巻島達が帰る日、つまり月曜日。
東堂も実家から寮へ戻る日が訪れた。
早朝、誰も居ない本館の廊下を静かに歩く。
「む、」
本館の庭で双葉が座り込んでいるのを見つけた東堂はそちらに駆け寄った。
「姉上、おはよう」
「尽ちゃん、おはよう」
「何をやっているのだ?」
双葉の隣に座り込む東堂は視線を追った。
「鯉の餌やりか」
「ああ。大きくなってもらわねばならん」
「いつも姉上が?」
「そうだ」
ぱくぱくと口を開閉させる鯉に餌をやる姉を見つめ、池に視線を落とす。
「姉上、オレに隠し事をしていないか?」
「藪から棒に、何の話だ」
「例えば…巻ちゃんのこと、とか」
「荷物のことか?」
餌をやり終えた双葉は東堂に目を向ける。
真っ直ぐな瞳に東堂はふいっと顔を背けた。
「それも…あるが、」
「歯に物が詰まったような言い方をする。らしくないな。熱でもあるのかい?」
「…っ!」
ひたり、と冷たい掌が東堂の額を覆う。
まるで氷に触れているかのような冷たさだった。
その冷たさが何処か心地良い。
「熱はないようだな」
「勿論だ。オレは元気だぞ!」
「では何故そんな顔をする?」
そんな顔、とは。
指摘され、東堂は己がしょぼくれた表情を浮かべているのだと初めて自覚した。
「姉上は…狡いのだ…」
「何の話だ」
「巻ちゃんと頻繁に連絡を取り合っているのだろう?何か荷物を送る為に住所まで聞いたと言っていた。オレですらそこまで巻ちゃんに踏み込んでいないというのに!」
「尽ちゃん、もしかして」
嫉妬しているのか?
その言葉に東堂は生唾を飲み込んだ。
「尽ちゃんは私に嫉妬しているのか?」
再度問われたその言葉に、東堂は頭が混乱する。
実の姉に嫉妬するなど見苦しいものがあってたまるか。
しかし、では何故心に靄が掛かったような気持ちになるのか。
「よく、分からないのだ」
「そうか」
よしよし、と優しく、セットした髪が崩れない程度に撫でられ東堂は目を細める。
姉上と居ると落ち着く。
その手に触れられただけで安心する。
いつもの突っ張った言葉は出てこない。
「本当に、大したことではないのだ」
「ならばオレにも言えるだろう?」
「口止めされている」
「……姉上は誰にでも優しい。だから…」
皆、勘違いしてしまうのだ。
その言葉は声にならずに消えていく。
「尽ちゃんから巻ちゃんを取ろうなんて思っていない。安心するといい」
「そんな心配はしておらんぞ」
「そうかい?では何故泣きそうになっているのだ?」
泣きそう?
誰が。
そう思った刹那、頬に水滴が垂れる。
自分が涙しているのだと漸く気付いた東堂は、手の甲でぐいっとそれを拭った。
「ワハハハ!泣いてなどおらんよ!」
「そうか。どうやら私の見間違いだったようだな」
姉上は優しい。
時々、触れれば壊れてしまうのではないかと思ってしまう程に。
「口止めされている、ということは巻ちゃんがそう言ったのだな?」
「ああ。そのうち話してくれるさ。きちんとそう私が言っておいたからね」
「仕方ない。ではその時を待つとしようではないか」
まったく巻ちゃんは…と溜息を溢せば双葉は東堂の頭を撫でながら相槌を打ち、話を聞いていた。
「そろそろ皆が起きてくる頃だ」
「む、もうそんな時間か」
「尽ちゃんも今日、寮に戻るのだろう?」
「ああ。有意義な時間をありがとう、姉上」
「私こそ、久々に尽ちゃんと話が出来て良かったよ」
握手を交わして並んで歩き、庭を後にした。
「お世話になったショ」
荷物を積んだバスから、巻島が礼を言いに戻って来た。
「どういたしまして。また来てくれると嬉しいな」
「その時は頼みます。オイ、尽八」
「何だね巻ちゃん」
「お前は走って帰るのか?」
「ああ。本当は途中までバスに乗せてもらいたいところだが、ロードで此処まで来たからな」
「そうか。IHでまた会おう」
「勿論だとも!また連絡するぞ!」
「鬼電は勘弁してくれ」
「ワハハハ!」
巻島達を乗せたバスは一度大きく揺れ、何事もなく東堂庵から去って行く。
「尽ちゃんももう行くのだろう?」
「ああ」
サイジャに着替えた東堂はRIDLEYに跨って双葉と目を合わせた。
「3日間ありがとう、姉上」
「また恋しくなったら戻って来るといい」
「ではIHが終わったら一度戻って来ようではないか」
「ああ。楽しみにしているよ」
東堂はニヤリと笑み、地を蹴って東堂庵を後にした。
バス車内、巻島はぼんやりと物思いに耽っていた。
一年以上会っていなかった双葉は益々美しくなっていた。
巻島は双葉へ特別な感情など抱いてはいない。
東堂は何やら訝しげな顔で巻島のことを見ていたが、実際は何もない。
人間として双葉のことは好きだ。
ただ、それは尊敬の意であり、恋慕ではない。
かわいい、綺麗だ、それくらい思っても罰は当たらないだろう。
昨日、走りに行った後、再度風呂に入ろうとした時、双葉に話し掛けられたのを思い出す。
「本当にあれで良かったんショ…?」
双葉に掛けられた言葉に最初は驚いたが、理解出来たと同時にその言葉は、ストン、と胸に落ちた。
"巻ちゃんにしか話せないことだ"
そう言われてしまっては、話に乗る他に選択肢はなかった。
巻島は小さく溜息を吐いた。
考えるのを放棄した巻島は大きく欠伸をして、椅子に凭れ、睡魔に身を任せた。
「で、どうだったのォ?」
RIDLEYから降り、指定の位置に置いてロッカーを漁る東堂に荒北は声を掛けた。
「充実した3日間だったぞ!」
「それくらいオメェの顔見りゃ分かンだヨ」
ニヤニヤしやがって、と荒北は毒づく。
パワーバーを咀嚼しながら新開は荒北の言葉に続く。
「双葉さんには会えたのかい?」
「ああ。元気だったぞ」
福富は勿論のこと、荒北や新開も双葉のことは知っていた。
Ms.箱学である為か、卒業するまではかなり目立っていた。
それに東堂が入部してから何度か部室へ足を運んだこともあった。
荒北や新開にとって、双葉はお姉さん的存在でもあったのだ。
「また皆で東堂庵に来てくれ、と言っていた」
「だったら是が非でも行かなくちゃな!」
「そう伝えておこうではないか。ああ、そうだ。温泉饅頭、買ってきたぞ」
「ヒュウ!流石、尽八!」
「新開、オメェ節制するんじゃネェのかヨ!」
「饅頭は別腹だぜ」
東堂はボトルに口をつけ、ごきゅりと喉を鳴らす。
「ふぅ…。そういえば、フクはどうした?」
「顧問に呼ばれて職員室にいるヨォ」
「そうか。饅頭も分けておかねば隼人が全部食ってしまうな」
「うめぇぞ靖友。おめさんも食う?」
「もう3個目かよ!食いすぎだろバァカチャン!」
そんな2人を尻目に、東堂はメットを被りRIDLEYに手を掛ける。
「では走りに行って来るぞ!」
「おめさん帰って来たばっかだろ。休んでいた方がいいんじゃないか?」
「何を言う。もう充分休んだ。隼人こそサボるなよ?」
「それを言うなら真波だろ」
「そういえば今日もまだ見てねェなァ、不思議チャン」
「尽八、登る途中で真波見つけたら連れて来てくんねぇか?」
「ああ、任せろ」
東堂は山頂を目指してペダルを回す。
ロード日和な天気の良い、昼中のことだった。
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