!」
「な、鳴子くん!そんなに急いでも東堂さんが戻って来ないとお風呂の場所が…」
「今の鳴子には何を言っても無駄だ、小野田」

総北一同も準備をし、東堂が戻って来るのを待ってから大浴場へ向かった。


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