IHを無事に終え、東堂は実家である東堂庵に再び足を踏み入れる。
姉である双葉の部屋の扉をノックすれば小さく声が聞こえ、勢いよく扉を開いた。
「姉上!走りに行こう!」
「……」
そこには着替え中で胸元を肌蹴させた双葉がこちらを見ていた。
「すまない!」
身体を反転させ双葉を見ないようにし、部屋を出ようとした、が。
「出て行く必要はない。直に着替えも終わる」
「しかし…」
「話がある。そのまま聞いてくれたまえ」
「う、うむ」
「まずはおかえり、尽ちゃん」
東堂は双葉に背を向けたまま返事をする。
「ああ、ただいまだ」
しゅるり、と帯の擦れる音が耳に届き東堂は赤い顔を隠すように手で覆った。
「IH、惜しかったな」
「だがオレは山頂を取った。あの巻ちゃんに勝利したのだ。山神として当然だがな!ワハハハ!」
「泣いてはいないのか?」
「…少しだけ、」
そこまで言って、東堂は背中に温もりを感じた。
双葉が優しく抱きしめてくれたのだと気付き、涙腺が緩む。
「恥ずかしがることは何もない。悔し涙は未来への一歩だ」
「…っ、」
ぽろ、と涙が一筋、頬に伝う。
そこで初めて東堂は自身が泣いているのだと理解した。
「悔しいのだ…血汗滲むような努力をしてきたオレ達が、よもや負けるなど…っ!」
「よく頑張ったな」
よしよしと頭を撫でる双葉に東堂は微かに嗚咽を漏らす。
暫くそうしていたが涙が止まり双葉の腕から解放される。
「すまない、みっともない姿を見せてしまった」
「構わないよ」
着替え終わったぞ、という声に東堂は双葉を見て、言葉を飲み込んだ。
「姉上、それは…」
「何か可笑しいか?」
振り向いたそこにはTIMEのサイジャを身に纏った双葉の姿があった。
ぴったりとフィットしたサイジャは豊満な胸や身体のラインを強調させている。
「走りに行くのだろう?」
双葉はそう問うた。
晴々とした山の空気を胸に取り入れながら登る、登る、登る。
音もなく登る東堂と、それに千切れず一定の距離感を保ちながら後方に続く双葉。
「まさか姉上がサイジャを持っているなんてな!」
そう言うと双葉は当然だとでも言うかのように、
「RIDLEYのサイクルジャージもあるぞ」
「何故、今日はTIMEなのだ?」
「その方が巻ちゃんと走っているように思えるだろう?」
「それは無理があるぞ、姉上」
「冗談だ。単にそういう気分だっただけだ」
東堂には双葉の気持ちが分からない。
ただ、気分で決めた、と言われればそこまでである。
「姉上は偶に走るのか?」
「いや、毎日の習慣になっている」
坂を?と訊けば、山を、と言われ驚く。
双葉曰く、まだ日が出ていない早朝に霧の漂う山を登ることが日課らしく、東堂は関心した。
旅館の仕事もしながら、早朝の山登り。
一体いつ寝ているのだろうか、と心配になる。
「朝に走らねば1日のリズムが崩れてしまう」
「梅雨時はどうしているのだ?」
「ローラーで我慢をしている」
そう言われてみれば、と記憶を辿る。
双葉の部屋の隅に三本ローラーが置かれていたような気もする。
「だが私はまだ数年しか走っていない。尽ちゃんに教わることが山積みだ」
「何でも訊いてくれ。懇切丁寧に教えようではないか!」
「…そろそろか。尽ちゃん、回転数を上げるぞ」
「ああ!」
ダンシングで斜度のキツい坂をなんなく登って行く。
ああ、楽しい。
心が躍るようだ。
姉上と走っている今が夢のようだ。
東堂は緩む頬を引き締めてペダルを更に回した。
山頂は空気が澄んでいる。
爽やかな風が東堂と双葉の頬を撫でた。
「心地良いな」
双葉がそう呟けば東堂はそれに同意し頷いた。
「少し休憩していこう」
樹にロードを立て掛けて周りを見渡し空気を吸い込む。
「そうだ姉上、仕事の方は良いのか?」
誘ったのはオレだが。
そう続けると、双葉は、
「問題ない。今日は私はオフだからな」
「そうか。それを聞けて安心だ」
小さくなった街並みに東堂は目を細める。
「尽ちゃん」
「む、何だね姉上」
「今年も誕生日が過ぎてしまったな。代わりに好きなものをあげよう。何でもいいぞ」
「何でも、か…」
そう言われても困る。
東堂はあまり欲が無い人間だ。
ただひとつ言うならば、姉上が欲しい、と。
心の底ではそう思っていた。
「私?」
「あ、」
本音が声に乗ってしまったらしく慌てて口を塞ぐが既に遅く。
「ふむ、」
顎に指を宛がい思考を巡らす双葉に、東堂は穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだった。
「尽ちゃん」
「な、何、…っ、」
何だね、と言おうとして言葉を飲み込んだ。
双葉が東堂の唇を奪ったのだ。
ちゅ、とリップ音を立てて離れた双葉の唇は唾液で濡れ、妖しく見える。
「姉、上…」
「私が欲しいのだろう?」
「いや、独り占め出来ればそれで良かったのだが…」
そう告げれば双葉は、ああ、なるほど、と手を打った。
「すまない。勘違いしてしまった」
「いや、」
寧ろ嬉しい、なんて言えるものか。
また巻島に「シスコンも大概にしろショ」と呆れ顔で言われる未来が容易く想像出来てしまった。
「尽ちゃん」
「む?」
「私はね、嬉しかったんだよ」
ふわり、と。
風が双葉の滑らかな髪を揺らす。
東堂を見つめ、優しく微笑んだ。
初めて見た心からの笑顔に、東堂の鼓動が急激に加速する。
「そ、そうか」
「さて、そろそろ朝食の時間だ。尽ちゃんはどうするんだい?」
「もう少しこの景色を堪能してから下山するつもりだ」
「では、お先に失礼するよ」
そう言うと双葉は樹に立て掛けていたTIMEを起こして跨り、斜面に力を預けて下っていった。
「はぁああ…」
東堂は力が抜け、へたり、とその場にしゃがみ込む。
まさか、姉上からあんなことをされるなんて。
恥ずかしさとそれを上回る嬉しさに頭の中がぐちゃぐちゃになる。
慣れた手つきで携帯を操作し、巻島に電話を掛けた。
「もしもし巻ちゃーん?3コールで出るなんて珍しいな!オレは嬉しいぞ!そうだ、珍しいと言えばだな―――」
今しがた起こった出来事への興奮が覚めやらぬまま、東堂は楽しそうに話を弾ませた。
真っ青で綺麗な空。
それはまるで永遠に続いているかのようだった。
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