広々とした露天風呂のお湯は快適で心地の良いものだった。
かぽーん、と風呂独特の音が響く。

「はぁ…いい湯だ…」

肩まで湯に浸かり、快適な湯に疲れが取れ、癒されていく。

「そうだろう、そうだろう!自慢の風呂だからな!」
「それは何度も聞いたショ」
「ワハハハ!何度でも言ってやろうではないか!」

髪をアップにした巻島は溜息を吐息に混ぜて吐き出す。
大浴場の端では一年達がわいわいと談笑しながら湯に浸かっており、洗い場では金城と田所が髪を洗いながら会話を交わしている。

「そういえば巻ちゃん達はどうして此処へ?ロードも見当たらないが…」
「ああ、オレ達の学校が明日、創立記念日なんショ。折角の三連休ってことで俺が提案したんだ。家でごろごろして過ごすより有意義だろうと思ってな」
「ほう。やはり泊まるなら素晴らしい旅館で休みたいものだからな!流石はオレの東堂庵といったところか」
「いや、別にそういう訳じゃねぇよ。近場で思いついたのがただ単に此処だっただけで…」
「そうかそうか。まぁそんなに褒めるでないよ。照れてしまうではないか!」
「聞いちゃいねぇ」

舌打ちして露天風呂に浸かりながら空を見上げる。
本日、快晴。
涼やかな風が頬を撫でて心地が良い。

「姉上が巻ちゃんに荷物を送るといっていたな」
「ああ。手を煩わせるから持って帰ろうと思っていたところだ」
「何か欲しいものでもあるのか?」
「……」
「巻ちゃん?」
「内緒だ」
「なんだなんだ、最近巻ちゃんオレに隠し事が多くないかね!?」
「お前に言っても仕方ねぇショ」
「むー…」

ぷくっと頬を膨らませる東堂に巻島は小さく吹き出す。

「大したことじゃねぇショ」
「そうか…」

巻ちゃんはオレに何を隠しているのだろうか?

双葉は巻ちゃんと居ると纏う雰囲気が少し和らいでいる様な気がする。
以前電話をしていた時、電話口の声が僅かに柔らかかった。
巻島からの連絡回数も東堂より双葉の方が多いと最近知ったばかり。
羨ましい、というよりもこれは、嫉妬、なのだろうか。
姉上に?
オレが?
そんな馬鹿な。
浅ましい考えを振り払うように、頭を小さく振った。

「巻ちゃん」
「何だ?」
「風呂から上がったら卓球をしよう」
「断る」
「何故だね!?」
「言っただろ、疲れてるって」
「つれないぞ巻ちゃん!」
「客を労われ馬鹿野郎」

俺はもう上がるぞ、と巻島が呟き湯から出て中へ続く扉を開いた。

「巻ちゃん」
「まだ何かあんのか」
「ではマッサージチェアで癒されながら話をしようではないか!」
「……それならいいショ」

ぐっと小さくガッツポーズをした東堂に巻島は苦笑した。

「本当は一緒に山を駆け上りたい気持ちでいっぱいなのだぞ!何故巻ちゃんはロードを持って来なかっ…こら!無視するでない!」
「はいはい。話は後で聞いてやるショ」

中に戻り、身体に掛け湯をして東堂と巻島は大浴場を出て脱衣所に上がった。








火照った身体を冷ましながらマッサージチェアを堪能し暫くした頃。
客間で金城が東堂に尋ねた。

「この近場にサイクリングショップがあるんだな」
「ああ、オレが昔からお世話になっている店だ」
「この地図によるとサイクリングロードも最近出来たらしいが」
「なに!?」

身を乗り出して地図を覗き込む東堂。
そこには確かに『サイクリングロード箱根』の文字。

「何だ、東堂お前知らなかったのか?」
「知るも知らぬも久々にこちらに戻って来たのだからな…そうか、走れるのか!」

爛々と瞳を輝かせた東堂に巻島は良からぬ思いを抱いた。

「お前まさか…」
「巻ちゃん!走りに行こう!」
「お前風呂場で俺の話ちゃんと聞いてたか?」
「東堂庵自慢の風呂で疲れも吹っ飛んだはずだ!サイクリングロードについて少し訊いてくる!待っていてくれ!」

足早に客間を出て行った東堂に巻島は本日何度目かも分からぬ溜息を吐いた。

「ガハハハ!東堂は朝から元気だな!」
「田所っち…」
「元気なのは良いことだ」
「金城まで…アイツに振り回される俺の気持ちにもなってみろよ」
「考えたくもねぇな」
「同意だ」
「お前らなかなかに冷たいな」

窓から景色を見ていた一年達も会話に混ざろうと近寄って来た。

「なんや、走れる場所あるんすか?」
「東堂が確認をしに行ったところだ」
「でも金城さん、貸し出し出来てもママチャリ程度なのでは?」
「ああ、きっとそうだろう」
「ぼ、僕、ママチャリなら慣れてるから平気です!」
「小野田くんはそうやろうけどワイらは違うからなぁ」
「お、おい、お前ら何考えてんだ、この旅行はあくまでも慰安旅行で日頃の疲れを取るために計画したものだぞ。その疲労を積んでどうするショ!」

巻島がそう言うと一同は静かになる。
数週間後に控えたレースの為にも普段は感じられない癒しを求めて、この東堂庵にわざわざ足を運んだのだ。
走っていては何の為に来たのか分からない。

「巻島さんは走りたくないんすか?」

鳴子の問いに巻島が言葉を詰まらせた。

走りたくない、といえば嘘になる。
寧ろ走りたい。
しかしこの旅行の言い出しっぺは巻島であり、その巻島がそれに同意してしまっては意味が無いのだ。

「それは…」

言葉を紡ごうとした時、襖が開く。

「待たせたな!自転車の貸し出しも良いと許可を頂いた!さぁ皆の衆!走りに行こうではないか!!」

元気な東堂の声が部屋に通った。

「そうと決まれば行きまっせ!スカシ、勝負や!」
「飛ばしすぎて千切れても知らないぞ」
「アホぬかせ。それはお前の方やろ」
「ま、待ってよ鳴子くん今泉くん!」
「さて、オレ達も行くか」
「ああ」
「お、おい!待つショ!みんな本気か!?」

ぞろぞろと客間を出て行くみんなに巻島は声を荒げる。

「巻ちゃん」

ポン、と肩に置かれた手に巻島は東堂を見る。

「観念するのだな」
「……はあ…」

巻島の心も知らずに東堂は背中を押して客間から出た。








東堂庵の廊下を歩いていると双葉とばったり遭遇した。

「おお、姉上」
「これから何処かへ行くのかい?」
「ああ。皆とサイクリングロードへ行って走ってくる。あそこはママチャリしか貸し出しがないと言っていたので、巻ちゃんと全力で走れないのが残念だが…」
「…そうか」

顎に指をあてて何かを考える仕草をした後、双葉は思い立ったように東堂の手を引いた。

「あ、姉上…?」
「着いて来たまえ。巻ちゃんもだ」
「はい」

思わず敬語になる巻島。
2人は双葉の後をついて静かに歩く。
東堂は恥ずかしくて双葉に掴まれた手をそっと解いた。
本館を離れ、母屋の脇の庭に入り、倉庫の前に立つ。

「こんなところに倉庫などあったのか…」
「尽ちゃんはこちらに来ないからな、気付かなかったのだろう」

プライベート・ルームの隣に建っている小さな倉庫の鍵を開け、双葉は扉に手をかけた。
ギィィィ…、と重苦しい音を立てて開いた扉の先にあったものを見て、東堂と巻島は目を丸くし声をあげた。

「ロード…!?」
「何でこんなところにあるんショ…」

しかも二台も…、と巻島は呟く。

「私の私物だ。私の使用する倉庫にあっても何ら不思議ではなかろう」
「え、姉上の?」
「そうだ」

青と白のRIDLEY、トリコロールカラーのTIMEをじぃっと見つめる2人に双葉は声を掛ける。

「巻ちゃん。これで走ってくると良い」
「フランスエディションって最高級じゃないすか。なんか申し訳ないショ」

そう呟いた巻島の丸まった背中をバシンと叩く。

「私が許可を出しているのだ。サドルは自分で調節してくれ」

そして言葉を続ける。

「全力で、走って来い」

力強い眼差しを受けた巻島は頷くことしか出来なかった。








「巻ちゃんいいなー」

双葉は言葉を並べるだけ並べ、早々に仕事へ戻っていった。アーレンキーでサドルの高さを調節する巻島に座り込んだ東堂がぼやく。

「は?何がショ」
「姉上のロードだぞ?オレも乗りたいに決まっているではないか!」
「ああ…」

シスコンな東堂の言葉に巻島は、こいつアホか、と思う。

「お前には自分のがあるだろ」
「オレも乗ーりーたーいー!」
「ガキか」

ごつん、と東堂の頭をアーレンキーで軽く小突いてやれば涙目で吼えてくる。

「痛いではないか!アーレンキーは殴る為の工具ではないぞ!」
「知ってるっつーの」
「それにこの美形である東堂尽八の頭が凹んだらどう責任を取るつもりかね!」
「軽く小突いただけだろ、大袈裟な」

キュ、とアーレンキーを締めてサドルの位置調整も終了した。

「終わったか。さぁ巻ちゃん!山頂まで共に登り競い合おうではないか!」
「待て。金城に連絡しとく」

携帯を取り出し、電話を掛ける巻島。

「これからオレ達ちょっくら山登ってくるショ。ああ、悪いな。そっちは頼む。先に終わったら部屋に戻っていてくれ」

ピ、と通話を切り東堂に視線を戻す。

「サイジャに着替えるショ」
「持っているのか?」
「借りに行くんだよ、サイクリングロード箱根に」
「ああ、なるほど」

ポン、と手を打った東堂に巻島は苦笑する。

「もう戻る時間も無い。お前もついでに借りるショ」
「仕方あるまい。そうさせてもらおう」

2人は其々のロードに跨り、サイクリングロード箱根を目指し地面を蹴った。








結果からいえば、山頂を制したのは巻島だった。
東堂はすいーっ、とロードを寄せて隣を走る。

「良い走りをありがとう、巻ちゃん」
「こちらこそショ」

息を整えながら2人は手をパチンと合わせた。
時刻は正午。
じりじりと肌に照りつける日差しに東堂も巻島も汗だくであった。

「帰ったらまたひとっ風呂浴びよう」
「俺もうシャワーでいいショ」
「ならん!ならんよ!しっかり湯船に浸かるのだ!」

ビシッと巻島を指差す東堂に、巻島は眉間に皺を寄せた。

「お前はオレの母親かよ」
「ワッハッハ!身体は労わらねばならんよ巻ちゃん!」
「走る前のお前に聞かせてやりてぇ台詞だなオイ」

坂の斜度に任せて下山しながら他愛も無い会話を交わす。

「それにしても姉上は何故ロードを二台も持っているのだろうか」
「さあな。直接双葉さんに訊けばいいじゃねぇか」
「何か事情があるのかも知れん。そう簡単に訊けたら苦労はせんよ」
「そんなもんかぁ?」
「うむ」

キリッと真面目な顔つきになった東堂は思案する。
ロードを持っているなら乗っているということは確実である。
しかし何故二台も?
RIDLEYとTIMEなんて値の張る物を所持していたのか?
そもそもロードに乗っていることも、ロードが好きだということも聞いたことがなかった。

「……東堂?」
「…ああ、すまない。少し物思いに耽ってしまった。このサイジャはどうすれば良いのだろうか?」
「洗濯する必要はないらしいショ。貸し出しにも金取られてるしな」
「そうか」

そうこうしているうちに2人はサイクリングロード箱根に辿り着いた。
そこには走り終えて片付けをしている総北メンバーの姿があった。

「お前らまだ戻ってなかったショ?」
「ああ。鳴子と今泉の対決が予想以上に白熱してしまってな」
「ああ、なるほど」
「かーっかっかっか!ワイの勝ちや!約束通りなんか命令させてもらうでな!ス・カ・シ・くん」
「くっ…」

眉間にぎゅっと皺を寄せる今泉は心底悔しそうだった。
その傍で小野田が鳴子と今泉を見てオロオロしている。

「十分走れたみてぇだな」
「あっ、巻島サン!東堂サンとの勝負はどうやったんすか!?」
「フッ…勿論この東堂尽八が山を制したぞ!……と言いたいところだが…」
「オレが勝ったショ」
「わぁ…!巻島さん凄いです!かっこいいです…っ!」
「おめでとうございます巻島さん」
「かっかっか!山神の名が泣きまっせ〜?」
「鳴子と言ったか。今から勝負するか?」
「あー、ワイ走ったばっかでクタクタやであきませんわー」
「逃げるのかね?」
「…誰が逃げるやて?ええですわ、その勝負買ったろやないですか!」

ぎゃいぎゃいと喚く鳴子とそれを煽る東堂。
巻島が、もう見ていられない、と声を掛けようと口を開いた時。

「鳴子。やめておけ」
「なんでですか部長サン!」
「互いに力を使い切っている。お前も息が上がっているだろう。そんな状態で戦っても無駄だと言っているんだ」
「そうそう。鳴子も諦めてさっさと戻るんだな」
「ぐっ、オッサンまで…!」
「鳴子。諦めろ」

重圧を感じた鳴子は、大きく溜息を吐く。

「はいはい、分かりました〜。東堂サン、勝負はお預けでっせ」
「ああ。また戦おうではないか」

ぽんぽん、と頭を撫でてやれば鳴子は、子供扱いすんなや!と吼えた。

「巻島、そのTIMEは誰のものだ?」
「東堂のお姉さんのものショ」
「ほう」

じろじろとTIMEを見つめる金城は、にっこりと笑って、

「東堂、良いお姉さんを持ったな」
「ハハハ、当然だ!」

東堂の中の双葉像が更に高みへと上った午後のことだった。



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